10月は誕生月!そして京都の旅 ~吉田神社(2)~
遠近孝一です。
吉田神社(1) のつづきです。
本宮から龍澤池(たつざわのいけ)を右手に日降坂(ひふりざか)を上っていくと、
吉田神社の代名詞ともいえる
末社 『斎場所大元宮(さいじょうしょ だいげんぐう)』があります。
↑大元宮の正式名は 『日本最上神祇斎場所日輪大神宮』。(舌を噛みそう…)
『大元宮』 は、
入母屋造りの屋根をのせた八角形の珍しい社殿で、
裏手には
六角形の後房(こうぼう)が付属しています。
文明16年(1484年)に
当時の神職 吉田兼倶 (よしだ かねとも) によって
室町にあったという吉田家の屋敷からこの場所へと移されました。
現在の社殿は、
慶長6年(1601年)に豊臣秀頼の母淀殿の申し出によって再建されたもので、
重要文化財に指定されています。
↑中門。
今回は残念ながら門より内側には入れませんでしたが、
毎月1日、正月三が日、節分祭の期間は
中に入って拝観することができるそうです。
↑八角形の意味するところは “宇宙” 。
『大元宮』 は、
千木(ちぎ)の形や屋根の金具にいたるまで
『吉田神道』(よしだしんとう)の原理を表しています。
吉田神道 というのは、
応仁の乱後の文明16年(1484年)に
吉田兼倶(よしだ かねとも) が完成させた神道の流派で、
「唯一神道」ともいいます。
簡単に言うと・・・
“神道こそすべての宗教・思想の根幹である” という考え方ですね。
吉田神道 は明治になるまで
全国の神職のほとんどをその支配下に置き、
絶大な権威を誇っていました。
その根本殿堂(総本山)が、この 『大元宮』 です。
↑賑わう大元宮。『都名所図会』より (国立国会図書館 蔵)
末社である 『大元宮』 の知名度は、本社を凌ぐものがあったとか。
大元宮のほうを「吉田社」、
本社は「春日社」として区別されるようになっていったみたいです。
主祭神の太元尊神(たいげんそんしん)のほか
境内には 東神明社、西神明社、東西諸神社3132座 が祀られており、
ここを参拝すると
なんと日本中の神様の御加護が授かれるそうです。
さて。
少し戻りますが、
本宮から 斎場所大元宮 へと上る坂道の途中には、
もうひとつ別の神社があるんです。
↑本宮から『大元宮』へと続く日降坂(ひふりざか)。奥に見える朱色の神社は・・・
『山蔭神社(やまかげじんじゃ)』
吉田神社を創建した 藤原山蔭(ふじわらのやまかげ) を祀る神社です。
↑藤原山蔭。 “四条中納言”と呼ばれました。(国立国会図書館 蔵)
藤原山蔭 は
平安時代の料理道を確立した人と言われていて
四条流庖丁道の祖 とされています。
そのことから
庖丁・料理・飲食の神様として信仰されるようになり、
この神社は昭和34年(1959年)に
全国の料理関係者たちの協賛を集めて建立されたそうです。
↑料理が上手になりたい人は、ぜひ!
この 山蔭神社 から少し坂道を上るとちょっとした広場があり、
歌碑の横に小さな石柱が建っています。
↑『今宮社址』の石柱。
現在ふもとの二の鳥居の脇にある 『今宮社』 が
文化13年(1816年) まで建っていたという場所は、
ここだったようです。
すきらじ第48回
『織田信長の相撲大会(その2)』 で紹介したエピソード、
覚えていますか?
織田家家臣で京都所司代の 村井貞勝 が、
天正7年(1579年)に、
木瓜大明神 (今宮社) での勧進相撲を中止させたことが
神職であった吉田兼見の日記 『兼見卿記』 に記されています。
当時の相撲は荒々しく、
賭けも横行していたことで喧嘩や刃傷沙汰が絶えず、
所司代が吉田神社に相撲を中止させたというお話です。
↑“木瓜大明神社”の跡地。
ここで屈強な戦国力士たちが相撲を取り、
それを見物する観衆であふれていたんですか・・・。
感慨深いです。
・・・しばし空想に浸ったあとは、
坂道を戻って
“お菓子の神社” へと向かいましょう。
by遠近孝一
※吉田神社(その1)に追記しました。