10月は誕生月!そして京都の旅 ~吉田神社(1)~
遠近孝一です。
先日、京都に行ってまいりました。
春と秋の京都は寺社の特別公開も多く、
今回はそれらを狙って出かけたという次第です。
京都の町はとにかく史跡だらけ。
限られた日数を有効に活用しないといけません。
すきらじ で紹介できそうな場所を吟味して散策してみました。
まずは すきらじ でもおなじみ、
日記 『兼見卿記』 の著者・吉田兼見ゆかりの神社、
吉田神社 からスタートです。
↑神社正面に建つ 『一の鳥居』。
吉田神社は、
吉田山の西側の中腹、
左京区吉田神楽岡町(よしだかぐらおかちょう)にあります。
2月の節分祭は室町時代以来の伝統行事で、
毎年大変な賑わいになるそうですよ。
↑表参道を進んだ先に建つ 『二の鳥居』。
鳥居の左側には末社の 『今宮社』 があります。
今宮社は “木瓜大明神(こうりだいみょうじん)” とも呼ばれ、
文化13年(1816年)に現在地に移されました。
すきらじ第48回 を聴いてくれた人はピン!ときたんじゃありませんか?
くわしくは後ほど。
社殿の周りには、方位を守る 四神石 があります。
↑東南に青龍石。
↑西南に白虎石。
↑西北に玄武(亀)石。
朱雀石は、社殿の中に置いてあるそうです。
※ちなみに・・・
みーぽんは青龍石の位置にずっと首を捻っていました。
たしかに、なぜ東北ではなく東南なんでしょうね。
なにか理由があるのでしょうか
さてさて、
再び参道に戻って本宮へと向かいます。
↑吉田神社の本宮。
平安時代初めの貞観元年(859年)、
藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)によって奈良の春日大社より四柱を勧請し、
平安京における藤原一族の氏神社としたのが始まりだそうです。
藤原山蔭は、
藤原氏北家の傍流にあたる平安貴族で
系図の上では伊達政宗の先祖にあたる人です。
↑春日大社というと・・・、ありました!「鹿」の青銅像。
昭和57年(1982年)までは、
境内の一角を柵で囲って鹿を飼っていたんだとか。
数が増えてしまったことや近隣への配慮から飼育を打ち切ったみたいですね。
この青銅像は昭和60年(1985年)に設置されたということです。
↑中門
↑本殿。見えているのは第二殿と第三殿。
春日造りの本殿は、
第一殿から第四殿まで横一列に並んでいます。
第一殿の御祭神は、
健御賀豆知命 (タケミカヅチノミコト)
「古事記」の国譲り神話で天界から地上に派遣されてきたすごく強い神様です。
すきらじ でも紹介した相撲の神様ですね。
第二殿
伊波比主命 (イワイヌシノミコト)
健御賀豆知命と共に国譲り神話で活躍した天界の神様です。
この二柱は藤原氏の守護神として、セットで祀られていることが多いです。
第三殿
天之子八根命 (アメノコヤネノミコト)
藤原氏(中臣氏)の先祖とされている神様です。
第四殿
比売神 (ヒメガミ)
天之子八根命の奥さまです。夫婦仲良く、ですね。
この四柱の神様は、
藤原氏の守護神と先祖神であり
合わせて“春日神”や“春日権現”と呼ばれています。
↑国宝 『上杉本 洛中洛外図屏風』に描かれた戦国時代の吉田神社。
(京都市平安京創生館の陶板画より)
本殿の4棟は、応仁の乱で残念ながら焼失。
その後、天文3年(1534年)に造営されて以降は、
改修を重ねて現在に至っているそうで
中門や東西の御廊(回廊)とともに京都府指定文化財になっています。
近くで見ると社殿の老朽化が目につきました。
来年の5月29日から9月2日まで改修工事予定とのことです。
↑屋根の修復に微力ながら協力させていただきました。
吉田神社の境内地は3万5215坪。
本社(本宮)の周りには、付属する摂社や末社がいくつかあります。
摂社・末社というのは神社の格式のひとつで、
本社を頂点に、摂社→末社と格式が下がります。
摂社【若宮社】
もとは本社に祀られていたものが転々としたのち、
慶安元年(1648年)に現在地へ落ち着いたそうです。
↑社殿は京都府の指定文化財。
御祭神は「水徳の神」とされています。
↑若宮社への階段脇に置かれている『さざれ石』。
『さざれ石』というのは
水に溶けた石灰質によって小石が固められてできた岩のことで、
“悠久の繁栄”をあらわすお目出度い岩です。
国歌「君が代」にも歌われていますよね。
この岩は、30年ほど前に岐阜県春日村から奉納されたものです。
摂社【神楽岡社】
吉田山(神楽岡)の土地神様を祀っています。
カミナリ除けの神様でもあるようですよ。
平安時代の延喜式にも
「霹靂神(へきれきじん)、神楽岡に坐す」と記載されているらしく
相当古くからあるようです。
↑「若宮社」「神楽岡社」の高台からは本宮が見渡せます。
↑『龍澤池(たつざわのいけ)』。
この池は、
奈良の猿沢池(さるさわのいけ)を模して作られたと言われています。
昔から大蛇が住んでいるとの伝承があり、
“日照りでも水が枯れない”ことから、
明治になるまで雨乞いが行われていたとか。
その後、水源が失われ
豪雨で土砂に埋もれていたところを、
平成11年(1999年)に復元されたということです。
さて、
龍澤池を右手に見ながら
日降坂(ひふりざか)を上っていきましょう。
【追記】
『今宮社』の四神石の方位に関するみーぽんの疑問について
読者の方から以下のご意見をいただきました。
ありがとうございました
あれは呼び名が間違ってますね。
恐らく製作者が「白虎」として作ったものが『玄武』と呼ばれ「玄武」として作ったものが『白虎』扱いされてるのです。
考古学かじった人間ならばどこが玄武やねーん(/;´д`)/てなるはずです
玄武は単なる亀ではなく、蛇と合体した亀さんなのです
従って、『白虎』と呼ばれてるうねうねは蛇の名残と思います。
ここからは、自信ありませんが吉田神社の鬼門に当たりますよね?朱雀を異常に大事にされてるのは、朱雀門といって赤の鳥居を連想させ強力な守護の役目を果たしてること、それと雨乞いに関連あるようでしたら朱雀はじつは水の守り神であるので2つの意味も考えられますよん(´ω`)
とりあえず、まず「鬼門だから朱雀大事~」から始まり、〝本来の方角と関係なくとりあえず朱雀を中心にして『配置』のみ合わせた〟が有力でしょう。、と、思います(´・ω・`)
「それならナットク!」
ちなみに現地の案内板を参考までに。
by遠近孝一