オカメインコ~『60歳からの「悠々」生活!?』~ 

           ㇷ゚ロローグ / 第1章 60歳は「人生の仕上げ期」の始まり 第2章 定年後は”宝の時間”が待っている  

        第3章 元気なうちは働く? 第4章 「自分の時間を売り渡さない」人生への帆を上げる 

        第5章 「悠々」 生活の基礎ー私の例  第6章 お金?そりゃ、あるにこしたことはないが ・・

        第7章 友人は大切だが孤独もまた「友」なり 第8章 おいおい、悠々と老いる / エピローグ

                 エピローグ~Ⅴ

Ⅴ‐Ⅲ)リタイア後は二毛作目の人生を生きる

 前回、多くの会社員はリタイアしたらそれまでの「前のめり」な働き方(サラリーマン人生)から「降りる」ことになると書いた。しかしながら、なかにはそれまでの、組織に「身も心も捧げる」ほどの途方もない「前のめり」ぶりが体に染みついて、それから抜け出すのが容易でない人もいることだろう。会社とそれほど一体的な関係ではなかった場合にしろ、リタイアするまでに何十年間も働いてきたとなれば、多くの人は大なり小なりに「前のめり」の残滓があるに違いない。

 

 それはともかくとしても、西洋人の場合は、早くリタイアして、その後は「のんびり暮らす」のを理想としているといわれる。いっぽう、勤勉さが言われる日本人は「定年後も元気なうちは働きたい」という人が少なくない。西洋人と違ってのんびりとしたリタイアライフは必ずしも理想とはなっていないと思われる。リタイア(退職・引退)などせずに、「生涯現役」を貫いて「死ぬまで働く」のがモットーだと言う人も少なくない。

 

 そんななかで、リタイアはしたものの、なかには働かなくなったことに罪悪感を覚え、自分を責める人もいるかもしれない。そんなとき、打ち込める趣味や、ライフワークがあれば、それに没頭することで、その自責の念を緩和できる。しかしこれといった打ち込むものがない場合は、再び働きに出ることで、リタイアして働かなくなったことに対する罪悪感を打ち消すということにならざるをえない。

                キラキラ

 だがそれだと、リタイアすることで到来した 1日24時間をまるまる「自分の時間」として使用できる生き方を放棄してしまうことになる。それでは、いかにももったいないと私は思う。老後資金は十分とはいえないまでも(いくらあっても不安は尽きないと思うが)この先つましく生きていく分には、再び働きに出て稼がなくてもよいという場合はなおさらだ。

 

 だがそうは言っても、これまで「前のめり」になって働いてきたこともあり、しかも “働きバチ” の本能が抑えられないため、やはり「オレ(わたし)は働きに出る」という人もいよう。それはそれでやむを得ないというよりほかはない。しかしそうでないない場合は「仕事は若い人に譲ろう」とリタイア後に働きに出るのはやめにして、自らは新たな二毛作目の人生を生きるという道もある。

 

Ⅴ‐Ⅳ)「手ごたえのある人生」がほしい

 プロローグでも触れたように私は62歳4ヵ月で38年間務めた職場を退職した。2012年4月のことだった。

 

 毎日、何時間もパソコンに向かう仕事をしてきたせいもあって60歳を前にした頃からパソコンの画面の文字が見えにくくなった。たぶんその視力の衰えと関係していたのだろうが、文書の内容を読み取る力も思考力も鈍くなっていた。

 

 そればかりでなく、足腰の衰えも隠せなかった。かつては百メートルを13秒で走ることができたほどの健脚だった。しかし、コピーを取るために事務所のコピー機の前に立つと足腰がフラフラするようになっていた(感じられた)。

 

 そんなポンコツ状態の体にムチ打って働こうとすれば、働けなくもない。年金が満額受け取れる65歳までにはまだ3年近くあった。だが、50歳のときに描いた定年後の夢に向けて「そろそろスタートを切ってもいいのでは?」という思いが日に日に増していったのである。

              キラキラ

 60歳過ぎまで働いてこられたこれまでの職業人生に悔いはなかった。何よりも、健康だった。だから、40年も働けた。そして、よい友人や同僚たちに恵まれた。妻と出会い、結婚し、子どもと孫にも恵まれた。子と孫を持ってよかったと時々感ずることは、年老いていく中で日々の暮らしがともすれば停滞しがちななか、子と孫のもたらす若さがそんな暮らしにカツを入れて刺激をもたらすことだった。

 

 そしてこれもたまに感ずることだったが、子と孫の内に自分の命が引き継がれていると感じられることがあった。いずれの日にか自分が個体としての死を迎えることは疑いのないことだ。しかし、私の遺伝子の1部は子と孫によって受け継がれていると考えると自分という個体の死ですべてが終わりではないと感じられていたのである。

 

 しかしそれでもう思い残すことはないかといえば、そんなことはなかった。確かに、長い間にわたり勤務先に自分の1日の大半の時間を切り売りして労働力の対価として給料を受け取ることで、衣食住が満たされたまずまずの生活を送ってきた。余暇を使って文化や趣味や娯楽を享受してきた。

 

 だが、長期にわたったこれまでの人生には、男性である私にはなんといっても、家族に対する扶養の「義務と責任」がずっしりとのしかかっていた。しかし今やその重しから解放された定年後は、ほかならぬ自分の人生を、自分が文字通り「自分の主」となって、“ハンドル” を握り、1歩1歩、確かな手ごたえを感じながら生きているという感じがほしい。1日1日を、まるごと、好きなことに没頭し、その結果、この手で、何かを生み出し、実らせたい。

 

 60歳で定年になる前のそれまでは、手にした職を失うことがないように、とにかく定年までは、与えられた仕事をするのが本務であり最優先事項だった。それを棚上げして自分が好きなことだけに現を抜かすわけにはいかなかった。

 

 しかし、リタイアすることで宮仕え(官庁・会社などに勤務)にピリオドを打てば、これからは自分本位。心置きなく、好きなことに夢中になれるのである。

               アセアセ

 ハイハイ差別について考える

 ●ハンセン病療養所の園歌と沢知恵さん②ハイビスカス

 前回の続きです。ハンセン病療養所の園歌を研究している歌手の沢知恵さん。

 いろいろな歌詞がある中で、特徴的なものとしては「一大家族」という言葉が出てくる歌があると言います。長島愛生園(岡山県倉敷市)の園歌で「なやみよろこび 共にわかちつ われらが営む 一大家族」というものです。

 

 故郷を離れ、家族からも見捨てられた人たちにとっては、園で出会った人たちが親であり、きょうだいでした。療養所で家族のように仲良く過ごしなさい。園歌を通じてそうした意識を刻み込んだというわけです。ある入所者は、強いられた隔離生活を「一大家族という甘いベールで包んだもの」と語ったそうです。

               チューリップオレンジ

 また、沢さんが毎年コンサートを開いている大島青松園(高松市)の療養所歌にも「楽しき愛の 吾等(われら)がすまい」という1節があり、他にも「明るき理想の別天地」とか「上と下との隔てなく 理想の楽土築かなむ」と、療養所が理想郷であることを強調する園歌もあるとのこと。外にいるハンセン病の患者に、早く楽園においで、と呼びかける意味があったのでしょうと沢さんは話しています。

 

 ●歌による支配のピラミッド構造びっくり

 沢さんによれば各地の療養所には園歌とは別に、大正天皇の妻、貞明皇后の歌碑もあるとのことです。「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」という歌です。行くことが難しい私に代わって、療養所の職員ら関係者が入所者の友になり慰めてあげなさい、と解釈できると沢さんは言っています。

 

 貞明皇后は慈善運動に関心が髙かったといい、その下賜(かし)金をもとにして(すべての患者の隔離を目指した「らい予防法」が成立した)1931年に、「らい予防協会」がつくられました。その貞明皇后の歌に、当時一流の作曲家、山田耕作と本居長世がそれぞれ曲をつけ、各地の療養所の式典で、入所者たちは「君が代」に続けてそれを歌ったそうだ。

 

 園歌はその後に歌われており、それゆえに、支配のピラミッド構造が見えていますと沢さん。しかも貞明皇后の歌であるその「つれづれの」は、園歌より頻繁に歌われました。「園歌はうたえないが、これなら覚えている」という人がいて、うっとりした表情で歌ってくれたと沢さんは言います。

              チューリップオレンジ

 社会からはじき出された自分たち(患者)のことに、皇室までもが思いを寄せてくださる、ありがい、という思いなのでしょうか。メロディーがつくからこそ感動を呼び、人々の心に深くしみます。

 

 音楽によって1つの思想が簡単にすりこまれてしまうのです、という沢さんです。

 

 しかしそれこそがまさに音楽の力なのかもしれません。

 

 「確かに最初は、上から押しつけられた歌だったかもしれない。でも共に声を合わせることで、つらい隔離生活を乗り越えた。だから今でも笑顔で、時に涙を流しながら歌うのです」

 

 ●功罪2つの面がある音楽の力ニコニコ

 日本人の父と韓国人の母のもとに生まれた沢さんは大学の卒論で、北朝鮮の音楽ー600曲を分析したことがあるそうです。

 

 「音楽は、様々な矛盾を抱えながら権力として作用」する面があるというなかで、「あの国では、音楽は政治権力によって統治の手段として制度化されています」と沢さんは言います。

 

 また沢さんは、日本による植民地支配の歴史から長らく日本の歌が禁止されてきた韓国で、90年代の後半に公演したこともありました。

             チューリップオレンジ

 1998年に金大中〈キム デ ジュン〉大統領(当時)が日本の文化開放を打ち出すと、すぐに韓国で日本の歌を歌いました。公演で「ふるさと」を歌うと、客席から「うさぎ追いしかの山」という歌声が聞こえてきました。

 

 楽屋に来たあるお年寄りは「久しぶりに聞いたけれど、日本語の歌ってきれいだね」と声をかけてくれましたが、沢さんはどきりとしたそうです。

 

 日本の植民地時代にこの歌をたたき込まれ、体に染みついてしまっていたのでしょう。韓国を訪れ公演した彼女は、音楽の力は複雑であり、功罪2つの面を見た思いがしたそうです。

 

 ●故郷の家族のもとに帰れなかった魂ショボーン

 全国の国立ハンセン病療養所の入所者は約800人。平均年齢は88歳です。療養所には、園歌の他に少年団や婦人会、盲人会の歌もあります。今後、沢さんはそうした歌を調べるだけでなく、日本の植民地支配下の朝鮮で療養所があった韓国南端の小鹿島(ソ ロクト)にも近く行き、園歌を探そうと思っているそうです。

 

 楽譜が残っていても、その通りに歌われているとは限らないし、入所者が元気なうちに歌を聞きたい。人が亡くなれば、その人の歌の記憶が消えてしまいます。そして、療養所は将来、最後のひとりまで安心して暮らせるようにしなくてはなりません。ふるさとの家族のもとに帰れなかった魂を、どうお守りしていくのか、、、。

               チューリップオレンジ

 前回ご紹介したように沢さんは生後6カ月の時に父に連れられて大島青松園に行ったことがありましたが、青松園の人たちはその時のことをずっと覚えていてくれました。だから沢さんは、今度は私が恩返ししなければならないと考えているそうです。

 

 療養所の中で、生涯、生きざるを得なかった人たちを記憶する。それが、入所者みなさんの願いでもあります。青松園のある大島を、草ぼうぼうのイノシシの島にしてはいけません。沢さんはそう話していました。

         〈以上の記事は朝日新聞に掲載された「沢知恵さんのインタビュー」記事を引用・構成〉

                     いのしし                    

 ■漫画『はだしのゲン』ラブラブを読むオカメインコ 

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    麦よ出よ

 ●長い戦争の終りは苦しみの幕あきムキー

 昭和20年8月15日——ーこの日をもって 日本の 長い戦争の歴史は おわった・・・・だが この日から 国民にとっては 地獄の苦しみの 幕あきであった——ー

 という書き出しで、作者は、廃墟の街をさまよう人々の絵を背景にして以下のように書いています。

 

 ——ー家をやかれ 着たきりすずめの 乞食どうぜんの ひと ひと ひとが 日本中に あふれてさまよった・・・——ー親を殺され みなしごと なった 浮浪児のむれは ここ かしこに あふれ食糧さがしに 目を ギョロつかせて・・・

 

 心はすさみきっていた このやろうよくもわしのめしをとったな

               ムキー

 また、外地から日本をめざして行進する人々の群れや、外地で捕虜となった日本兵の絵を背景にしてこう続けます。——ー南方や 中国大陸に わたった おおくの日本兵や 移住民は 敗戦によって 追われる身となり 日本への 死の行進がはじまった 声をたてるな! みつかると原住民に殺されるぞ

 

 ——ー力つきた者は すてられ 命からがら日本へ日本へと むかった・・・

 ——ー捕りょとなった 日本兵は きびしい寒さの シベリアなどへ 送りこまれ あすの命がしれない 苦しい 重労働が まっていた

 

 ——ー外国でも 日本本土でも 戦争のキズ跡による 苦しみと 悲しみの声が みちあふれた

 ——ー夢も 希望もなく ただ 生きのこるための きびしい たたかいが はじまった

 

 ●家々の灯りで終戦と平和を知るゲンニコニコ

 場面は一転——ー。海辺でゲンと隆太がアサリを獲っています。「お~~い 隆太 そろそろ かえろうか」「あいよ」。ジャラ ジャラ ジャラ ジャラと隆太が、アサリが入っている籠を揺すります。「きょうは あんまり とれんかったのう」と隆太が言えば「う うん」とゲン。「あんちゃん また きょうも このアサリと カボチャだけの めしじゃのう たまには 米か麦の めしを くいたいのう」。

 

 「ぜいたくいうな まだ わしらは 海の近くに すんでいるけえ アサリでもくえるんじゃ」「ほうじゃのう・・・・」。「おかあちゃんも一所けんめい はたらいても 米がかえんのじゃけ しょうがないよ だけど いつになったら 米のめしが くえるかの まい日 はらがへって 死にそうじゃ」「ほうよ」

 

 「むっ」「ど どうしたんじゃ あんちゃん」。ゲンは、夕闇の中で家々に灯りが灯っているのを見て立ちどまりました。

                照れ

 「きれいじゃのう どの家も あんなに あかりがついて ホタルが いっぱいとんでいるようじゃ いままでは 敵の飛行機に ねらわれるけえ まっくら じゃった ほんとうに 戦争がおわったんじゃのう 安心して あかりをつけても ええんじゃ」

 「もう アメ公の飛行機がきても にげなくて ええんじゃのう」「ほうよ ええ 気持ちじゃのう」。

 

  そして、アサリの入った籠を背負ったゲンとザルを抱えた隆太が笑顔で歩いている絵の中に——ー

 

 元は 心の中に 平和という あたたかい ともしびが 小さく ともった よろこびをはじめてしった・・・・・という文。

 

 しかし、次のコマは、またも一転。悲しげな表情のゲンが、父・大吉と姉・英子と弟・進次の顔を思い浮かべながら「死んだ とうちゃんや 英子ねえちゃんや 進次にも あの きれいなあかりを みせて やりたかったのう・・・・・」と口惜しがる場面です。

 

 ●貧乏のため医者に相手にされないゲンえー

 ゲンはアサリを入れた籠を背負い、隆太はザルを抱えて家に戻ってきました。家の中からはオギャー オギャー オギャーと泣き声がしています。「どうしたんじゃ 友子のやつ ピーピーないとるぞ おかあちゃんは どこかへ いったのか」。「ただいま——っ」ガラッ。〈おおっ〉。「お・・・おかあちゃん」「おばちゃん」。母親の君江がうつ伏せで倒れています。「おかあちゃん どうしたんじゃ」。〈ううう・・・・〉「ぐぐぐ 元・・・・く くるしい・・・ くるしいよ」「うわー おかあちゃん しっかり してくれよ」。

 

 「隆太 あとを たのむぞ わしゃ 医者をよんでくるけえ」「うん!」。ゲンは外へ飛び出し「おかあちゃん しっかりせえよ!!」と言って医者を呼びに走ります。

 

 ドン ドン ドン ドン ドン ドン

               びっくり

 「あけてつかあさい 先生 おかあちゃんが くるしんで いるんじゃ きてくれよ」。

 「うるさいね そんなに たたかないで ちょうだい」。「お・・・ おねがいします おかあちゃんが おかあちゃんが」。

 

 「あなたどうします」「ことわれ」。

 

 医院内での医者と妻の会話を窓の下でゲンが聞いています。

 

 「みたところ 金も米も もたん 貧乏たれじゃ あいてにできるか」「わかりました」。 「先生は いま 外出中です ほかの病院に いきんさい」。

 

 医者の妻が窓からゲンに言い放ちます。「そ・・・ そんな いま 奥で はなして いたじゃないか」。「いないといったらいないんですよ!」ビシツと窓を閉められます。

 

 ●敗戦で日本中に冷たい風が吹いたショボーン

 「ち ちくしょう」。踵を返して門を出たゲンは「このへんに ある 病院は あと一軒じゃ はよう医者をつれていかんと」.と、走ります。そしてその病院で、ドン ドン ドン ドン ドンと叩いて「おねがい しまーす おねがい しまーす」。戸が開き、「どうしたの!?」「おかあちゃんが 苦しんで いるんじゃ先生に きて もらってください」。 

 

 「先生 患者が 家でくるしんでいると 子どもが きています」「どんな 子じゃ」「はあ?」。「どんな子かと きいているんじゃ 金持ちか 貧乏人か 米をもっているか」「きたない子で なにも もっていません」。詰碁をしながら医者は言います。

                ムキー

 「きみは なん回 いったら わかるんだ 金になりそうもない 食糧の米をもってこないやつを わしにとりつぐな」。「貴重な薬を 金のないやつに つかえるか 戦争にまけて これからは だれもたよりにならんのじゃ 金や物をもっている ものだけが 生きのこれるんだ 金にもならん 米も もってない 貧乏人をみていたら わしの病院は つぶれるんじゃ わしらは死ぬんじゃ」。「す・・・ すみません」

 

 ドアの外で「・・・」医者と看護師の話を聞いていたゲンがドアを開け、「先生 お金は あとでかならず はらうけえ おかあちゃんを みてくれよ」と医者に詰め寄ります。

 そして手を床について正座し「おねがいじゃ おかあちゃんが 死んだら わしゃ 気がくるうよ たのむから はようきてくれよ」と懇願します。「わ・・・ わしは いそがしいんじゃ ほかの病院へいけ」

 

 「ど・・・ どうしても だめなんか」「だめじゃ だめじゃ」「く・・・ くそ~」。とうとう頭にきたゲンは、「このヤブ医者」と言って医者の背後に飛び掛かり、右手であごの下を締め上げ、両足を胴にはさんで、頭をガリ ガリ ガリ ガリ ガリ ガリと歯でかじります(いかにもマンガチックな絵です)。

 

 「ワッ な なにをするか!」〈アレ~〉。「お おどりゃ もしも おかちゃんが 死んだら かならず おどれも 殺しゃあげ たるぞ」「イタタタ」。「このクソガキめ」と医者はゲンを叩き、「さっさとでていけ」バンッと足で蹴って表へ放り出します。「ううう ちくしょう おぼえとれ おぼえとれ」。

             ムキーアセアセ

 「く・・・ くそ・・・ どうすりゃ ええんじゃ 医者のやつ わしら 貧乏人は みてくれんよ ううう (二人の兄の顔の絵が描かれています)浩二あんちゃーん 昭あんちゃーん どうしたら ええんじぁゃ はよう かえって きてくれよ 力を かしてくれよ」。

 

 「.ちくしょう ちくしょう」と言いながら泣いて走るゲンの絵に、作者は次のように書いています。——敗戦は 人の心も腐敗させ すべての人間が けものとなった 日本中に 混乱の つめたい風が ふきあふれた・・・。

 「わ・・・ わしゃ ならんぞ あんな医者のようには ならんぞ 苦しんで いるものを いじめる 男にゃならんぞ」

 

 ●母の苦しみの元は胃けいれんだったびっくり

 「お おかあちゃん 医者のやつ きてくれんのじゃ」「ああっ りゅ・・・ 隆太 おどりゃっ くるったのか」。家に戻ったゲンが、ガラッ と戸を開けて中を見ると、床にうつ伏せになった君江の背中の上に形相を変えた隆太が右足をのせ、両手で握った棒で背中を強く押しています。

 

 「おどりゃ 隆太 なにをするんじゃわりゃ気がくるったのかっ このばかたれっ」。ゲンは隆太を殴ります。そして「こいつ よくも 病人のかあちゃんに ひどいことを」とボカッ ボカッと拳で叩きます。

 

 「うわ——い ちがうよ ちがうよ」「やかましい ちがうも へちまも あるか なんで あんな ひどいことを したんじゃ」。「イタイタ おばちゃんに たのまれ たんじゃ」「ばかたれっ かあちゃんが あんな ひどいことを たのむか」「ほんとうじゃ ほんとうじゃ」。隆太の背中で馬乗りになったゲンの左手は隆太の耳を引っ張り、右手の人差し指と中指は隆太の鼻の穴に入れて鼻を引っ張り上げています(笑)。

 

 すると傍の、苦しそうな表情の君江が「げ 元・・・ おやめ あ あたしが 隆太に たのんだんだよ」。「ええっ なんでじゃ」。

                アセアセ

 君江は苦しそうな表情で・・・「ハアハア どうやら 胃けいれん だった ようだ・・・ 隆太に 背中を 力いっぱい おさえて もらうと 痛みが すこし らくになった・・・ ハアハア ほんとうに 胃けいれんは くるしいよ 腹が ちぎれる ようだった・・・ ひどい たべもの ばっかり たべているから 胃けいれんが おきたんだよ」

 

 「オギャー オギャー」。「だ・・・だいじょうぶかかあちゃん」「う・・・ うん しばらく やすめば・・・・」。

 

 「ふ~~っ よかった わしゃ 医者のやつが きてくれんし どうしようかと おもった・・・」。ゲンがそう言いながら帽子をあげると丸ハゲの頭から汗がしたたり落ちています。

 

 「あんちゃん わしやよくないぞ」。さっき、ボカボカにされ頭にこぶができた(笑)隆太が鼻の穴から鼻水を垂らしながら言います。「エへへへへ 隆太ちゃん いたかった?」「あたりまえじゃ」。

 

 すかさず隆太は飛びあがってゲンの頭に拳固をくらわしてゲンを「ギャッ」と言わせ、お返しとばかりに見事なこぶをつくります。

 

 ●ゲンの兄・昭に疎開先に迎えが来ないムキー

 ミ~~ン ミ~~ン ミ~~ン

 ジ~~ ジ~~.

 

 ——ー。場所はゲンの兄・昭が集団疎開している広島県山県郡の山奥にあるお寺です。戦争が終わったので親がお寺に我が子を迎えに来ています。

 

 「うわ——い うれしいのう きょうから おとうちゃんと おかあちゃんと くらせるんじゃ」「ワイ ワイ」「キャ キャ」「ワ——イ 広島に かえれるんじゃ ええのう ええのう」。「さあ みんな 出発するぞ」「ワイ ワイ」「ガヤ ガヤ」。

 

 しかし、昭と友だち二人の3人は誰も迎えに来ていないでしょんぼりしてみんなを見ています。

               えー

 「グスン ええのう あいつら・・・」「わしらも はよう かえりたいのう」「なにを しとるかのう おとうちゃんと おかあちゃんは」。

 

 「中岡 広田 米川 おまえらの ことは 寺の和尚さんに よ~~く たのんで あるけえ むかえがくるまで 元気で おとなしく まっているんだぞ ええな」。「グスン」。

 

 「おてて テンプラ つないで 野道を いけば ババチャン」。みんが歌いながら出発していく後ろ姿を3人は肩を落として見送ります。

 

 ●昭と広田・・最後まで残るのは誰?えー

 ザ—— ザ——

 お寺の屋根に雨が降り注いでいます。

 

 「うわ——ん おとうちゃんの ばかばかわしゃ さびしかったよ」「すまん すまん かあさんや 弟たちが ピカで死んで あとかたづけ などで むかえに くるのが おそくなった もうなくな きょうから 広島へ かえって とうちゃんと いっしょじゃ」「うん・・・」

 

 障子のすき間から昭と広田が、迎えに来た米川の父と米川のやりとりをうらやまし気に聞いていました。「昭 とうとう わしら ふたりだけに なったのう」。

 

 菊のような花びらがある一輪の花を手に持った広田が昭に言いました。「う・・・ うん」。「わしらの とうちゃんや かあちゃんや 親類も みんな 死んだのかのう」「ばかたれ えんぎでも ないことを いうなっ 生きとるわい みんな 生きとるわい」。

「ううう おとうちゃん おかあちゃん はよう むかえに きてくれよ」

 

 「エへへへ 中岡 広田 さきに かえるぞ あばよ」。そう言いながら米田が父親の後についていきます。「フン さっさと かえり やがれ」。

             お願い

 「かあちゃんがくる こない・・・ くる・・・ こない・・・」

 

 広田が涙目で、手に持っていた花の花びらを一枚一枚ちぎって花占いをしているのを、そばで見ていた昭は言います。

 

 「やめろ 広田 そんなおまじないは うそだから あてにするな」。「だ・・・ だって・・・ くる・・・ こない」「ばかたれっ イライラ するけえ やめろっ」。「くる・・・ やった~~ くると でたぞ わしの かあちゃんは くるぞ」「ばかたれ そんなの あてになるか」。

 

 「昭 ばかにしてると バチがあたって おまえには むかえが こんわい」「フン わしのほうが 先にくるわい」。「ばか わしのほうが 先じゃ」やかましい わしの ほうが 先じゃ」

ー続く

        チューリップオレンジふたご座チューリップオレンジちょうちょパンダチューリップ赤

        2024年3月22日(金)

            おばけくん