DATA:『全身小説家』劇場公開日 /1994年9月23日 /

1994年製作 / 日本 / 配給 疾走プロダクションユーロスペース /

 監督 原一男 /「地の群れ」などで知られる作家・井上光晴の

〈虚構と現実〉を、彼がガンにより死に至るまでの5年間を追い

描いたドキュメンタリー / 出演 井上光晴 植谷雄高 瀬戸内寂聴 ほか /

 

 ■人間・井上光晴描き出す

  『全身小説家』

 △月×日

 「なんか、おもしろい映画が見たいなぁ」という時のその映画はほとんどがフィクショナルな劇映画だ。主人公が、立ちふさがった困難や危機を乗り越えていく。困難や危機ははじめのうちは小さいがだんだん大きくなる。それでも押しつぶされないで、立ち向かっていく主人公の姿にハラハラしたり、ときに驚きの声をあげる。観客がそのようになる計算がされたものほど、観終えたあとで「ああ、おもしろかった。すごかった」となる。

 

 一方、ドキュメンタリー映画というのがある。「あるがままの状態を作為なく撮影した映像を素材としつつ、モンタージュにより目的意識を織り込んだもの」とされている。一般に、映画館で上映されたりDVDになったりするものの多くは劇映画のほうだが、たまに、ドキュメンタリー映画のすぐれた作品が、ヒットすることがある。

 

 かつて新潟水俣病の舞台になった新潟県阿賀野川の流域に暮らす人々にスポットを当てた長編ドキュメンタリー『阿賀に生きる』(佐藤真監督・1992年製作)がまさしくそんな作品であった。ドキュメンタリー映画としては異例のロードショー公開が実現しただけでなく、山形国際ドキュメンタリー映画祭優秀賞をはじめ映画賞を多数受賞している。

                イルカ

 △月×日

 さてそんな中、渋谷のユーロスペースで上映され、ひっそりとブームになっていたドキュメンタリー映画『全身小説家』を見た。以前『ゆきゆきて、神軍』を発表して話題になった原一男監督が、ガンで亡くなる前の小説家・井上光晴に密着取材。病に侵されながらも一縷の望みを持ちながら生きていく姿を、彼が長年やってきた「文学伝習館」という小説教室の生徒たちとの交流や、夫婦のやりとりなどを中心にフィルムに写し撮っている。

 

 映画のはじめのところでは、井上が仲間うちの前で、悪ふざけ気味におやま(女形・遊女)のいでたちでストリップショーまがいのことをしたり、小説の門下生の作品や言葉じりをとらえて、“怒り”をあらわにするなどして、私は、思わず《げえっ》と思ったり、ムッとしながら見ていた。しかし、次第に引き込まれていく。

 

 小説家という人間の日常、その生い立ちの謎、病魔に蝕まれていくことで変化していく言動や相貌。手術によって摘出された内臓の、《ウワッ!》と思わせるほどのアップなど、カメラは、まさしく“全身小説家”と化した人間・井上光晴、その人を視覚にやきつける。

 

 その鮮烈さがしばらく頭にこびりつき、どんな方法で撮られたのか? などと漠然と思いをめぐらしていたら、あるとき、『全身小説家』はドキュメンタリー映画と言いながら、主人公の井上光晴が「演技」している、果たしてそれがドキュメンタリーといえるのか? という趣旨の批評が目にとまった。

 

 なるほど、被写体の人物が「演技」をしているということは、先に記したドキュメンタリー映画の定義―「あるがままの状態を作為なく撮影した映像」ではないということか? ただ一方で、映画はフィクションの映像をドキュメンタリーの中に取り入れたことによって、《虚構と現実》を生きた文学者の全体像に迫ろうとした渾身の作品になっているという評価もあるから、見方は一筋縄ではいかない。

 

 そんなことも思わされた作品だった。1994年度キネマ旬報日本映画ベストテン第1位、同読者選出日本映画ベストテン第4位になっている。

               

  余談だが、2021年に99歳で死去した僧で作家の瀬戸内寂聴は1966年に井上光晴と

  講演旅行、恋愛・不倫の関係にあったという。むろん『全身小説家』を観た30年前はそう

  した事情は知る由もなかったが、今思うと映画には瀬戸内寂聴も出演している。なお、井上

  光晴の娘で作家の井上荒野の小説『あちらにいる鬼』は父・光晴と瀬戸内寂聴の不倫を基に

  した作品。瀬戸内は、荒野が執筆の際に協力を惜しまずに取材を受けたという。

 

 ハイハイ差別について考える

 ●いま現在の奄美和公園イエローハーツ

  全国に13の施設があるという国立ハンセン病療養所。私はその1つである奄美和公園(鹿児島県・奄美大島)の職員用官舎で少年時代を過ごした体験と記憶を基にして、ここまで(④~⑮)差別をテーマに、以下のようなことを記述してきました。

 

 ハンセン病患者が被ってきた差別と偏見と人権侵害の歴史。ハンセン病に対してあまりにも無知だった私。その私が少年時代に体験した“差別意識”。奄美和公園で私が少年のころ「おがさわら先生」と呼び親しんでいた小笠原登医師は、実は国のハンセン病強制隔離政策に一貫して反対し、患者の治療に生涯を捧げた孤高の医師だった・・・・。

 

 そうした記述の契機となった、奄美和公園のいま現在はどういう状況にあるのだろうか? 私が過ごしたのは日本が高度成長期にあった昭和30年代から40年代の最初のころの奄美和公園。それから何10年もの時が流れています。

              飛び出すハート

 私はそのホームページにアクセスしてみました。まず驚いたのは、令和5年4月現在の入所者数は17名であるということ。衝撃的です。私たちがいた頃の入所者数は300名以上だったといわれていたからです。

 

 もっとも、日本全体でもその数は大幅に減っているようです。ネットで調べてみると1996年の入所者総数は5961人でしたが、2023年は812人ということです。約30年間で8割強も減っています。

 

 これはあくまでも推測ですが、国の強制隔離政策を違憲とした熊本地裁判決(2001年)の影響かもしれません。先のホームページによれば奄美和公園の場合、その判決後、国家賠償請求訴訟は全面解決へと向かった中で「社会復帰支援事業が施行されて、和公園からも10数名の方々が社会復帰しました。」とあるからです。日本全体の入所者数が減っているのも、同じように社会復帰をされていった方々がいたと推測されるのです。

 

 ●地域に開かれた療養所をめざしてピンク薔薇

  またホームページによれば、奄美和公園の入所者の平均年齢は86・88歳で、平均在園年数は55・79歳ということです。高齢化社会が進むなか、入所者の高齢化も進んでいることがうかがえます。そうした中で、園長先生が「ご挨拶」で次のように書いています。

 

 「私たち職員は、奄美和公園を終の棲家として暮らす入所者1人ひとりの日々の生活を支えるため、医療だけでなく、看護・介護を含めた高齢福祉に全力を注いでいます。大多数の入所者はハンセン病の後遺症を有していますが、ごく普通に社会生活ができ、特に近隣の方々との交流には積極的に参加することを望んでいます。このため、入所者と近隣の方々との交流を支えることも職員の大きな仕事となっています」

 

 ・・・・入所者は近隣の方々との交流に積極的に参加することを望んでいる。園の職員はその支えとなる大きな仕事も担っている。

              イエローハーツ

 私にはそうした言葉が胸に響きます。入所者も、開かれた社会の中で、近隣の方々と共に呼吸したいのです。また、園長先生は次のようなことも書いています。

 

 「『地域に開かれた療養所であるために』という入所者自治会の希望により開設された皮膚科の一般診療は昭和58(1983)年から現在まで受け継がれ、さらに平成25(2013)年からは健康保険を適用した入院制度も始まりました。引き続き地域医療に貢献できるよう診療体制を維持したいと考えています」

 

 つまり、皮膚科は40年前から一般の人の外来治療も可能になっているというのです。

 私は確認のために和公園に電話をしてみました。そしたら、「ハイ。外来治療をしています」という返事でした。確かに、その点でも、現在の和公園は「地域に開かれた療養所」であったのです。

                ピンク薔薇

 そしてホームページには心温まるエピソードが載っていました。

それは、平成18(2006)年に市町村の合併があった時、市の名前がそれまでの名瀬市から奄美市になった時のことです。

 

 旧名瀬市から奄美市が誕生する際、和公園周辺の町名を公募したところ、「奄美和公園があるから和光町に」という声があり、それで、周辺の町名が「和光町」に決まったということでした。昭和18年の開設以来、人里から離れた山間にひっそりたたずむようにあったハンセン病療養所奄美和公園は、地域社会の人々の中で、究極的には “愛” を持って受け入れられていたからだと思います。

 

 そのため、そうした経緯を知らない園を訪れた人から「奄美和公園の名前の由来は、(和光町という)地名からですか?」と尋ねられ、園長は、「いいえ、和公園の方が先にありました。」と答えることがしばしばあるそうですが、子どもの頃和公園で過ごしたことがあるだけに私には大変嬉しいエピソードでした。

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  ■漫画『はだしのゲン』ラブラブを読む照れ 

         <48>

      麦よ出よ

 ●〈47〉までのあらすじカエル

 若い頃は画家志望だった政二さん。ピカにあい、希望をなくして死にたいと思っていましたがゲンに励まされ立ち直ります。しかしゲンと隆太と3人で写生に出かけた先で血を吐いて倒れます。リヤカーで急いで屋敷に運ばれた政二さん。ゲンは医者を呼びましたが、政二さんの兄嫁のハナは「政二さんが死ねばいいと願っているのに勝手に医者をよんだりして」と怒ります。ゲンは政二さんに骸骨の粉を飲ませます。

 

 するとムクリと起き上がった政二さん。だがその後は気が狂ったように丸太棒をゲンと隆太、そして家の中の兄の家族に振り回して暴れ、とうとう死んでしまいました。棺の前で焼香するゲンと隆太。ハナは弔問に訪れた近所の人たちの前で「私たちは政二さんのため出来るだけ手を尽くしました」と嘘の涙を流します。

               ニヒヒ

 夜中、ゲンは政二さんが「早く起きて水を持ってきてくれ」と言う夢をみます。その頃、棺桶の蓋がギギギと開きます。「こ・・・ この音はカンオケを あけてる音だぞ あ あいつ成仏できずにまよって生きかえったのか!?」と政二の兄。

 「キャーッ」と悲鳴をあげるハナ。カンオケから出てきた政二さんが「ハア ハア」と荒い息をたてながらズズズと畳を這って部屋から出て行こうとしています。

 

 ●カンオケから出ておかゆ求める政二お願い

 ズルズルズルと廊下を這う政二。

 障子に、這ってきて息をハア ハアさせた政二の黒い影が見え、ミシッ ミシッと音がします。「キャ~~ あ・・・ あんた」とハナが障子を指さします。「ギェ~ や・・・ やっぱり 政二が 生きかえったんじゃ」と驚く政二の兄・英造。

「お・・・ おかあちゃん」「おかあちゃーん」と娘の秋子と冬子がハナにしがみつきます。

 

 「に・・・ にいさーーん ねえさーーん お・・・ おねがいがあるんじゃ あけてくれ~」。英造は、ガッと障子を手で押さえて、「ハ ハナ しっかり おさえて なかにいれるな 死人とあって 話をしたら わしらも 死の世界に 道づれにされるという いいつたえが あるんじゃ」と言います。

               ショボーン

 「にいさ~ん わしは あつい おかゆが たべたくて たべたくて おねがいだから たべさせてくれよ~~」。「ば・・・ ばかたれっ お・・・ おまえは もう 気がくるって 死んだんじゃ おとなしく カンオケに はいってろ!」。「ねえさ~~ん おねがいじゃ」「せ 政二さん なにを まよって でてきたんね はよう カンオケに かえりんさい」。「冬子 秋子 おまえ たちでも ええから おかゆを つくって たべさせて くれよ~~」「キャッ」「ばか~~ おばけ~~ はよう 死ね~~ はよう 死ね~~」。

 

 ●箒の柄で突き倒されて絶命する政二ショボーン

 「ううう み・・・ みんな どうして わしと なかよくして くれんのじゃ・・・・・ わしは さびしいよ さびしいよ」。廊下で政二が膝を立て障子に両手をあてて訴えています。そして、〈わしが ピカを うける前は みんな やさしかった じゃないか・・・・・〉と、兄と愛嫁・ハナと姪の冬子と秋子とみんな揃って食卓を囲んで談笑していたころをフラッシュ・バックで思い出します。

 

 「わしは あのころと なか味は すこしも かわって いないんじゃ おねがいじゃ きらわんで くれよ~~ ひとことでも ええから やさしい 言葉を かけて くれよ~~ おかゆを たべたら すなおに かえるけえ たべさせてくれ~~」

 

 「ば・・・ ばかたれ こんな 夜中に わがままをいうな はよう カンオケに かえれっ」。政二は「ううう に・・・ にいさん おねがいじゃ ここを あけて くれよ~~」と言いながらバリ バリと障子紙を破ります。さらに「ねえさん おねがいじゃ 冬子 秋子 おねがいじゃ」とバリッバリッ バリ。

               びっくり

 冬子と秋子は「おねがいじゃ おねがいじゃ」という政二の目玉が破れた障子の穴から見え、「キャー」と叫び声をあげます。するとすかさず兄・英造が「この ばかたれ」と箒の柄で、ガツと障子を突き破って政二を突きます。

 

 ドタッと廊下で転げて倒れた政二はゴホゴホと血を吐きます。そして、「にいさん ねえさん 冬子 秋子」「げ・・・・元 わ わしは おかゆが たべたいよ たべたいよ」と言ってガクッと息絶えてしまいます。

 

 ●政二に冷たい家族を懲らしめるゲンムキー

 と、そこへ、タッ タッと、息をハアハア弾ませてゲンと隆太が廊下をかけてきます。夜中、ゲンの夢の中に苦しそうに水を欲しがる政二さんが何度も現れて、ゲンに「はようきてくれ~」と言っていたからです。

 

 うつ伏せで倒れている政二を見て、ゲンは「りゅ 隆太 せ・・・ 政二さんが・・・・」と言い、隆太は「ほ ほんとうじゃ あんちゃんが みた夢は ほんとう だったんじゃのう・・・」と言います。

 

 「せ・・・ 政二さん どうしたんじゃ」とゲンは政二をと抱き起しますが「ヒ~~ッ つ・・・ つめたい し・・・ 死んでいる・・・」と驚き、尻もちをつきます。弟分の隆太は、「政二さんはなん回も 死ぬのが すきじゃのう」(と、レイセイですが、・・・確かに、政二は一度死んでいます)。

              ゲッソリ

 そこへ、弟の政二を障子の向こうから箒の柄で突き倒した兄の英造が妻のハナとやって来て、「げ 元 政二は ほんとに 死んでいるのか まちがいないか」と言います。

 

 「ほんとうじゃ」。そう応えたゲンは、英造に「お おっさん いったい どう したんじゃ」と経緯を尋ねます(今、駆けつけてきたばかりのゲンはなぜ政二が廊下で倒れて死んでいたのかわかりません)。

 

 「う うん じつは・・・」。(政二がおかゆを欲しがっていた話しを聞き終えたゲンは、怒りがこみあげて来て・・・)「せ・・・ 政二さんは どうしても おかゆが たべたいと・・・」と政二に思いを馳せ、握り拳と体をぶるぶる震わせたかと思うと、英造が持っていた箒をガシッと掴み取って、ウオーと声をあげ、英造をドカッと突き倒し、

 「くそったれ くそったれ おっさんは なんで 政二さんに おかゆを たべさせて やらん かったんじゃ」バシッ バシッと箒で叩きます。「ば・・・ ばかたれ 気持ちがわるくてできるか」

               ムキー

 「お おどれら どこまで つめたいんじゃ どうして 最後の ねがいをきいて やれないんじゃ 政二さんは 死んでも死にきれんのじゃ みろっ 政二さんの 顔を! くやしくて かなしくて 涙のあとが のこって いるじゃ ないか」。目から涙がこぼれたあとが残っている政二の顔をゲンが指さしてそう言います。「・・・・」。

 

 「わ わしゃ おまえらには がまん できんわい あ・・・ あきれて ものも いえんわい・・・」。ゲンはそう言うと、箒の柄を両手で握りながら、「隆太 政二さんの うらみを かわって はらして やれっ」と言い、箒でハナを「この ばかたれ この ボケナスの オタンチン」と叩き、今度は英造を「よ よくも 政二さんを 最後の最後まで いじめやがって」バガッバガッと叩きのめします。ガーン

 

 「や・・・ やめろっ 元ーっ わ わしが わるかった おまえの いうとおりじゃ」「ばかたれっ そのセリフ 政二さんが 生きている ときに いって やりやがれ」。すると今度は隆太が「くらえ」と言って、冬子と秋子をめがけてジャーとチ〇ポから小便をかけます。二人は「ギャイ」と悲鳴をあげます。

 

 隆太はさらに梁かなんかにぶら下がってチ〇ポを出し(よくそんな恰好ができるなぁとビックリ)「それ~~っ おまえら みたいな やつは 小便で 頭をひやせ——」と小便をかけ放ちます(漫画ならではの図)。

            ガーンダッシュガーン

 なおも、ドン ドスン バタンと暴れる物音がして・・・。

 「ハア ハア おまえらが 政二さんに したしうちは 一生きえないぞ かならず 心の中に こびりつき これから 苦しみ つづけるんじゃ ざまあみろ もう政二さんの 死体は おまえらに やかせんぞ おまえらに 焼かれると 政二さんは 天国に いかれんわい」

 

 ・・・・ゲンは、英造、ハナ、冬子、秋子を前にして、怒りを込めてそう言うのです。そして、隆太に、「隆太 政二さんは わしらで やいて やろう」と言って、ゲンは政二を背負い、(隆太は後ろでそれを支え)「ち・・・ ちくしょう ちくしょう ちくしょう」と言いながら、それを遠巻きに見る英造とハナ・冬子・秋子をよそに廊下を歩いてゆくのです。

 

 ●ゲンと隆太が政二の死体を焼く炎

 夜が明け太陽が輝いています。

 ゲンと隆太がリヤカーで運んできた政二が入っているカンオケを燃やそうとしているところです。近くの山間の空き地のようです。そばには薪が用意されています。

 

 「政二さん たべたかった おかゆ いれとくよ 天国で ゆっくり たべてくれよ」。

 ゲンが中の政二にお椀を差しのべます。

「さようなら 政二さん」「あばよ 政二さん」。「さ・・・ さようなら・・・」

 

 シュパとマッチの火をつけるゲン。その火がカンオケを乗せた薪を燃やし、やがてその火がカンオケに回ります。ゲンは隆太に、「政二さん さびしい 死にかたを したけえ にぎやかに 歌をうたって 天国に おくって やろうや」と言い、二人は燃えさかる炎の前で、          炎

 「そ~~れっ 八百余州の こじき ざるもって 門にたち ホイホイ おっさーん めしをくれ~~ はら いっぱい めしを くれ~~」と、すっかり十八番になっている歌を大声で歌います。

               

 「でたでた 山ぞくが 長い長い ヤリもって ホイホイ」と歌うゲンの目からは涙がこぼれ、「女の ケツを つきさした ホイホイ」と合いの手をいれる隆太の目からも涙がこぼれています。可哀そうな政二に対する二人の気持ちがにじみ出ている場面です。「ジャンジャンジャガイモサツマイモ」「ジャンジャン」。「うわ~~ん うわ~~ん」うわ~~ん うわ~ん うわ~~ん」

 

 ●ゲンと隆太は政二なき屋敷を後にするえー

 陽が傾いてきた中、政二の兄・英造が容器に入ったシャレコウベを神妙な表情で見ています。そばのゲンが言います。「おっさん政二さんの骨 たしかに わたしたぞ こんどは いつまでも やさしく してやって くれよ たのむよ」

 

 容器の中のシャレコウベはゲンが英造とハナに、政二さんの死体はお前らには焼かせない、でないと政二さんは天国に行けないと言って、さっきゲンと隆太が野外で焼いてきた政二の骨です。

 

 英造は「わかっている もう 他人の家の ことには 口を だすな」と苦々しく答えます。「ほいじゃ この絵の道具 政二さんが わしに くれると いうたから もって かえるぞ」「かってに せえ」。リヤカーには絵の道具が積まれています。

              

 政二が死に、嬉しそうな顔の秋子と冬子が、洗濯している母親のハナに「おかあちゃん 政二おじさんが 死んで もう おばけ 屋敷だと きらわれないから あたしら うれしいよ」と言うと、ハナは「ほんとうに せいせい したね」と応えます。

             ニヒヒ

 そして3人を木の陰からいまいましい顔で見ているゲンと隆太をよそに、「やっかいものが かたづいて きょうから 安心して ねむれるよ よかった よかった」と両手をあげて満面の笑顔の秋子とそばの冬子に言います。

 

 「くそ くそ」と言いながらガリ ガリと壁をひっかくゲンと隆太です。

 

 「隆太 原爆を うけたら ほんとうに 地獄じゃのう」「う うん 政二さん かわいそう じゃ・・・・・」。そして、ゲンは政二の顔を思い浮かべながら決意します。

「わしは 政二さんの 絵を かならず 完成させるぞ そうしないと 政二さん うかばれん わい」

 

 肩を落とし、リヤカーを牽くゲンの後ろ姿。隣には頭をさげ背を丸めて立つ隆太の後ろ姿。ものさびしく、しょんぼり憂いに沈んでいます。これまでの動きのある数々の場面とはうって変わった静謐さが胸をうつシーン(絵)です

 

 その二人は、壁に、〈ばか ばか 秋子の あほんだれ 冬子の きちがい 吉田の ばか ばか ばか ばか ばか ばか〉と落書きがある、吉田家の大屋敷沿いの道を

 

 「原爆の ばかたれ ばかたればかたれ」とつぶやきながら、枯葉が舞う中でリヤカーを牽き、ピカにあった政二が壮絶な差別と迫害にさらされた吉田家を後にします。

 

 ●吉田政二さんの悲劇を読み終えて・・ニコニコ

 さて、第3巻 “麦よ出よ” の中のゲンと吉田政二との出会いから別れまでの話をようやく読み終えることができました。〈40〉~〈48〉まで長期間にわたって綴ってきました。長くなったのは無理もないことで、257頁ある第3巻うちの、7割近い170頁をその話が占めているためでした。

 そうした中で、この第3巻を読んだ小学5年生の女の子の感想文を目にしました。

『はだしのゲン』の漫画を読んだり、映画を見て、中沢啓治さんのもとに全国から寄せられた1万通余りの手紙の中から、中沢さんと出版社が選考して、その一部を『「はだしのゲン」への手紙』(1991年 中沢啓治・教育資料出版会)という本に掲載しているうちの1つです。

 

 その子はこう書いています。

 

 「わたしは、このまんがを読んで、戦争とはすごくおそろしいと思いました。

はじめは、そのまんが読んだら、夜ねれないからやめとくって言っていました。でも読みだしたらやめられなくて1~10まで読みました。いちばんきもちわるかったのは、3でした。うじ虫がいっぱいわいて、血をはいてとてもきもちわるくて、はきそうになりました。せいじさんは、ピカをうけていたので、死んでしまいました。ほかに、かわいそうと思ったのは2の友子ちゃんがうまれたところでした(以下略)」

 

 ——いちばん気持ち悪かったのは10巻のうちの3巻だった。ウジ虫が一杯わいて、(政二さんが)血を吐いて気持ち悪いので吐きそうになったと正直な気持が綴られています。でもちゃんと、ピカで死んだ政二さんを、女の子は可哀そうだと思い、戦争はすごくおそろしいと書いています。

 

 私は、美術展で何度も入賞し家族に将来を嘱望され、戦争が終ったらパリに行って絵の勉強をするはずだった画家志望の吉田政二さんの悲劇のストーリーを読みながら、

 途中からある美術館のことが頭を離れませんでした。それは長野県上田市にある「戦没画学生慰霊美術館 無言館」です。そこには第二次世界大戦で戦没した画学生の作品やイーゼルなどの遺品が展示されています。

 

 それらは、館主の窪島誠一郎さんと、先ごろ102歳で亡くなり、自らも出征体験を持つ画家の野見山暁治さん(1920~2023)が、全国の戦没学生の遺族を訪問してかい集してきたものです。

 

 学徒動員で勤労奉仕に行った先で、原爆で傷を負い、家族からもバケモノ扱いされ命を終えていった可哀そうな政二の生きざまと、「無言館」の戦没画学生の悲劇が重なって感じられたのです。

 

 その意味では、描かれた吉田政二さんの無念の涙は戦争で命を奪われた戦没画学生への鎮魂の涙のように思えてなりません。吉田政二さんに合掌。

ー続く

               チューリップ赤ちょうちょふたご座チューリップオレンジパンダチューリップ黄

              2024年2月21日(水)

              おばけくん