口笛中年の研究ー中年をどう生きるか  ~目次~(投稿分) 

 はじめに 第1章 ようこそ中年へ (1)中年はいつ始まり、いつ終わるのか私が中年を意識した頃中年の始まりは40歳前後とは限らない / 35歳が中年の始まり? / 25歳の娘の眼からは52歳の私は高年! / 苦肉の言葉? 中高年 / 「中年は伸縮自在な年齢」その理由 /(2)中年という言葉は、いつ、どこから生まれてきたのか / “俵かつぎ対抗リレーで壮年団が与えた感動 / 「中年の魅力」という言葉を耳にしたのは昭和30年代~40年代だった / 「中年者」という言葉は江戸時代からあった / 中年世代人口と若年世代人口の逆転 / アメリカで出版された『ミドル・エイジ・クライシス』 / ギリシャ神話の中年男・ミダース王 (3)ひとは、いつしか中年になる  /  年齢よ! 37歳のままで止まっておくれ! / 永遠に37歳でいられるのが「最高」!? / まだ若い若い / 中年は一日にして成らず / 中年のしるし ベスト・スリー / 中年の番付とライフサイクル上の位置 / 「新婚さんVs.中年夫婦さんいらっしゃい!」 /

 第2章 「中年になる」ということ (1)中年になるということは人生が半分過ぎたということ / 中年の発見 / 中年現象の共通性 / 人生の残り時間を意識する / あることを終えたという感覚に包まれる / 青春の魔法を失う / 老いや死を意識しだす / 一年をはやく感じるようになる理由(わけ) / (2)中年の峠から見えてくるもの / 失うものと得られるもの / 肉体の衰えの中に生の本質を発見する / 中年からの時間の質 / 中年は体験と時間を実らせる / 世の中や人間がわかるようになる? / 中年からは知恵と技が勝負の切り札 /  (3) 本当の大人になる /  私が「自分は大人になりきれてない?」と懐疑的になるとき / 私を懐疑的にさせる理由 / 迷えるオトナ/  大人になんかなりたくない 

  第3章 私の中の中年もよう (1)中年になったことに誇りをもてるだろうか / 中年の私は二つの間(はざま)で生きている / オヤジの魅力はホットするところと哀愁感”/ 中年を誇ろう!中年と同窓会 /過去は宝物 / 内なる少年性 / 父親の心を知る / 親から子へ・・・/(2)中年になったればこそゆったりと アルコールとのつきあい / 酒と私  / ゴロゴロしててもいい / 中年と趣味 / 庭いじりを好むようになる理由(わけ)/中年と家事 /中年とお金 / 貯まる人と失う人 (3)中年における不安危機も人生の通過点 熟年離婚の増加は本当? / 夫婦・・その理想と現実” / 長寿社会と中年夫婦” /   第4章 中年の危機をのりきる  (1)中年の危機とは何か ピントこない?中年の危機”/ 私も中年の危機のただ中にいた・・・/それはアメリカ発だった/レビンソンがとらえた中年の危機における危機/ ”中年の危機は誰にもやってくるという〈2〉危機は成長過程の一部? 8つの危機 /8つの危機の意味するもの/危機は成長の可能性を孕(はら)んでいる/「中年の過渡期」(=危機)の3課題 を考えるエリクソンによる発展的危機説 / アメリカで中年の問題が始まった理由(わけ)/(3)危機は変化と可能性への糧である 人生を段階的なものとみる東洋的な特徴 / 昇りの梯子を見失う日本における中年の危機”/元祖!?中年の危機への対処人ーカール・ユング / ユング自身が体験した中年の危機 / 「創造の病(クリエイティブ・イルネス)」と危機の克服 /

   第5章 中年からを生きる (1)自分らしく生きる  四十になったら惑わない? / 今を楽しむためと将来に備えて“好きなこと”をする / 人と余計な競争をしない / 自分らしく行く(生きる) / 内なる声や内で燃えるものに従う / 五十歳でギア・チェンジする / 自分らしく生きる贅沢 /(2)中年だからこそ夢を持つ 中年になって夢にめざめた私 / 夢の力を見直す/ 中年からの”夢の力” /

         第5章 中年からを生きる

          

 (2)中年だからこそ夢を持つ

           Ⅰ~Ⅵ

 Ⅵ-Ⅳ)「5年ごとに新しい夢を描く」生き方

 年をとっても将来を夢みることを忘れてはいけない—―ということを教えている、ユダヤ人が子どもたちに好んで聞かせるこんな話があるという。

 

 80歳の老人が木を植えているのを3人の若者が見てこう言って笑ったそうだ。  

 「あんな年寄りが木を植えている。大きく育つまで生きられるわけがないのに」と。それを聞いた老人は、いつの日かこの木に果実が実り、人々が木陰で憩うことを夢みる喜びがわからないのかと嘆いたそうだ。その後、老人を笑った若者の1人はアメリカに渡ろうとして海で溺れ、1人は軍人として戦地へ行き、3人目は木から落ちて死んでしまった—―というのである。

 

 私はその話を知り、若い時だけでなく、年をとってからもほぼ5年ごとに新しい夢を持ち続け、その夢を実現させてきたというある小説家のことが頭に浮んだ。

 老々介護を描いた「黄落」などで知られる、1934年生まれの小説家、故 佐江衆一(さえ・しゅういち)さんである。佐江さんは高校を卒業して上京し18歳でサラリーマンになったが、半年もするとサラリーマン生活に嫌気がさしたそうだ。

               ショボーン

 辛抱や持続が大事なことは百も承知だったが組織の中の歯車になるだけではなく、どうしたら自己実現ができるのか「自分を探し当てて、自分らしくいきたい」と切実に考え悩んだそうである。「たった1度の一生なら好きなことをして自分らしく生きたい」。そう切実に思ったのは佐江さんが20歳のときだった。

 

 サラリーマンとしてこのまま辛抱すれば、係長、課長ぐらいにはなれるかもしれないがそれで定年までを過ごしたくないと思ったそうだ。そんな中、佐江さんは「小説家になりたい」という夢を抱くようになり文学の勉強を始めた。22歳の時だった。

 会社勤めをしながら「5年間勉強」した結果、佐江さんは27歳の時に芥川賞候補になる。

 その結果「5年間やれば成果が出るものだ」とそう自信をつけた佐江さんは30歳からの5年間さらに勉強を重ねその後は会社をやめて小説家の道を選んだという。

 そうした体験があったため、佐江さんはその後も5年ごとに新しい夢を描きながら人生を送ったというのだ。それはこんな具合であった。

              照れ

 「ゴルフは30代でピタリとやめ、40代でテニスに移り、これも5年後には遠ざかり、45歳からはじめたのが古武道」だった。そして50歳を過ぎたころからは、これまでのシリアスなテーマの現代小説一点張りからはじめて歴史小説に挑戦する。  

 さらに55歳からは剣道をはじめ、還暦を迎えた年には3段に合格したそうだ。

 

 Ⅵ‐Ⅴ)生活と人生の不満から夢が生まれる

 佐江さんのそうした——5年ごとに夢を描く人生の送り方を知ったのは佐江さんの本『不惑 人生の元気力』(講談社)だった。で、とくに私が驚いたのは55歳から剣道を始めて5年経った60歳の時に3段になったということだった。

               驚き

 恥ずかしながら私の場合、50歳になったのを機に「これからは夢を持って生きよう」などという思いにはなったものの、しかし心のどこかに「どうせ何をやってもうまくいきはしない」という無力感が沈殿していた。それに「どうせもう歳なんだからたいしたことなんかできっこない」という気持ちが行動にブレーキをかけていた。

 

 自分がまだ若かったときは、「50代で守りの人生に入るなんてナンセンス」と誰かが言っていたのを、「そうだ、そうだ」と聞いていたが、実際に自分がその50代に突入してみると「もうシンドイ思いをするのはゴメンだ」という気になりがちだったのである。

              ショボーン      

 それだけに、55歳で初めて竹刀を握って剣道の道に入っていかれたと言う佐江さんに拍手喝采を贈りたくなったものだ。55歳といえばひと昔前だったら「55歳定年」を迎えていた年齢で、その後は囲碁を打ったり、盆栽をいじったりというイメージの年齢である。それがどうして剣道などを?!と驚いたというわけだった。

 

 しかしその秘密は、やはり夢にあった。佐江さんにとって「剣道は少年のころからの夢だった」。「 敗戦の翌年、旧制中学に入学したときは武道禁止で、剣道場も立ち入り禁止」だったのだそうだ。以来、佐江さんは「武道への夢を片隅におしこめて」、会社勤め、そして作家生活をやってこられたというわけであった。佐江さんにとっては「剣道への夢」が会社勤めや作家生活の糧だったのである。

             口笛

 ところで、考えてみると人生が順風満帆なときは、夢などあってもなくても生きていく上ではあまり関係ないのかもしれないと思う。社会の生産力が高まり、品質の良い商品が多種多様にあふれている現代社会はお金を出せばそんな商品が自由に手に入り、そうした商品に囲まれた日常生活そのものがまるで、すでに「夢」のようなものだからである。そういう意味では、現代は物質的な「豊かさ」が「夢」を抱きにくくさせているといえるかもしれない。

 

 そうだとすれば、”夢が生れる条件”ともいうべきものは、順風満帆な生活が破綻したり、生活や人生に”瑕疵や不満”が生じたときであろうか。また、生活や人生がうまくいっていると思われる場合でも、マンネリが生じ、このままでは退屈な生活や人生を送ることになると危惧の念を抱いたときも、「もっとよりよい人生を送らねば」「もっとよりよい自分を生きなければ」などと「夢」が生れやすくなるにちがいない。ともかく、不満が夢のタネである。

              オカメインコ

 くだんの佐江さんも、「未熟だと思い、なすことに不満があるから、新たな夢に挑戦する意欲が湧いてくるのだ」と書いている。

        

 ハイハイ差別について考える ⑱

 ●ハンセン病療養所の園歌と沢知恵さん➀赤薔薇

 これも新聞で拾った話題ですが新聞をパラパラめくっていたら「朝日新聞」

(2023年10月25日付)に「ハンセン病療養所の園歌」というタイトルで、歌手の沢知恵さんのインタビューが掲載されていました。以下に引用させて頂きご紹介します。

 

 学校には校歌、国には国歌があるように、ハンセン病療養所にも「園歌」があるそうです。国の誤った政策で生涯、療養所に隔離された人たちにとって、園歌はどんな意味をもったのだろうか。歌手の沢知恵(さわ:ともえ)さんは全国13カ所の国立療養所すべてを訪ね、入所者に歌ってもらい、楽譜や証言を集めてきたそうです。

 歌が果たした役割とは、また音楽の力とは何だったのでしょう———。

               チューリップ黄

 1971年に神奈川県で生まれた沢さんがなぜハンセン病問題に関心を持ったかというと、キリスト教の牧師だった父が学生の頃からハンセン病療養所で奉仕活動をしていたことと関係があったとのことです。

 

 その父が、生後6カ月の沢さんを瀬戸内海の離島にある、大島青松園(高松市)に連れて行きました。もちろん沢さんに記憶はありませんが、ちゃんと写真が残っています。ただ、父は沢さんが高校生のとき、病気で亡くなりました。

 

 そこで、生前の父の足跡を追い、沢さんは1996年にその青松園を訪ねました。

 幼い頃より約20年ぶりでしたが、「ともえちゃん大きうなったなあ」と入所者の皆さんが大歓迎してくれたそうです。入所者は子どもを持つことが許されず、赤ちゃんは珍しかったのでしょう。人が人を覚えてくれている。沢さんは大きな愛を感じ、以来、島に通うようになったのです。

              チューリップ黄

 その大島青松園では2001年から毎年、コンサートを開いてきました。コロナ禍で1時中断しましたが、2023年8月、島外からの人も交えて4年ぶりに公演をしました。沢さんは「療養所がどんなところか、外の人に伝え、足を運んでもらうことが私の使命だと思っています」と言います。

 

 ●園歌を通じて明らかにしたかったこと

 沢さんがハンセン病療養所の園歌に関心を持ったきっかけは、青松園の教会で偶然、園歌の楽譜を見つけたことでした。入所者に頼むと、うれしそうに歌ってくれました。もともと東京芸術大学学理課で学び、音楽と社会の関係に関心があったため、その時から、園歌を通じて隔離政策の歴史や入所者の思いを明らかにしたいと考えたと言います。

 

 以来、冒頭でのべたように全国13カ所の国立療養所すべてを訪ね、楽譜を探し、歌ってもらいました。入所者はほとんどが80代後半で、話を聞ける最後の機会です。中には園歌をつくり直した例もあり、計23編を確認し、岡山大学大学院の修士論文に成果をまとめたとのこと。

               チューリップ黄

 そもそもなぜ園歌がつくられたか? それは、校歌や社歌が共同体をまとめるために有効なものとしてつくられ歌われたように、園歌は、かつてはハンセン病を発病すると法律で隔離され、療養所で一生暮らさなければならなかったその療養所という共同体への帰属意識や仲間との連帯感を高めるためにつくられ歌われたのです。

 

 ●「民族浄化」という言葉の歌詞があった

 園歌の曲は、有名な作曲家や地元の音楽家に作曲を依頼したものがほとんどで、行進曲風の4拍子が多く、一方、歌詞は、明治期に療養所ができた頃は、役人や園の職員が作詞しました。やがて園内で文芸活動が盛んになると、入所者も歌詞をつくりました。地域の自然や景観を歌うだけでなく、時代によって国家主義や皇室賛美、科学礼賛などの色彩を帯びたものもあります。

 

 なかでも『民族浄化』という言葉は、沢さんにとって衝撃的でした。

 

 それは、青森市の松丘保養園の前身、北部保養院の院歌の一節にこうありました。  

 「民族浄化目指しつつ 吾等(われら)の保養院」

              チューリップ黄

 作詞は内務省衛生局予防課長などを務め、歌人でもあった高野六郎です。作曲は軍楽隊で有名な陸軍戸山学校でした。高野はハンセン病患者をすべて療養所に隔離する「無らい県運動」を率い、「民族浄化」はそのスローガンでした。

 

 さすがに戦後は、その歌は歌われなくなりました。

 

 しかし、実は、入所者がつくった歌詞にも「民族浄化」という歌詞が出てくる園歌が他にもありました。国家権力が、患者自らに民族浄化を言わせてしまったのです。

 

 患者は、汚れた自分たちがいなくなることが、国家や民族への奉仕だと思い込まされたのです。

              チューリップ黄

 沢さんは、実に悲しく恐ろしいことだと言います。確かに、入所者がどんな思いでその言葉を歌詞にし歌ったのかを思うと考えさせられます。

 

■漫画『はだしのゲン』ラブラブを読むうさぎ 

      <50>

     麦よ出よ

 ●天皇の問題を取り上げてみる牛

  昭和20年8月15日——。

  ゲンの兄・昭たちは戦争中に集団疎開していたお寺のラジオから流れた天皇陛下の放送で日本が戦争に負け、戦争が終わったことを知りました。昭は友人が、天皇陛下が「朕」(ちん)と言った意味を「チンポのことかと思った」と言ったので「ばかたれ先生にぶんなぐられるぞ」と叱ります。また、昭たちは、広島の家に帰れると喜ぶとともに、原爆が落とされて家族みんなが死んでいたらどうしようと心配しました。

 

 一方、広島の実家にいて戦争が終わったことを知ったゲンは、母・君江にそのことを知らせました。すでに聞いていて知っていた君江は、もっと早く戦争をやめれば原爆で何十万の人たちが死なずにすんだのにと国民に断りもなく戦争をはじめた天皇陛下をうらみました。また、戦争で儲けるやつに踊らされ天皇陛下を信じて裸にされた日本人を「おめでたいよ!」と嘆き、

                ムキー

 天皇陛下を利用して戦争をはじめ、儲けてぬくぬく生きている金持ちや戦争の指導者を「殺してやりたい」と怒ります。そして、「戦争ほどばからしいものはない」「あたしらはバカを見たよ」「父さんや英子や進次を返してほしい」と泣きくずれました。

 

 こうした漫画の中で描かれていたことを踏まえて、私は〈49〉の終りで、作者の中沢啓治さんが『はだしのゲン自伝』(教育資料出版会)の中で、戦後2年経った昭和22年(1947年)に広島に天皇陛下が来た時に抱いた(昭和の)天皇陛下に対する怒り・批判を書いているその内容を紹介しました。

                イルカ

 中沢さんが小学校3年生の時に広島に天皇陛下が来たその時のことは、この先の『はだしのゲン』の第5巻で描かれているのでそこでまた天皇のことは取り上げることになろうかと思いますが、その前にここで少し取り上げてみたいと思います。

 

 ●作者に寄せられた1万通余りの手紙音符

 取り上げると言っても、ここで私の意見を述べようというのではありません。

 2つ前〈48〉のところで、『はだしのゲンへの手紙』(1991年 中沢啓治 編・教育資料出版会)という本をご紹介しましたが、その中で、天皇についてふれてあるものを取り上げてご紹介しようと思います。

 

 その本は『はだしのゲン』の漫画や映画やアニメを見て、中沢啓治さんのもとに全国から寄せられた小学1年生から社会人・一般までの1万通余りの手紙の中から中沢さんと出版社が選考しその1部を掲載している本です。

 

 〈48〉では、そのうち、小学5年生の女の子の「いちばんきもちわるかった」のは第3巻だったという感想文を取り上げました。第3巻の大半を占めている物語は、ピカで傷を負った登場人物・画家志望だった吉田政二が周囲からも家族からも嫌われ差別されていたなかで、その政二にゲンと隆太が寄り添う話しでしたが、

                びっくり

 その子は、「いちばんきもちわるかったのは、3でした」に続けて、「うじ虫がいっぱいわいて、血をはいてとてもきもちわるくて、はきそうになりました」と書いていました。子どもはなんと正直なことを書くものだと思います。

 

 本にはその子を含め小学校の1年生から6年生、中学校の1年生から3年生、そして高校の1年生と2年生、社会人・一般からの95人の手紙(「ゲン」の感想)が載っています。

                飛び出すハート

 タイトルの1部をご紹介すると——ー「ひこうきがとてもきらいになりました」「よるおそくまでねむれませんでした」(小学1年生)「せんそうのことをおかあさんにききました」「たすけてくれー、せんそうなんかやめてくれー」(小学2年生)「なぜおとなは戦争するのかな」「げんばくはすごくこわい」「せんそうがおこったら、わたしだけになっても反たいします」「てんのうはきらいです」(小学3年生)

 

 「ゲン君は、ゆう気があって、大好きです」「しんじくんのたんじょう日おしえてください」「かくへいきなんか、みんな分かいしてしまったらいいのに」(小学4年生)「読みだしたらやめられなくて」「おとうといもうとにもよませてあげました」「時計が八時十五分に近くなると、こわくてこわくて・・・・・」「天皇がにくいですか」(小学5年生)「一番きらいな0点は、二番になりました」「こんな本、だれが読むかと思っていたが」「社会でならったより戦争のことがよくわかりました」

                 飛び出すハート

 「戦争中に生まれなくて本当によかった」「自衛隊のお兄ちゃんが心配」「ゲンたちに白いごはんを食べさせてあげたい」(小学6年生)「この手で伝えよう、忘れられかけた被爆者の苦しみを」「原爆をとめられる人はひとりもいなかったのだろうか」「今までの戦争に対する認識がどんなに甘いものだったかと・・・・」(中学1年生)「苦しい思いで映画を見ました」「この恐ろしさを世界に訴えたい」(中学2年生)

 「ぼくは被爆二世」「今の時代に、天皇陛下が悪いのだと思ってもいいのですか?」「軍国主義は人間から人間愛を奪ってしまう」「戦争でもうける者たちの企てを見抜かねば」(中学3年生)「本当の姿を知れば、戦争など二度としなくなる」(高校1年生)「少年自衛官として先生に言いたいこと」(一読者)「人間の利己主義が戦争を生みだす」「原爆ドームをしっかり目に焼きつけてきます」(高校2年生)「ゲンはわたしたちの太陽」「天皇の責任を」「くじけそうになったらゲンの顔を」(社貴人・一般)―——。

                 

 ●「てんのうはきらいです」という手紙照れ

 さて取り上げると言った天皇の問題です。先のタイトルにもあったように、中沢さんへの手紙で「てんのうはきらいです」と書いている小学3年の男の子は、ゲンの本はとってもだいすき、げんしばくだんは、もうにどと広島、長さき、だけではなく世界にも、ぜったいにもうおとされては、いけないと思います、と書いた後でこう続けていました。

 

 「ぼくは、せんそうはんたいは、もちろんです。そしてぼくは、てんのうは、きらいです。てんのうがめいれいしてアジア人をいっぱいころしたり、こきつかわせたり、せんそうに、はんたいした人は、ころしたり、さんざんこらしめたりしたからです。それだけでなく、げんしばくだんで死んだ人も、てんのうのせいです。アメリカ、のへいしもわるいと思います。ぼくは、てんのうからだまされたと思います。

                むかつき

 でも、ぼくの友だちは、せんそうにはんたいしますが、てんのうは、えらい人と思っている人がたくさんいます。てんのうは、ひばくしゃの人たちにあやまらないでひきょう者とおもいます。でもぼくのうけもちの先生は、せんそうに、はんたいしましょうと言いますが、てんのうは、えらい人と思っています。

 

 先生もだまされているのだろうと思います。ぼくは、はだしのゲン、1,4,5,7,8,9,10かんをもっています。はだしのゲンは、てんのうは、ほんとうにわるいんだ、せんそうはぜったいしてはいけないのだと、本当のことをしらせていると思います。第二部を、よむのを、たのしみにまっています。お元気で、さようなら。」

  

 ●中沢さんは「天皇がにくいですか?」という小5鳥

 「ぼくは、てんのうはきらいです」——。

 

 私は「小学3年生にしてこういうものが書けるんだ・・・」と驚きました(なにしろ自分が小学3年生のときはチャンバラごっこやメンコやビー玉で遊んでばかりいたので、「てんのう」は頭にかすったこともありませんでしたから)。

 

 さて、次にご紹介するのは、「てんのうがにくいですか」と題された、「中沢けいじさんへ。」で始まる小学5年生の今度も男の子の手紙です。

 

 クラス全員でビデオを見て、原爆がおちる所はきもちわるかった、ちいさいころは、せんそうはかっこいいなあと思ったり、せんそうごっこなんかもやりましたが、「でも、はだしのゲンの本をよんだり、ビデオを見て、戦争はいけないものだなあということを思いしらされました」と書いた後、こう続けていました。

               おばけくん

 「ところで、今、天皇へい下が病院に入院していますが、もしかしたら、その病気というのは、日本は戦争にぜったい勝つ! と言われて死んでいった兵隊や、戦争をかってにはじめたために、原爆を落とされて死んでいった、広島と長崎の何百万人の人の天皇をうらむ気持ちなのかもしれません。中沢けいじさんは、家ぞくを殺した戦争と、天皇がにくいですか? でも、こんなことを言ったら、死んでしまった人にはわるいけど、戦争があったから、今があるんだと思います。もし戦争がなかったら、今とはちがった世界になっていたと思います」

 

 ●「天皇のために死ぬのはばかばかしい」ハートブレイク

 勿論「天皇へい下」は「昭和天皇」のことで、「病院に入院しています」とあるから、亡くなる前、1988年~9年の頃でしょうか(それから30有余年が経ちましたから当時5年生だった男の子は、今は44~5歳か)。

 

 天皇についてはほかにも6年生の女の子が、「白いご飯を食べさせてあげたい」という題でこう書いています。

 

 「ゲンは、父も姉も妹も弟も、戦争でなくしてしまったのです。(改行)あんなに苦しんでいるのに、天皇のために死ぬとほこりだなんて、本当にばかばかしいと思います。あんな日本に、絶対めぐり合う事のないよう、戦争はしないという事を、しっかりと守りながらいかなければなりません。

                 ハート

 あんなふうに、ゲンのように、苦しみを見ていくのは、いやです。人の血を見てくらしているようで、いやです。白いご飯を、ずうっと食べてる私達は、本当の苦しみは知りません。ゲン達に、白いご飯をたくさん食べさせてあげたいです。私達も、ずうっと幸せにくらしていきたいです」。

 

 ●「天皇がにくいですか?」への「返書」アセアセ

 ところで、『はだしのゲンへの手紙』には、読者からの様々な内容の手紙に対して、中沢啓治さんが《ゲンからの返書》ということで書いた文章が載っています

 

 (〈1〉〈2〉〈3〉〈4〉。その〈2〉で、天皇について先の小学5年生の男の子が「中沢けいじさんは、家族を殺した戦争と、天皇がにくいですか?」と手紙で尋ねていることに対して中沢さんはこう返書しています。

               OK

 「天皇を憎むゲンの気持ちは、私の本当の気持ちです。私は、戦争の責任は天皇にあると思っています。「ヒロヒト」の名を書き、「ギョメイギョジ」の印をおして戦争遂行を命令した昭和天皇が、その責任をとらずに天寿をまっとうしたことが許せません。日本三百万、アジア二千万の人びとが、天皇の名のもとに殺されたのです。〇〇〇くん(〇の中は男の子の姓名)、私は天皇が憎いです。この決着をつけるまで、私は訴えつづけます」。

 

 中沢さんの天皇を憎む気持ち、責任を問う厳しさは、前〈49〉にも述べましたが並大抵ではありません。 

 

 ●「天皇は悪いと思っていいのですか?」という問いハートブレイク

 しかし、天皇に対する感じ方も読者によって違いがあります。

 

 中学3年生のある男子生徒は、「はだしのゲン」を読んで感動した、主人公のゲンが好きになったなどと書いた最後にこうつけ加えています。

               ニコニコ

 「最後に一つお聞きしたいのですが、この話の中で天皇陛下が悪いということはよくわかりました(戦争に協力した国民もそうです)。でも、今の時代に戦争責任者は、天皇陛下であってほんとうに悪いのだと思ってもいいのでしょうか。このことを教えてください」。

 

 また、高校2年の埼玉県の女生徒はこう書いていました。

 

 「ラストシーンで、ゲンの母親が、天皇に向かって、叫んでいたが、あの言葉は本当に力強いものだった。考えてみれば、たった1人の言葉で何万という人々の生命が左右されるなど、恐ろしい。

                えー

 ここで思うことは、当時、天皇は、戦時中、何を思っていただろうという事である。領土か、人間の生命か、しかし、こんな事を言えるのも、天皇の権力が戦争当時程、身にせまっていない現在だからだけれど、当時においては、こんな事は、おくびにも出せなかったろう。

 

 当時は、世の中が、すべてあやまちをそれと知らせるには、ほど遠い状態にあったといえるのではないだろうか」。

                 はてなマーク

 つまり二人とも天皇が悪いというのはわかったけれども、今の時代、天皇が象徴となっている平和憲法の下では天皇の責任をストレートに問うのはどうなの? とためらっているように思えます。

 

 ●大衆を苦しめ、原爆を落とさせた天皇驚き

 しかし、そうしたなか社会人・一般の部のある女性はこう書いています。

 

 「 ただひとつ気になることがありましたのでお手紙しました。それは戦争責任の問題なんです。先生の作品には『鬼畜米英』という言葉に類するものが多く、それはそれで当時の国民の思想とういう意味でいいと思います。

 

 でも最近、あまりそれが多く、なにかヒロシマの原爆の責任がアメリカにあるような錯覚をおこしやすいのです。たしかに、アメリカ帝国主義の悪さもあるかもしれません。しかし本当に日本の大衆を苦しめ、ヒロシマに原爆を落ちることにさせたのは天皇なのではないでしょうか? 

                 びっくり

 歴史事実として、近衛文麿が天皇にあてた手紙に「日本は負けてもかまわない、国体だけ護持されれば」という言葉が残されており、

 

 また、ポツダム宣言を受諾するかどうかで迷ったのは、戦争を終わらせるかどうかではなく、天皇の戦争犯罪を免責されるかどうか、という時点で迷っていたというのが定説になりつつある現在、

 

 その迷っている期間にやってきた8・6,8・9は、当然、天皇ヒロヒトの責任といってさしつかえないはずです。

                 びっくり

 天皇が自分が犯罪人になる覚悟でポツダム宣言をすんなりうけいれれば、ヒロシマ、ナガサキの原爆はさけられたわけですから。

 

 それだけのことをやっている天皇が1971年にヒロシマに行き、資料館をみたかといえば、山田市長の手により資料館は閉館されていたわけです。

 

 遺族の人々に、はずかし気もなく手をふり、表情ひとつかえずに歩いた天皇。丘の上から広島市を見、山田市長の説明を聞きながら『あ、そう』の感想しかのべない天皇。               びっくり

 私は今年の8月、ヒロシマを訪れ原爆病院へも行ってきました。やっとうちとけてくださった患者さんのくちから私は、はっきり聞きました。

 

 「 天皇ネ。あの人はヒロシマに来られる人じゃなかったんよ。あれで人間の良心ってのはもってないのかね。せめて資料館、見てほしかった。自分の罪を知ってほしかったんよ。勝手に戦争はじめて、天皇の為、国の為と命おとさせてのう。最後のしめくくりには、“私はどうなってもいいから国民を・・・・”なんて美談で終わらせて・・・・。原爆の前にそれが言えんかったのは、あん言葉ニセモンの証よ、そうさね」               ショボーン               

 京都生まれだというそのおばさんの、やさしい関西なまりに包まれた激しい言葉に私達は圧倒されました

 

 ●「天皇に戦争責任があったのは明らか」と中沢さんムキー

 中沢さんはこれらの手紙に例の〈返書〉では触れていません。

 

 しかし本の「あとがきにかえて」でこう述べていました。

 

 「 ゲンへの手紙のなかで、『天皇の戦争責任』について書かれたものも少なくなかったのですが、昭和天皇に戦争責任があったのは明らかです。日本軍の戦争の戦闘行動は、すべて『天皇陛下の名のもと』に行われたからです。天皇が『平和主義』で『終戦は天皇の裁断で決まった。天皇が日本を救った』という人がいます。しかし、終結の裁断をしたのが天皇なら、開戦の裁断をしたのも天皇です。天皇は、進撃する日本軍をしばしば賞賛していたではありませんか。八月十五日の終戦の裁断についても、ズルズルと降伏を遅らせたうえ、『本土決戦』を叫ぶ軍人の頂点にいたのは、天皇でした。終戦九日前の八月六日広島に、六日前の九日に長崎に原子爆弾が投下されているのですから・・・・。

 一九七五年十月、記者会見で昭和天皇はこういいました。

 

 記者 陛下は、これまでに三度広島へお越しになり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられるわけですが、戦争終結にあたって、遠視爆弾投下の事実を、どうお受け止めになりましたでしょうか。

 

 天皇 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています」。

(『陛下、お尋ね申し上げます——記者会見全記録と人間天皇の軌跡』高橋紘/文春文庫)

〈略〉私は、原爆の実態を天皇に示し、天皇は土下座して心から自分の責任を謝ってほしいとおもいました

          米

 次回は再び漫画に戻ることとします。

ー続く

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      2024年3月12日(火)

          おばけくん