克己 | 左官日和

左官日和

日々、七転八倒の左官日和。

梅雨が明けた途端にやってくるこの猛暑。毎年のこととはいえこたえます。壁を塗っていても休んでいてもコンビニへ用を足しに行っていても、あたりまえですが猛暑は追いかけてきます。コンビニにいる間はクーラーが効いていてまさにオアシスなのですが、外に出た途端に猛暑が倍増した気がし、熱にやられたためなのか何なのか、タオルで顔を拭くときなどにちょっと鼻筋に力を入れて触ってしまったりした拍子に鼻血が出てしまう時まであります。

暑さで朦朧としていても何をしていても、気がつくと思い出してしまい、考えてしまうことがあります。

京都での途方も無い放火事件で亡くなられた方々のご冥福を祈らずにはいられません。

傷を負われた方々、甚大な被害に遭われた方々の少しでも早い回復を想わずにはいられません。

容疑者が回復し、厳正に裁かれることを願わずにはいられません。容疑者を治療している医療関係の方々の葛藤はどれぐらい大きなものなのでしょうか。この凄惨な事件がうやむやになってしまわないためにも容疑者を回復させ、裁きを受けさせてほしいと願うと同時に、そこに費やされ続けている労力とご負担を思うと平常心でいるのが難しくなってくる瞬間があります。


そのうちに克己という言葉を思い出していました。自分に克つという意味です。自分の煩悩や雑念に打ち勝つことで、そうした心を克己心と呼んだりするのだと思います。

私が小さい頃にはすでにその言葉は使い古されているようでした。倫理か道徳か何かの授業で、班ごとに何か目標となるような言葉を出し合おうというときに『こっき!』と言ってみたことがありました。やや得意げに言ってしまっていたかもしれません。いえ、やや得意げになるのを押し殺しているようなニュアンスが滲み出ている感じだったかもしれません。何にしても、ありがちだの何だのと即座に周囲からダメ出しとまではいかないにしてもいまいちな反応を集めてしまいました。それなりに勇気を出しての発言だったので実はちょっとがっかりだったことも覚えています。

その頃からそんな風に風化し始めていたような言葉ですので、今などは思い出すのも珍しいくらいに使われておらず、ほとんど死語の部類に入っているような感があります。気のせいでしょうか。

社会の秩序を保ち、人間関係を上手く行かせるために自分勝手な考えや他人に迷惑をかけるような行いをしてしまいそうになる己を抑え克服する。生きる上で基本的な前提は言葉にするまでもなく世間に浸透しているために忘れられたように使われなくなったというのであれば良いのですが、そうではなさそうです。


理不尽な暴力を振るった後に裁かれて極刑に処されたとしても『ありがとう』と言った人がいたそうです。そうなると、今の極刑が最も厳しく、犯罪の抑止力が最強であるとはもはや考えられないのでしょうか。

刑務所ならば寝る場所と食事が確保できる。そんな理由で犯罪を繰り返す人がいるという話も聞き覚えがあります。

そんな「厚遇」は犯罪者の人権を考えてのことなのでしょうか。被害者の人権は、考えられているのでしょうか。とはいえ読んだり聞いたりして伝わってくる刑務所内の生活は、かなり厳しいように思えます。それでも繰り返し入りたいと思わせるほど困窮していると考えた方が良いのでしょうか。

極刑に関しては、大昔には、一瞬にして訪れる死よりも苦しませるためだったのかどうだったのかわかりませんが、拷問などの残酷な方法が採られた時代もあったようです。あまりに凄惨でじっくりとは調べられませんが、調べればすぐに出てくる情報を少し覗いただけでもさすがにありがとうなどとは言えなそうなことはわかります。しかし、そんな方法で生きやすい世の中が訪れるのかというと疑問です。うまくいくとは思えません。仮に拷問に似た極刑が申し渡されて執行され、衆人環視になったとして、もしも苦しみのあまり哀願し断末魔の叫びをあげているにもかかわらず刑が続けられたならば、関係が反転して執行する側がまるで悪人のように見えてしまったりしてわけがわからなくなりそうです。かといって知らないところで拷問による極刑が行われるというのもさらにおぞましい話です。


全ての犯罪は無理だとしても、誰かが突発的に起こす暴力だけでも無くならないものでしょうか。無くならない、中にはそういうことも起きてしまうものだ。そんな風には考えたくありませんし、考えられません。平和呆けしてしまっているのでしょうか。

私はどちらかといえば疑り深い性分で、ついつい他者を警戒してしまいがちな所があります。その意味では無意識のうちに、他者には危険が潜んでいる可能性があると刷り込まれてしまっているのかもしれません。

もっと危険なら危険とはっきりしていればそれを前提に生きる術を蓄積していくことになるのかもしれません。しかし、はっきりと危険な状態とはほとんど戦場や災害のような現場を思わせます。やはりそうした状態は出来るだけ避けたいですから、一見平穏でわかりにくくとも、ありうべき危険を意識してみるしかないのかもしれません。他者が危険かもしれないならば、それがどれくらいなのかを測るためにコミュニケートするのを普通にしてみるなど。基本的には100パーセント安全だとの前提だと、黙って放っておいても大丈夫だろうとしてしまいがちですが、多少なりとも危険を前提にしたならば、もちろん尋問みたいにしては相手に失礼ですから、例えば挨拶から入って観察して様子を伺うようにして言葉を選びながら探っていくことになったりするのかもしれません。相手が鬼になってしまっているのか人のままでいるのか。姿だけではわかりません。今はそのどちらでもなく一見普通そうに見える人が人知れずフツフツと青い炎のように怨恨の火種を燻らせていて、気がついた時には何を酸素と燃料にしたのかわからないまま物凄い勢いで燃え上がっているという厄介な状況です。

犯罪心理学など、世の中にはこうした不安や疑問への解決のヒントになるような研究や実践もあるようです。小説や物語からも示唆されるところがあります。そうしたものが遠い昔から蓄積されているその分量は膨大で、それこそ汲み尽くすことなどできないくらいです。それでも暴力や犯罪は無くなるどころかますますエスカレートしているように見えます。それとも、ひょっとしたら数は少なくなっているものの、個々の内容が酷くなっているためにエスカレートしているように錯覚をおこしてしまっているだけなのでしょうか。

どちらにしても酷い事件が今も繰り返し起きていることは確かです。報道に接すれば接するほど力が抜けてしまい、悲しみと、やるせなさと、怒りと、恐れと、諸々の感情が繰り返し膨らんでいきます。


今回の放火犯が、犯行を思いついたとしても実行する前に踏みとどまることは出来なかったのでしょうか。一人の頭の中で考えている段階までならばぎりぎりのところです。冗談や軽口まででもぎりぎりでした。そうした人達ならば少なくないはずで、殺すだの何だのと軽口をたたくのを聞いたことが無いはずがありません。もちろんそう思うのにもちょっと抵抗がありますし、その事実もあらためて考えてみると不思議です。小学生の頃、“殺す”だの“死ぬ”だのといった言葉を冗談にしても使うと物凄い勢いで激怒する先生がいたことを思い出します。今にして思えばその激怒の理由がよくわかる気がします。気軽に口をつく言葉が知らず知らずのうちに使う人の意識や使われる人の意識、とりまく日常を作っていく側面があること、だからこそ考えなしに物騒な言葉を使うことを危惧したからこその怒りだったと思うのです。


再犯もたびたびある事ですが、この容疑者も過去に逮捕歴がありました。とはいえ出所後には雇用促進住宅に住むなどして、不定期にせよ職にも就き、アパートに転居し、近隣とのトラブルなどもあったようですが、世間を溺れそうになりながらももがいていたような印象を残す報道もあります。事件の間際の数日から数週間の動きでは、スタンドでガソリンを購入するとか、公園のベンチで寝ている姿などの目撃情報が幾つも伝えられています。

事件が起きる前の時点で危険を察知できる可能性は無かったのでしょうか。

私もガソリンスタンドでガソリンを購入するときがあります。どうみても現場で使う装備の車に積んだ発電機に直接入れてもらっているのですが、とても厳重で、それでも断られるケースがあるくらいでした。私の場合はポータブルの小さな発電機で、満タンにしても4リットルいくかいかないかです。そう考えると今回の台車で運ばれた購入量はちょっと多そうな感じはします。何に使うかにもよりますが、私の場合は材料を練るためにマゼラーを回すのに使うだけなので4リットル満タンで相当長もちします。ガソリンは生ものですので、あまりストックしてはおけませんから買う分量にも慎重になります。とはいえ、常時長時間使う必要がある場合にはかなりの量が必要になるかもしれません。何にせよ今後はガソリン購入の際に身分証明や使用目的などの申告と記録が必要になるという話を聞きます。煩雑になりますがやむを得ないことです。それに、事前に電話で確認してもいくつも断られたりしてようやく見つかるプロセスよりも、ちゃんとした手続きさえすればどこのスタンドでも確実に入手出来る方が便利とも考えられます。逆に言えば、ちゃんとしていそうな情報ならばと鵜呑みにすると危険ともいえます。手続きとして形骸化してしまえば危険の防止にはなりません。危険の察知と防止には、結局は人対人のその場のやりとりにかかっているような気がします。ついこの間も発電機に給油してもらったのですが、詳細な手続きはまだありませんでしたが、担当の方は自然な会話の中で必要なことを確認していました。

暴力が尽きないということは、その暴力に使われる物事も尽きず、それとは知らず仕事上供給せざるを得ない方々も尽きないわけで、その無念さも計り知れません。

公園で寝ている姿はどうだったでしょうか。結果的に振り返れば怪しかったと思えたとしても、事前に察知するのは難しそうです。それでも、もしもあきらかに不自然な様子だったら声をかけることは必要なことなのかもしれません。それすらも明らかに危険を伴いそうな様子なのであればやはり頼りにすべきは警察でしょうか。そうはいっても事前のそうした動きというのは、事後的にはスムーズにいくことをイメージ出来ますが、実際には困難もあります。普段見かけない人が公園で寝ているといった話だけで、その一件だけならいざしらず、何件も出てきたら時間をどれだけ割けるでしょうか。「仕事」による声かけだけでは限界がありそうです。

そうはいっても、危険を回避する目的のために一企業など限られた範囲では効果的に行われていたりもします。誰がいつどこで行き詰まっているかわからず、その放置は企業にとっても打撃になるからです。私が出入りすることのある現場のうち、大きな現場でも特にそうです。どんな人がいるかわからず、毎日のように違う人が入って来たりもするので常に予断が許されないのです。日常の挨拶や目礼だけの場合もありますし、ケースバイケースで話題を選び声かけを自然に行います。そうした小さくともコミュニケーションを積み重ねていくことで事故を回避するのです。日常にも万が1つの危険がひそんでいなくはないのですから、回避するための、仕事のようにではなくとも普通の声かけがあっても良いのかもしれません。むしろその方が圧倒的に人数も多くて有効な気がします。

ここでも子どもの頃のことを思い出すのですが、私の母を含め、近隣で何かと声をかける人が珍しくなかった気がします。私などはいつでもどこでも見知らぬ人に声をかける母の姿を信じられない思いで見ていた記憶があります。当時はそれが嫌で嫌で仕方なかった覚えもあります。話しかけられた相手も必ずしも同じノリで返す人ばかりでなく、あきらかに怪訝そうな雰囲気を醸し出しているような人も少なくなく感じたからです。しかし今にして思えば、そうした声かけは母達なりの危機管理だったのかもしれません。

周囲の人に対しては、思わず好意を抱いてしまう場合とその逆の場合と色々だと思います。反射的に話してみたいと感じる人とその反対とその中間と。前者のような場合は声かけも、逆に声をかけられることも比較的容易かもしれませんが、難しいのは後者です。それを成立させるところには己との戦いが介在するかもしれません。

どうしても脳裏に残るのは容疑者の服装です。凶悪犯罪者は派手な格好をする傾向があるという話もあるようですが、それにしてもあの真っ赤なシャツには違和感があります。少なくとも逃げて生き延びようという選択肢が無かったとしか思えません。むしろ、事前に捕まえてほしかったのかと思えてくるほどです。


報道から聞こえてくるこうした暴力を振るった人間に共通する供述は、不満、怨恨、鬱憤といった感情です。言葉にならないのかもしれませんが、ムシャクシャしてやったというような、あまりにも簡単な理由であることも少なくありません。そうした単純な感情を表現する言葉が多いこともあって、どれもこれもが誰にでもあてはまってしまうようにも感じてしまいます。ですから、その雰囲気だけから凶悪な犯行を察知することは出来そうもありません。そうした感情がガスのように溜まって膨らんでしまうことは誰しもあることのように思われます。そのガスをどう使うのかは個々に違ってきます。うまく使えれば、逆境を乗り越える危機バネのようなプラスのエネルギーにもなりそうなのですが。

動機のひとつとされている「パクリ」など、逆恨みと取られても仕方がない話も報道されています。そして、そうした形の怨恨は珍しくないという話も出てきました。仮にパクリが存在したとしても、そもそも創作でパクりパクられは珍しいことではないという考え方があると思います。場合によっては切磋琢磨とも呼べそうなパクりパクられの関係がその分野を豊かにしていたりもする面がありそうだと思いますが言い過ぎでしょうか。もちろんその関係には互いのリスペクトとまではいかないにしても相手を軽蔑することはないような気がします。

それから、どの分野であれ、多くの人たちがどれだけの金額で仕事をしていることか。もちろんその低いと言われる相場には功罪あって、これまでは功の方がクローズアップされ過ぎてきた分、これからは正常化に向かうべきところもあるはずです。被害に遭われた会社はむしろ業界的には正常化に向かいつつあったようです。

考えれば考えるほど暴力によってどれだけの物事が粉砕されてしまったのか気が遠くなります。一方的な思い込みと言われても仕方がないかもしれない怨恨によってです。

小説にせよ漫画にせよ映画にせよ何にせよ、本当に形にするまでにどれだけの労力が必要なことか。どれだけの粘りが必要なことか。そして、ひとたび形になって世に出されているものが、名作との誉れ高いものだけでなく、それこそ駄作とまで言われてしまうものであったとしてもあるクオリティに達している事実は動かし難いように思えます。ひとたびそのことに気づくと頭の中にだけにあった段階のアイデアや未完の作品、イメージの段階と、完成されているものとの差に戦慄を覚えてしまってもおかしくありません。やはり、なんとかして糊口をしのいでいる人の技術は、メディアなどのフィルターを通してでは気づきにくいですが、実際に目の前で見るとちょっとしたことから次元が違うことに真剣に驚くことが度々あります。それはどんな職業であってもそうであるように思います。頻繁には試合に出る機会を得ていないスポーツ選手の練習中の動きや技を目にすると奇跡としか思えなくなります。黙々と出場機会をうかがって当たり前のように奇跡のような練習をつづける姿にはただただ圧倒されます。

中にはクオリティが高いのにあえて利益を求めない自主制作・販売ないし配布をするようなポジションに立たれる方々もいますが、他人に見せる立ち位置にいるという意味で同じような迫力を感じます。

ですからむしろ「自分のアイディア」が他者の創作物の中に見えたような気がしたとしても、自分の手によってでは出来上がることがなかったアイディアが形になっていることに喜び、感謝と敬意の気持ちを伝えても良いくらいだと思うのです。仮に本当に伝えたとしてもそれはそれで伝えられた相手からしてみればピンとは来ない話かもしれませんが、そこは怨恨の火種を消すことができて納得できれば良く、相手からの好意的なリアクションにまで期待する必要はないはずです。その人はその人で別の関係の中で影響を受けて思いつき、実現できたアイディアなのかもしれず、そのことを知ることができたりして思いがけず貴重な情報を得られることになるかもしれません。勝手な怨恨よりは勝手な感謝の方がどれだけマシなのかわかりません。

また、着想や、細かなディティールなどのひとつひとつがすべて斬新でオリジナリティーに溢れるものなど、そうそうあるものではないような気がします。むしろ、きっと誰かがどこかで同じことを思ったり考えたりしたのだろうなというものも少なく無いと思います。稀有なのは、それをやはり多くの人の耳目を集め感覚に訴えられる段階にまで組み合わせて仕上げてまとめ上げたことなのだと思います。そこに至るまでに費やされる労力と時間。それは当事者以外にはわかるものではありませんが、出来る限り想像した方が、少なくとも謙虚にはなれそうです。

要領よく、ずる賢く成功を収めている人達がどこかにいるような、気がつくとそんな思い込みもあったりするかもしれません。また、成功した人の中にはそんな風なイメージをあえて纏っている場合もあるように思います。蓋を開けてみれば事実が本当にそうかどうかはわかりません。側から見れば驚くような苦労や忍耐を、その人達がそう感じさせないだけなのではないかという気もします。

どんな作品であっても。その意味では、公募などの色々な形で投稿される作品についてもそれは言えることです。どんな作品であれ作者の魂がこめられている場合があります。いのちがけである場合もあります。しかし、必ずしも観る側、審査する側の意識がそうではない場合もあります。全てがそうではないでしょうが、中には酷いところもあります。忙しいとはいえそんな扱いかと思わせるような。「先生」方が「プロ意識」でお眼鏡に叶わない作品をぞんざいに扱うのはあるいはまだしもなのかもしれませんが。また、公開審査などで参加者に気圧されたのか「私に審査する資格はない」などと言い始める方が出てきてしまったり、審査員として名を連ねていた著名人が実際には審査の場にはいなかったり、名だたる賞のバックヤードの出来レースのような話など、ネガティブな要素をあげ始めればキリがありません。逆に、全ての作品に審査の経緯、寸評や評価を記した書面を送付してくださるようなところもあります。もちろんそれらすべてを含めて人生なのだと嘯くことが出来れば一番良いのかもしれませんが、なかなかそうもいきません。

今回、万万が一にも投稿作品との一方的ではない因果関係はあったのでしょうか。万万万が一、ごく薄くにせよあったとしても容疑者がおこした出来事が許されることなど到底ありえません。それでも、その分析は公にされることが望ましいかもしれません。因果関係など9999毛あり得ないだろうとしてもです。本当に個人的には煮え繰り返る腹立たしさを通り越して怒りに身悶えし傍目には物の怪のような形相になってしまっているのを抑えきれない表情を隠しきれずに完全に悪だろう黒だろうと確信するしかないだろうとしか思えないケースでも推測の段階では100パーセントであることはないとするのが、良いのか悪いのかはわかりませんが今の世の中の前提のようだからです。今回の凄惨な結果を巻き起こしたことに関しては疑いようが無いにしても、その動機、容疑者がいったいどのようなところにたいしてパクリや盗難を主張しているのか。そこがぼやけていると厄介の種が遺されるような心配もあります。既に心無い模倣犯のような出来事も、未然だったにせよ起きているようです。もしも今回の容疑者の荒唐無稽とされている主張が曖昧なままですと、そこを逃げ場にしたり暴力の根拠にするような発想が出てくるかもしれません。曖昧なまま万に1つでもそんなことになってしまったらあまりにも不幸なことだと思います。容疑者が厳正に裁かれるためにも必要な気がします。それとも、そこはむしろ逃げ場として残しておいた方が良いのでしょうか。


口には出さなくとも、酷く醜く浅ましい思いが湧いてしまうことがあるのは仕方がないように思います。誰にでも過ちはあって、時には犯罪を犯してしまうことがあるのかもしれません。それでも服役して、更生できる人もたくさんいるはずです。残念ながら今回のように更生できなかった人、繰り返してしまう人も少なくないために、理不尽な事件に巻き込まれてしまう人が後を絶たないこの酷い状況を報道で知れば知るほど嫌な想像が膨らんでいき、言葉がどんどん溢れて来ます。今回の容疑者もなぜ更生できず、しかも未曾有の出来事を起こしてしまうことになったのでしょうか。どんな理由づけをしたとしてもそんなことをしてしまった段階で己に負けたことになります。なぜそんな簡単に負けを選んでしまったのか。

そんなことをあれこれ思っているうちに克己という言葉を思い出していたのでした。

勝ち組負け組という嫌な言葉がありますが、同じ使うなら己に対する克ち負けを競った方が良い気がしてきます。いかに多く稼いでいるかどうか、資産が多いかどうか、モテるかどうか、成績が良いかどうか、売れているかどうか。とりあえずそういう物差しではなく、己が己に克っているかどうか、それが全てという勝負です。もちろん、他人との関係において生まれる物差しに関してはそれはそれとしてです。その物差しの上で負けて悔しくて勝とうと努力したくなるのならそのとき勝負すれば良いのだと思います。それでも、いわば“「克己」の戦い”とは混同しないでおきます。なんだか図々しくて鈍い奴のようにうつるかもしれませんが、他人に迷惑をかけることだけはしないという自分だけの領域での勝負はどんな形にしてでも愚鈍にでもなんでも守る必要があるような気がするのです。


こんな思考の流れの中にでもどこにでも怨恨というとんでもなく醜いものの種は含まれているような気がします。それを育てるのも育てないのも、環境次第でもありますが、やはり自分次第になってきます。そこで問われるものの一つは克己心であるような気がするのです。

「感謝」の効用が説かれるのを見聞きすることがありますが、最近、なんとなくその意味が少しわかってきた気がします。感謝は怨恨の対極にあるように思います。怨恨の炎を消すのは克己心であり、それは感謝の気持ちによってももたらされるのかもしれません。

私の場合は、歳を重ねれば重ねるほど、親への感謝が湧いてきています。

どうしても親への感謝が湧きようがない境遇も、理解できるとまでは言えませんが、想像することはできます。私の父は、どちらかといえば親への感謝をするには少し難しい境遇だったかもしれません。詳細は曖昧なままですが、あまり話したがらないのを無理に聞くわけにもいきません。それでも父方の祖母をはじめとした親類の方々への恨みのような感情を露わにするのを見たことはありませんでした。滅多に涙しない父が泣いたのを見た今のところ唯一といっていいかもしれない姿が祖母が亡くなった時です。そこに恨みがましい感情は無かったように思います。

怨恨のような、何か醜いもので一杯になりそうなときに、思い浮かべられる感謝の対象は何でしょうか。好きな歌かもしれません。好きな漫画かもしれません。好きだった人のことかもしれません。昔の知り合いかもしれません。学校の先生かもしれません。道ですれ違っただけでなぜか覚えている人のことかもしれません。歩いている道が舗装されていて歩きやすくなっていることかもしれません。身につけている服が暑さや寒さ、ケガなどの危険をしのいでくれていることかもしれません。コンビニの店員さんが丁寧に接してくれたことかもしれません。探せば何かしらあるはずです。何にもお世話になっていないことなどあり得ないはずだからです。その場その場の目の前のことにも見つけられるはずです。怨恨で胸がしめつけられるくらいに憎んでいる対象を感謝することができる角度の視点を探って見つけることが出来れば最も理想的ですが、自らによってはそれはほとんど不可能なのかもしれません。


猛暑の現場で休みを取るのに、車の中にいるしかない時が多くあります。そういうときにアイドリング状態にして冷房をつけるのが風物になっています。ただ、私はそうすることが苦手でした。郷にいれば郷に従えで一時期そんなこともしてみたことがありましたが、そのうちまた出来なくなりました。単純にもったいないと感じるのと、不自然と感じるようになったためでしょうか。もちろん無理して熱中症で命を落としてはならないので、窓とドアは全開です。それでも暑苦しいことは暑苦しいのですが、閉め切らない限りなんとかしのげるものです。

この暑苦しさはだれの責任でしょうか。「環境破壊」のせいでしょうか。そんなはずはありません。そうかもしれませんが、そう考えたとしてもその場の暑苦しさを納得する助けにはなりません。やはりその仕事を選んだ自分、あえて車の中にいようとしている自分、何にしてもまずは自分に責任があります。まずはそこからしかはじめようがありませんし、そう思うと納得も出来ますし、手立ても講じられます。木陰に逃げてみようとか。風通しが良いところに移動してみようとか。

そもそも晴れていなければ仕事ができないとか、この暑苦しさの中でも仕事をつづけられ、完遂できる体力をつけさせてくれたスポーツ、スポーツをする機会を与えてくれた両親、感謝できる対象を探し始めれば次々と見つかります。その対象は一人ひとり違ってくるのだと思います。時期によっても違うかもしれません。30年前の自分が両親を感謝の対象に出来ていたかどうかわかりません。


ともあれ、怨恨の炎を消すための感謝の連鎖をつくれず、怨恨にまみれた己に負けてしまってはならないことだけは確かな気がします。