昨晩、夢を見た。
煙草を吸う夢。
もう禁煙して五年になるが、未だに突然吸いたくなる時がある。
さすがに「あー、煙草吸いてぇ〜」と一言心で叫ぶと、そんな気持ちも直ぐに忘れて他の事をしている。
成人した、男の子供達は二人共吸うが、何らかのポリシーを持ってこの時代に煙草を吸っているわけでもないらしい。
唯一「拘り」と言えなくもないのは電子タバコは吸わないことか。
確かに電子タバコほどみっともないものはない。
ふと、ガムのような変な匂いがするなと横をみれば、電子タバコを咥え始めたいい大人が、まるで乳飲み子の様にタバコにしゃぶりついている。
本当にみっともない事この上ない。
世間の目が気になるのなら止めればいいのに「何となく」それも出来ない。
きっとタバコを吸う事にポリシーもなく、「ただ吸っている」だけなんだろう。
自分自身は16歳の時に初めて煙草を吸い始めて以来、色々な煙草を楽しんで来た。
国産煙草は全種類、外国ブランドも手に入ったものはほぼ全種類、更に噛み煙草に手巻き、葉巻、パイプ煙草等も二十歳になるまでの間に全部試して吸ってみた。
各ブランドの煙草をほぐして、自分なりのオリジナルブレンドを作って吸ってみたりもしていた。
結局は「ピース」、それもロンピーと呼ばれた黄色い箱の「ロングピース」に落ち着いて晩年(笑)はそれだけになっていたが。
子供達も、お父さんの煙草はキツ過ぎてとても吸えないよと言っていたが、そもそも煙草とはキツイも軽いも無く全部同じだ。
強いて言うなら使用する葉っぱの部分が異なるだけで、所詮は一枚の煙草の葉から全種類が作られている。
それに添加物と称する薬を混ぜたり、フィルターに穴を開けたりして強さを調整しているだけの話だ。
強いと感じるなら爪楊枝でフィルターに穴を開ければいいし、弱いと思うならフィルターを切って短くしてしまえばそれでいい。
まあ、お酒を飲む人もストレートを好む人やロック、水割りと工夫して楽しんでいるわけだから別にそれ自体に問題はない。
自分が問題があるなと感じるのは「吸うべくして吸っている」という、「拘り」を持って嗜む人が少ないと思う事だ。
だから呑まれる、煙草に支配されてしまう。
要はもう止めたいのに止められないという、身体依存の犠牲者に成ってしまう。
周りの吸わない人から冷たい目で見られ、居場所すら規制され、更には豊かな人生の一刻を愉しむという、自らの人生の時間すら奪われてしまう。
そこへ電子タバコなるものが登場した。
豊かな煙や香りを愉しむこともなく、ただ最低量のニコチンを変な匂いのする香料と混ぜ合わしただけの「おしゃぶり」を煙草の代わりに与えられ、嬉々としておしゃぶりをしている人がなんと多いことか。
煙草を吸いたいなら、みんな何故好きな人生を楽しまないのか?
なぜ吸わない人のエゴの為に、自らの人生の時間まで制限されなくてはいけないのか。
少なくとも吸う場所を指定されている時点で吸わない人への配慮は成されている。
それ以上の事は人権侵害にすらなるように感じる。
私自身は、お酒は元より一滴も飲まないが、煙草を目の敵にする人だって酔っ払って、時には車で運転して殺人まで犯すケースだって少なくないではないか。
運転は禁じられても、飲酒行為が議論に上ることは決してないのは何故か?
最新医学では、飲酒は例え一滴であっても身体に害を生じるとされている。
適量なんてものは存在しないと完全否定されているのが最新医学だ。
だが別に自分は否定しない。
ありとあらゆる世界中のお酒を嗜み、ラム酒のグラスを傾けながら、子供の頃に読んだ「宝島」の世界を愉しむことだって最高の時間だ。
お酒にも「ノンアルコール」等というものがあるらしい。
残念ながら私はお酒を嗜まないのでよく知らないが、あまり美味しくないとの話は耳にしたりする。
そう、中途半端なものを強制されるようになるくらいなら止めたほうがいい。
ポリシーを持って生きなければ何の人生だ。
煙草も場所をわきまえているなら堂々としていればいい。
まあ電子タバコなる「おしゃぶり」を、吸わない世間から与えられて、他人から幼児以下に見られるよりはよっぽど人間らしい行為と思う次第だ。
日々を誇り(ポリシー)高く生きていきたいと思う。