牛映画『関心領域』鑑賞ノート 

 ―—他人の運命への無関心さを描いているがそれは決して他人事とは言えないと感じさせた作品。

  

 2023年 カンヌ国際映画祭でグランプリ、米国アカデミー賞で国際長編映画賞と音響賞を受賞した映画『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督)を観ました。

 

 タイトルの関心領域(英:The Zone of Interest)は、ナチスがアウシュビッツ強制収容所を取り囲む40平方キロの地域を表するために使った言葉だそうですが、はじめて目にする言葉です。

 

 映画の冒頭、黒い画面にそのThe Zone of Interestの文字が、低いノイズが流れる中で数分間写し出されます。かなり長く感じられ、否が応でも〈関心領域とは一体何なのだ?〉と心の準備をさせられるような気になります。

 

 真っ暗な画面の中からやがて鳥の鳴き声が聞こえてきて、ようやく、黒かったスクリーンに川遊びを楽しむ家族連れが映し出されます。

 

 そのあと徐々にわかりますが、川遊びを楽しんだ家族は、強制収容所と壁一枚を隔てた邸宅に住む、強制収容所の所長であるルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)と妻のヘートヴィヒ・ヘス(ザンドラ・ヒューラー)とその子どもたちの一家です。

 

 映画はこのあと一家の日常と夫婦のドラマが描かれていきます。

 

 強制収容所と、一家の穏やかな生活ーー。ふたつの世界は “壁一枚” で隔てられています。グレイザー監督は、「私が撮りたかったのは、誰かがキッチンで一杯のコーヒーを注ぐ様子と、壁の向こう側で誰かが殺される様子とのコントラストだった。その両極端の共存なんだ」と語っています。

 

 川遊びの翌日、邸宅の庭に置かれた3人乗りのボート。子どもたちから父親に贈られたサプライズの誕生日プレゼントでした。いかにも “裕福” な家族であることが印象づけられる場面です。

 

 しかしその “裕福” さは、壁一つ隔てた邸宅の向こう側にある強制収容所のユダヤ人たちを抑圧し搾取・収奪したことによるもの。

 

 けれども一家の誰もそうしたことを自覚しているわけではありません。

 

 収容所々長のルドルフ・ヘスは、壁の向こう側のことを家族に語ることはなく、夜は寝つけない女の子のために絵本を読んでやる善き “パパ” であり、夜更けた寝室では、妻のへートヴィヒと笑い合い、彼女の旅行のおねだりも聞いてやる良い夫なのだ。

 つまり、家族の誰も壁の向こう側に「関心」を持っているようには見えません。

 

 何人もの家政婦がおり、また庭師までもいるその邸宅には、プールも温室もある広大な庭があり、そこにはバラやダリアなど色とりどりの花が咲き乱れています。  

 

 庭にはいろいろな野菜も育てられています。ヘートヴィヒにとって、壁のこちら側にある邸宅と広い庭のある暮らしは、娘の頃から憧れていた夢の楽園なのです。

 

 使用人風の男が壁伝いに手押し車で邸宅に食糧と衣類が入った袋を運んできます。

 

 食糧は家政婦に渡され、ヘートヴィヒは家政婦たちにも衣類を分け与えますが、それは収容所内の女性たちから略奪されたもの。

 

 彼女はその中の毛皮のコートを着て、鏡の前で、ポーズをとる。そして、鏡台に向かって座り、コートのポケットに入っていた口紅を唇にさします。

 

 子どもは子どもで、やはり囚人たちのものであったのであろう金歯を夜中にベッドの中で、コレクションとして眺めて喜びます。

 

 いっぽうルドルフは、いかにしたら “荷” を効率的に焼却炉で処理できるかを家の中で関係者とともに検討する会議を開きます。彼らが “荷” と口にしているのは、言うまでもなく強制収容所に捕らわれた人々です。

 

 そんな中、壁の向こう側からは日々、銃声が聞こえ、悲鳴や怒号も聞こえます。

 

 また焼却炉の轟音がし、煙突からは黒煙が立ち上っているのが見えます。    

 

 ただ、カメラは壁で隔てられた収容所内を一切見せません。つまり壁の向こう側で起こっている暴力については一切、描かれていないのです。

 

 一度だけ、収容所内の高い所から下を見おろしているルドルフの上半身だけが映される場面があります。しかし彼が見おろしている中は映されず、その間に聞こえてくる叫び声や何かが燃やされている煙が見えるだけです。

 

 そのため観客は、そこで繰り広げられているであろう残虐な光景を、聞こえてくる音や黒煙の映像、場合によっては、これまで映画やドキュメンタリーや活字で頭の中にインプットされたナチによる収容所内での凄惨な行為のシーンを思い起こしながら想像することになります。

 

 しかしそんな中で、壁のこちら側で、日々安穏で幸せな生活に浸りきっているルドルフとヘートヴィヒや子どもたちは、収容所から日々銃声や悲鳴が聞こえ、煙突からもくもくと焼却炉で “荷” が焼かれるときの黒煙が上がっていても、まるで何事も起きていないかのように無関心のままなのです。

 

 ある日、ヘートヴィヒの母親が来て、邸宅で暮らすようになります。

 

 ヘートヴィヒは母親に自慢の庭を案内します。庭は自分が設計して作ったこと、その自分はまわりから “アウシュビッツの女王” と呼ばれているなどと語ります。母親は母親で娘がいい暮らしをしていることをほめたたえます。

 

 しかし、数々の花をアップで撮っていたカメラが赤い花ビラにズームアップしたところで突然画面一杯が赤く染まったままになり、不気味な音が鳴り響きます。

 

 まるで壁の向こう側で殺戮されている人間の血の色を連想させます。

 

 後日、母親は、庭にあるアームチェアでくつろいでいたところ、壁の向こうの銃声音や黒煙に驚き、慌てて庭を離れます。そして数日後に、置手紙を残したまま邸宅から出ていきます。そこに住み続けるのがきっと恐ろしくなったのかもしれません。

 

 そうしたルドルフ一家に “波風” が立ちます。ルドルフが転任することになったのです。近所の人たちを庭に招いてパーテイーを催していた日に彼はそれを妻のヘートヴィヒに伝えます。

 

 転任となれば邸宅を出ていかなくてはならないので彼女は、それはできないとルドルフに言います。彼女はせっかく手にした家を離れたくはありません。老後は農業をして静かにくらしていくつもりでこれまで生活していたとルドルフに明かします。

 

 転任地には妻も一緒に行くものと思っていたルドルフですが彼女の気持ちを受け入れます。そして妻と子どもたちは邸宅に残ったまま単身での赴任を上層部にも認めさせるのです。

 

 映画の途中でルドルフ一家の暮らしの流れとは異質な画面が現われます。暗視カメラで撮影された黒い画面の中で一人の少女が盛られた地面にリンゴを埋めています。

 

 背後には収容所内をシュッシュッと煙を吐きながら機関車が走行しているのが見えたりしています。またその少女が自転車に乗って道を駆けていくシーンもあります。 

 

 それらは強制収容所の話と関連のあるものに違いありませんが、しかしそれは説明もなしに突然出現するシーンなので〈いったい何なのか?〉と思いながら画面に向き合わざるをえません。

 

 あとで読んだ資料によると、グレイザー監督は、ポーランドで、当時12歳でレジスタンス活動をしていたある女性に出会ったことがあり、彼女はその頃、外に出て何人かの収容者にこっそり食事を与えていたそうです。

 

 その話が神聖なものとして心に残った監督は、ルドルフ・ヘスとは対極に位置する、まぶしい光や熱やエネルギ―を表す少女として、映画の中では実際の登場人物ではないが重要な役割を果たす人物として描いたのだそうです。

 

 さて、そうした意味合いを持った暗視カメラで撮られた映像もはさまれた映画を見ているさなかにも、また映画を見終えたあとも、

 

 私はルドルフ・ヘス一家の壁の向こう側に対する無関心ぶりが他人事のようには思えませんでした。

 

 確かに、収容所に捕らわれた女性から収奪された毛皮のコートを着、口紅をつけるヘートヴィヒや金歯をコレクションにしている子どもたちは不気味で、異様です。

 

 しかし、彼女や彼らは バケモノでも モンスター(怪物)でもなく、川遊びを楽しみ、庭に咲く花々を愛でる「普通の人間」なのです。

 

 それゆえに、誤解を恐れずに言えば、普通の人間というその一点で、強制収容所と壁と邸宅の一家とスクリーンのこちら側に居る私は同期(シンクロナイズ)し、あるいは、合わせ鏡に映されたもののように、“瓜二つ” なのです。

 

 現在、ウクライナでは今も罪のない市民が殺され、パレスチナのガザでは集団虐殺が行われています。そうした世界の現実に自分自身がはたしてどれだけ真剣に関心を向けているかと考えると、

 

 映画の中の一家の壁の向こう側に対する無関心は決して他人事ではなく自分事に感じられたのです。

 

 それはもしかしたら監督のねらいに叶ったものであったのかもしれません。

 

 グレイザー監督は、ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)を否定する声がある中で、それをきちんと語り直す必要がある、同時に「現代を生きる私たちの映画にしたい」と考えてこの映画を撮ったそうです。

 

 人間は残虐な行為をどのようにして受け入れ、どのようにして世の中で起きていることから自分自身を切り離し、また自分たちが共犯になること、無関心であること、そして残酷な行為に及ぶ人間の衝動について描きたいと語っています。

 

 また、なぜ一部の人間の命が、別の人々の命より価値があるとされるとしまうのか? そうしたことも描きたかったとのことです。

 

 監督は、ホロコーストのような行為をやったのは、なにも見るからに恐ろしい悪魔のような人間たちではなく、「自分たちと同じ人間」だと、観客にそう思わせる必要があったと言っています。

 

 ですから、映画に登場するルドルフ一家の日常は、ごく普通の人たちのような、家や庭があり、静かな生活を望んでいる日常として描かれています。

 

 それゆえにそうした設定が、私にとってルドルフ一家は、観客の私とかけ離れた客観的な対象物ではなく、あくまで、自分に連なる普通の人間たちと受けとめられたのだと思います。

 

 映画のラストの部分は衝撃的です。

 

 ルドルフは赴任先から妻のヘートヴィヒに、帰任するようになったと電話をかけた後、暗い建物の中を上階から下の階に降りていきますが、その途中で、二度、吐瀉します。それは病気によるものだったのか、何なのかはわかりません。

 

 そのあと場面は、約80年後の現代になります。

 

 そこはアウシュビッツの博物館の内部で、清掃員が掃除機で床やガラス面を清掃しています。ガラスの向こうにはうず高く積み上げられた焼け焦げた履物などが見えます。殺戮と焼却の跡が垣間見られる歴史の証言物です。

 

 ルドルフが暗い建物を降りる途中で吐瀉したのは、その恐ろしい未来(=現代)を見る者に暗示させていたのか? また彼自身は彼らの行為の果ての未来のことを想像していたのだろうか? それとも相変わらず無関心のままだったのか。

 

 いずれにしても映画のその結末は、約80年前のアウシュビッツの光景は

 

 決して “過ぎ去ったこと” ではないと観客に突きつけているかのようです。 

           

           2024年6月18日(火)