なんと言っても



あなたが今、



生きていることが大前提。



神さまも



ご先祖さまも



宇宙も



わたしたちがこうして



生きているからこそ



繋がりがあるのであり、



求めるのでもなく



また、考え抜くのでもなく。



自然に



自然に



なされるがままに



「思ってしまう」と言うのが



導きだとわたしは思うのです。





「思い」に対しては



究極、シンプルであった方が



自分のためであり、



自分から湧き出る思いは



自分のためのもので、



自分のために活かすもの。





どうしても抑えきれずに



人に話してしまう情熱?は、
(言ってしまえばグチ!)



同調してもらい



安心したいから。





でも、その安心は



「人間」独特なもので、



神さまや宇宙が指し示す「安心」とは



意味合いが大きく違ってくる。



人間は



ジャッジを含めた「安心」欲しさに



他人を絡めて「安定」を計ろうとするけれど、



神さまや宇宙は



みなさんご存知の通り、



「無条件」であるから



人間的な「安心・安定」は



もちろん



完全に



スルーされてしまう。






そのくらい



「人間臭さ」と



「無条件の愛」というものは



かけ離れているのです。



それを



「なんでよ?」



「どうしたら分かってくれるのよ?」と



答えを積極的に求めまくるのが



人間臭さであり、



神さまや宇宙は



その解答はいつも一貫して



「・・・・・」。



なぜならば、



大いなるものは



「無条件」であるから、



「なぜ」や「どうしたら」という



「人間臭さ」には



反応する機能がないのです。



だからといって、



嫌われたり、無視されたり、見下されたり
相手にされなくなったりはしない。





考え過ぎずに



いつのまにか



神さまや宇宙に「沿っていた」という



気楽さが



自分を救うことになる時期もあるのです。



それは「薄っぺらい」とは



全く違いますから。





自分の心の振り返りをしないまま
(ごくごく客観的な)


進んでいくと、



間違って深掘りを進めていることに



気がつかないままになってしまうから、



「なにをしたくて」は



常々、自分に聞いてあげて、



「どこに向かうのか」は



実は、数ヶ月先の振り返りですることです。





あとになって
「ここに来たのか!」と分かることで、



「何をしたかったのか」の本質が



分かるようになります。





あなたのしたいことは、



「誰かに思い込まされてきたことか」



「自分がチャレンジしたかったことか」





そうして自分自身を
少しずつ理解してあげていくことで



シンプルさが際立ち、



神さまや宇宙の「無条件」と言うものに



理由なく合って行くのだと思います。



自分の理解は自分ですればいい。



今日はこんなところです。





わたしたちの川は


キラキラとスラスラと流れていきます。






平らけく


安らけく


神さまもわたしたちも


ますます安寧に


包まれゆくように




粋龍