”左官魂” | 左官日和

左官日和

日々、七転八倒の左官日和。


「左官魂」とは何なのか、つきつめるといまだにわからなくなります。何をやるにしても“魂”が重要というのはなんとなく分かります。しかしわざわざ「左官」の「魂」といったときの私はどんな思いだったのかとあらためて考えると、ちょっとピントが合わずにぼやけてきます。左官をやっているのですから人よりは少しでも考察していなければおかしいですから、わからなくなると言い切ってしまうのは稚拙な開き直り、思考停止を曝け出しているだけになってしまうのかもしれません。

この日も左官の魂というよりは普通に抽象的な魂についてごちていたようにしか思えません。

当時、私の経験値からしたら普通では考えにくい現場を任されていました。それを「師匠」も驚くしかなかったようで、自分の目で確かめたかったのか、遠くまで現場を見に来てくれることもありました。真壁でキリが良いところを手本として塗ってくれたりしたこともありました。全体としては師匠の想像よりは一定以上のレベルで仕上がっているとの見え方だったようでした。そうでなければ人様の壁を塗るなどあり得ませんが。

ただ、思い出してみると当時思い悩んでいたことなどほとんどが取るに足らないものでした。規模も内容もそれくらい出来ないでどうする、と言えなくもなかった感じです。もちろん重要な悩みもあって、むしろそれはいまだに継続しています。ただ、それは仕事がきちんと収まった上での話です。

だんだん思い出してきましたが、「左官魂」は師匠からだったか、師匠の「弟子筋」からだったか、とにかく譲ってもらったTシャツの背中にデザインされていた言葉でした。その言葉に感応して記憶に焼きついていて、ふとした拍子に思い浮かんだのかもしれません。

そういえばこの記事には唯一コメントがついていました。ついていたことに気づかずにいてだいぶ間が空いてから私もコメントを返したのですが、当たり前ですがそれっきりです。


こういう風に考えていると、不思議と現状に影響が出ることがあります。今回は、なんと「師匠」とまとまった期間としてはほとんど初めてと言って良いくらいに同じ現場に入ることになりかれこれひと月過ごしています。正確にはもともと私が入っていた現場に程なくして師匠が入って来たのでした。何にしても不思議なものです。

「師匠」は相変わらずで辛口ですが、この業界に珍しいユーモアとウィット、インテリジェンス、鋭い感性と知性に溢れていて、振る舞いと静かな一言で、凡百の伝わらない怒鳴り声では全く届かない急所まで箴言として鍼師のように突いてきます。

そんなひと月は貴重でした。ひょっとしたら左官魂が何なのかについてあれこれ考えていて相変わらず答えを出せずにいるところに刮目させるために現れたのかもしれません。そんな気がします。

まだまだ足らないどころか、ある意味では経験の浅い時分が身の丈以上と感じる現場で苦闘していた頃よりも衰えている部分があることに向き合うことになっています。萎える暇はありません。