ムキー『オッペンハイマー』鑑賞ノート

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 にっこり広島と長崎に原爆が投下された昭和20年から今年で79年が経とうとしている。

 その間、私は物心がついて以来、キノコ雲の下のヒロシマ・長崎の物語を映画やテレビドラマでいくつも見てきたように思う。

 

 なかでも強く印象に残っているのは『原爆の子』(1952年 新藤兼人監督)だった。

 それは世界で最初に原爆の洗礼を受けた広島の原爆の子供たちが綴った作文を編集した「原爆の子」をヒントにして製作された作品。

 

 乙羽信子扮する被爆して生き残った学校の先生が、被爆当時勤めていた幼稚園の園児たちのその後の消息を知るために広島を訪れ、そこで原爆で両親を失った子や原爆症になり寝ている子に出会う—などというものだった。

 

 その『原爆の子』をはじめ、多くの映画とドラマは原爆を投下された被害者側に立ったものであった。当然といえば当然だろう。

 

 しかし、アメリカ本国で昨年7月に公開され、8カ月後の今年3月末にようやく日本でも上映されることとなった映画『オッペンハイマー』(2023年 クリストファー・ノーランド監督)は、

 

 広島と長崎に原爆を投下したアメリカ側、しかもその原爆をつくった「原爆の父」と呼ばれる科学者・オッペンハイマーの視点に立ったものである。

 

 原爆を投下した側でつくられた映画が、「悪魔の兵器」である原爆をどう描いているのだろう。私は日本での公開を待ち望んでいた。

 

 現在、日本は唯一の被爆国でありながら、核兵器の製造・使用を禁止する国際条約である核兵器禁止条約にアメリカなどとともに参加していない。アメリカの核の傘のもとで日米軍事同盟路線を強めている。

 

 そんななか、アメリカ国内では、いまだに広島と長崎で原爆を使ったことは正しかったという人が少なくないというが、そうした状況の中で、クリストファー・ノーランド監督は、どう原爆や核を描いているのか。

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 やぎ座映画は、第2次世界大戦中の1942年に計画が始まったアメリカにおける原爆・製造の「マンハッタン計画」で、その世界初の原爆開発を指揮し、後に「原爆の父」と呼ばれながらも戦後「赤狩りの犠牲」になり、ソ連のスパイという汚名を着せられた理論物理学者オッペンハイマーのその「栄光と悲劇」の半生を描いている。

 

 私は上映時間が3時間もあるこの大作を、ナント、間を置いて、2回も鑑賞した。

本当は2回も3時間椅子に座るのは辛かった。が、何しろ話の筋(構成)が複雑で、スンナリと理解できなかったのと、それに1度目はあまり深い感動が得られたようには思えなかったからである。

 

 だが2回目の時も残念ながら話の筋(構成)が複雑という点は、あまり変わらずじまいで終わった。しかしそれには無理からぬ理由があるように思われた。

 

 映画には原作があるとのことだが、科学社会史、物理学史が専門の山﨑正勝・東京工業大学名誉教授によれば、原作の著者は25年かけてその本を書いたとのことである。当初は4~5年で完成する予定でいたらしいが、オッペンハイマーの個人史は当時の米国史と深く結びついていたのでとても複雑だったために時間がかかったのだそうである。

 

 またある人の評によれば、「オッペンハイマーは非常に複雑な男」とのこと。つまりそうした彼の「複雑さ」が、映画の筋(=展開の構成)を複雑にしていたのではないかと思われるのだ。

 

 それに、映画の筋を複雑にしているものが他にもあった。それは、劇中の「時間軸」がめまぐるしく移動することである。

 

 映画は1954年の原子力委員会の聴聞会から始まり、そこを時間軸の軸足にしながら、過去を回想する構成になっている。だが回想されたかと思えば、すぐに聴聞会の場面に戻り、さらに別の回想場面へと時間軸が次々に移動する。

 

 そのため先に触れたような複雑なオッペンハイマーの個人史の背景を知らないと話の筋についていくのが難しいのである。

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 むかつき映画はオッペンハイマーの「栄光と悲劇」の半生を描いていると書いたが、1回目に鑑賞したときはその「栄光と悲劇」というコントラストはそれほど強く感じなかった。だが2回目はそれを感じることができた。

 

 すでに1度見ているため、全体を俯瞰的に見ることができたからだと思う。

 

 オッペンハイマーは聴聞会で、研究・開発の機密情報を得られる「保安許可」を奪われ、公職追放される。彼が水爆開発に反対したことや原子力委員会議長ストローズと対立しその怨みを買ったこと、彼がアメリカ共産党員らと交流があったことなどがその原因であるようだ(弟と妻と元恋人は党員だったという)。

 

 かくして、映画の後半はオッペンハイマーが窮地に陥っていく様子が畳み込むようにして描かれる。

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 三毛猫で、結局のところ、日本に世界初の原爆を投下した国の映画『オッペンハイマー』は、原爆をどう描いていただろうか。

 

 ヒントとなるのは、監督のクリストファー・ノーランドが興味を持ったオッペンハイマーの物語を通して観客に何をアピールしたかったかということである。

 

 その点で、彼はインタビューに答えて次のような意味のことをいっている。

 

 すなわち、マンハッタン計画に関わっていたオッペンハイマーを中心とした人々が、「史上初の原爆装置を爆破させれば、大気が発火し、地球全体を破壊する」可能性に気づきながら「計画を前に進め、ボタンを押した」その部屋に、

 

 私は観客を連れ込み、そこに立ち会ってもらいたかった。

 

 そして、彼の物語は巨大でドラマティクなだけでなく、私たち全員に関わり、私たちはその中で生き続けている。

 

 だから、映画を大きなスクリーンにかけ、観客をオッペンハイマーの経験の中に導き入れ、彼がそうしたように出来事を体験してもらいたかった。

 

 つまり、監督は、原爆を、彼らが計画し、思考し、ボタンを押し、爆発させた、それら一連のプロセスを観客に「経験」させるかのように描こうとしたのである。

 

 その意味では、79年前に原爆を投下された、つまり原爆の被害を受けた日本国の側にいて、原爆がピカッとした瞬間、もくもくと上がるキノコ雲の下の映画やドラマをこれまで何度も見てきた私にとって、映画『オッペンハイマー』は、

 

 加害者側の「経験」を目の当たりにするという異質ともいえる原爆映画であった。

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 猫そうした中で、最後に、私がもっとも印象に残った点を2つ。

 

 1つは、映画の冒頭のところでギリシャ神話の英雄・プロメテウスの話が出てくることとラストのショットが対になっていたと思われることだった。

 

 プロメテウスは最高神ゼウスから火を盗んで人間に与えことから、ゼウスに絶壁に鎖でつながれ、ワシに内臓をついばまれる苦しみを受けたという男だが、対と思えたラスト・ショットは、オッペンハイマーの顔が大写しになる中で「世界を破壊した」という意味の言葉で締めくくられていた。

 

 つまり、プロメテウスが盗んだ火の喩えは、オッペンハイマーがつくった原爆のことであり、その原爆は、世界を破壊する恐ろしいものだというメッセージと私には感受された。

 

 映画の原作本(05年刊)のその原題は“American Prometheus”(アメリカン プロメテウス)だそうである。だから監督は、原爆の話とプロメテウスの話をリンクさせたのかもしれない。

 

 2つ目は、次のようなシーンだった。

 

 それは、原爆を技術的に成功させたオッペンハイマーを歓喜で称える聴衆の声が突然消えて、画面が無音になった状態の中で、

 

 聴衆の前に立っていたオッペンハイマーの脳裏に原爆投下による被害者の顔が浮かび、彼の表情が苦悩のそれに変わっていくシーンであった。

 

 映画は原爆と核に対して直接的にNO!と叫んでいるわけではないが、述べたようなこれら印象に残った2つは、反核の意思が込められていると思えなくもない。

 

 いずれにしても、今日、世界は、戦争を抑止するという名のもとに際限なく核軍拡が進んでいる中で、私は、複雑だったオッペンハイマーの物語を見ることで、改めて原爆・核兵器の全面的な廃絶への願いを強くした。

 

   照れ架空対談

  隆太  suiganさんは、わしらを ひどいめに あわせた ピカを つくった やつの えい          がの ことを いっぱい 書いとった のう

 ゲン ほうじゃのう

 Suigan ゲンや 隆太を くるしめた ピカの ことを もっと 知りたかった からなんだ

 ゲン ピカを おとさ なくても もう 日本はまけて いたと いうのに・・・

 隆太 ほんとう に えらい めに おうたよ 

 Suigan  学生時代 からの ともだち から えいがは みていないが えいがを みたような 気になったと でんわ を もらったよ

 隆太 へえ~ suigannさんには ともだちは いない と お もっていた のに

 ゲン いい ともだち じゃ のう

 隆太 ともだち と いえば 警察官に つれて いかれた なかまの カッチンや ドングリや ムスビは いまごろ どこで どうして いるかのう・・・

                                 (照れ以下省略)

              ふたご座

ハイハイ差別について考える 〈22〉

 ●『砂の器』をDVDで見直してみたニコニコ

 私は『差別の教室』(集英社新書)の中で、著者の藤原章生さんが「『砂の器』とハンセン病」の箇所で述べている主張に納得できませんでした。しかしその理由を述べる前に寄り道をし、映画の脚本の創作過程の裏話をはさみ込んでしまいましたので、ここで著者の主張に納得できない理由を述べたいと思います。

 

 著者の主張のポイントは大きく3つに整理できます。1つは、この映画を観た日本人の多くが、主人公が世間体のために過去を抹殺した―—ハンセン病の父親がいた過去が明かされることを恥じ、恩人を殺してしまう—―ことに、さほどの疑問も違和感も持たず、むしろ主人公に同情さえしている。

 

 今だったらそんな男に同情する人はいないと思うが、当時はそれだけ日本社会が差別的だったからだ。

                 チューリップ赤

 2つ目は、主人公はやむにやまれぬ殺人を犯した「善き人」のように扱われている。

 3つ目は、映画はラストで、(ハンセン病を)《こばむものは まだ根強く残っている 非科学的な偏見と差別のみで》といった文言を入れて、一見、差別反対を装っているが、しかしながら、その差別を黙認し、それは仕方ないことなんだと肯定しているように思える。

 

 その3つです。映画にしても何にしても、見方や感じ方は人によって色々です。

ある作品を傑作だという人がいる一方で、いや駄作極まりないという人もいるぐらいですから。とにかく、いろんな見方や評価があって当然です。

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 しかし、賛成できないものは賛成できません。私は著者の主張に納得がいかないないため、『砂の器』のDVDを購入して、何十年ぶりかでその作品を改めて見直してみました。

 

 その結果、50年近く前に映画館で見た時に覚えた感銘はかわりませんでした。そして何より、著者が述べている中で私がとりわけ納得できないと感じた、

 

 《当時は日本社会が差別的だった》という点と、《殺人を犯した主人公を「善き人」のように扱っている》という点、そして、《映画は差別を黙認し、肯定しているように思える》という点に関しても、

                 チューリップ赤

 《確かにその通りだった》と感じられることは、残念ながらありませんでした。

 

 ですから著者の主張は依然として合点がいきません。

 

 ●著者の主張に対する疑問ガーン          

 第1に、今は映画の主人公の男に同情する人はいないと思うが当時の日本人はその男に同情していたから、当時の日本社会は差別的だったという点ですが、

 

 そもそも、当時の人の誰もがその主人公の男に「同情していた」とは限らないし(中にはいたかもしれないが)、それ以上に、今の人はそんな男に「同情する人はいない」となぜ言いきれるのか。

                 チューリップオレンジ

 それに、かりに当時の人が「同情していた」としても、それでなぜ「当時の日本社会は差別的だった」と言えるのか。私には両者の論理的な関連が見いだせません。

 

 差別的な社会ということで言えば、《差別》は、公然とした形にしろ、隠然としたものであるにしろ、昔も今も、社会の中に、あるのではないだろうか。

 

 つまり当時の日本社会は差別的だったとかりに言えたとしても、今の日本社会は差別的でないとは言えないと思う。

 

 今だってデモやインターネット上で、侮蔑的・差別的なヘイトスピーチが問題になっていたりするからです。

                 チューリップオレンジ

 第2に、やむにやまれぬ殺人を犯した主人公を「善き人」のように扱っている点ですが、確かに主人公は「やむにやまれず殺人」を犯していますが、しかしそれ以上でも以下でもなく、決して「善き人」とは扱っていないと思います。

 

 第3に、映画は差別を黙認し肯定しているように思えると述べている点ですが、製作者や監督をはじめとした『砂の器』のスタッフがこれを知ったら悲しむのではないでしょうか。

 

 それに、もしも『砂の器』が差別を黙認し、肯定している映画であったとしたら、観客は映画を観て、その内容に感動したり、感銘を受けたりしないだろうと思います。そうした差別的な内容の映画が人の心をとらえるわけがありません。

                 チューリップオレンジ

 ただハッキリ言って、『砂の器』は確かにハンセン病が背景にあるドラマではあるけれども、しかしだからといってハンセン病に対する差別に反対したり、差別を告発・糾弾する映画ではありません。

 

 それは、映画をふつうに素直に見れば分かるように、ハンセン病の父を持つ子と、その親子の悲しい “宿命” を描いた作品です。

 

 それは、映画がいよいよ終わるというとろで、《親と子の“宿命”は永遠である》と字幕が入ることでも、また、加藤剛が演じる音楽家・和賀英良が演奏会にむけて作曲し客席の聴衆の前でピアノ演奏する曲も“宿命”というタイトルであることでも、

                  チューリップオレンジ

 そして、芥川也寸志が作曲したというその曲が、和賀が殺人犯として逮捕される直前までピアノ演奏して流れ、観客の胸を打つことも、

 

 つまり映画の主題は、親と子の “宿命” だと、観客に強く印象づけられるのです。

 

 しかしだからと言って、映画も観客も、ハンセン病者差別を決して黙認するわけでも肯定するわけでもないのです。

                                          イルカ

 コアラ今回も「漫画『はだしのゲン』ラブラブを読む」はお休みします。パンダ

            2024年5月6日(月)

                 龍