オカメインコ『60歳からの「悠々」生活!?』 

ㇷ゚ロローグ / 第1章 60歳は「人生の仕上げ期」の始まり 第2章 定年後は”宝の時間”が待っている  

   第3章 元気なうちは働く? 第4章 「自分の時間を売り渡さない」人生への帆を上げる 

   第5章 「悠々」 生活の基礎ー私の例  第6章 お金?そりゃ、あるにこしたことはないが ・・

   第7章 友人は大切だが孤独もまた「友」なり 第8章 おいおい、悠々と老いる / エピローグ

         

     第8 おいおい、悠々と老いる

               

Ⅶ‐Ⅶ)よく生きることがよく死ぬことか

 この『60歳からの「悠々』生活!?」の最初のところで私は次のように書いた。

 

 「60歳から80歳までの20年間は人生の仕上げ期といえるのではないだろうか。多くの人にとって体力の衰えは否応なしに年々 自覚される時期である。健康への不安は隠せない。だが、衰えつつある中にも命は脈打ち みなぎっている。その命をどう生き切っていくか。どう与えられた『一回限りの人生』を仕上げていくか。根本的にそういう時期だろうと思う」

 

 自分が60歳を迎えたのを機に私が勝手につけたその「仕上げ期」なるものは、別に言えば、いわば人生の晩年の時期を、やるべきことを絞って、それに時間と労力を集中して生きるぐらいの意味で、これまでダラダラと生きてきた自分自身に言い聞かせるためだった。

 

 そしてほかにも、60歳以後は「死ぬことが大事な仕事」であり、「死に向かうことの怖さを抱えながらも」「やるべきことをやりつつ(やり遂げて)死の瞬間までをどう精一杯に生き抜いていくか」が大切ではないか。

 

 さらに、「死を意識して生きていく」ことで生きていることに対する感謝やエネルギーにしたいとも書いた。はちゃぁ~、いま読み返すと、力み過ぎていて自分でも少し息苦しく感ずるほどだ。しかしこれも “覆水盆に返らず” で、書いてしまったからにはそれはそれで仕方がない。そこで ここからは、この章の最後に、老いの後に待ち受ける死との向き合いかたについて考えてみたい。

 

 セキセイインコ黄多くの人がそうかもしれないが、私は子どものころ死は自分とは無縁なものだと思っていた。中学生の時、学校で、「おばあちゃんが亡くなったそうだからすぐ帰るように」と先生に言われ、私は祖父母の家に直行した。亡骸となった祖母の横でみんなが、“ばあちゃん” の名を呼びながら声をあげて泣いていた。その記憶が今でも鮮明に残っている。

 

 だが当時をふり返ると祖母の死を前にして、”死” が いずれ自分の身にも起こることだとは感じていなかった。中学生だった私は、死は自分とは関係ない出来事だととらえていたのだ。

 

 しかし、それから50年が経ち、60歳を越え62歳にならんとする(執筆時の)私は、むろん死を自分とは関係のない出来事とは思わないし感じない。

 たださいわいなことに、余命半年とか1年というような重篤な病に侵されてはいないので、”死”と 待ったなしに向き合っているという状態にはない。

 

 だがたまに目にする新聞の死亡欄で60代や70代の人が亡くなっているのを見たり、テレビでそれまで見慣れていた芸能人が70歳そこそこで亡くなったことが報じられたりすると、そのような年齢に近づきつつある自分も「死に近づきつつある時間を生きている」ことをひしひしと感ずるのである。

 

 セキセイインコ青子どものころ死は不吉なものだと感じていた。そのため軽々しくは口にしなかった(してはいけないと言われていた)。そしてできるだけ考えまいとした。だが50歳を越えた頃より、死は、「いつかは自分も死ぬのだ」と体の内部から自然とわき出るかのように意識されるようになっていた。1日に1度は死を意識する日が多くなった。

 それから10年余。齢を重ねた今では、死が、より身に迫っていると感じられるというわけである。そうした中、死ぬことは怖いか怖くないかと問われたら、私は正直言って、怖い。何故に怖いかを考えてみると、今こうして現に生きていて、その頭(脳)の中で、他人の死を通して人が死ぬということがどういうものかがわかるからである。

 

 いうまでもなく、死んだら心臓と脳の働きが止まりその体は冷たくなる。もうこの世のことは何も感じられない。家族や愛する者たちと言葉を交わすことは永遠にできない。目を開ければ見ることのできた自然の美しさや明るい太陽の光ももう見ることはできないのだ。もちろん小川のせせらぎの音も小鳥のさえずりも聞こえない。

 

 そして火葬場で焼かれて灰となり骨となる。そして灰は捨てられ、骨は墓にしまわれるか散骨されるなどして生前の生々しい肉体はこの世から消え去るのである。

 

 このように、今を生きている私の脳が、死をそのようにとらえるから、死は怖いのだと思う。したがって、死んだ瞬間、脳が死滅してしまえば、もう死んでしまったのだから、生きていた時と同じような死の怖さは感じられないということになるのだろう。だが死は老いていくことと同じようにあるいはそれ以上に未経験の領域である。

 

 チューリップ赤しかしいずれにせよ、生きているうちにどんなに死を怖がったとしても、人は死から逃れることはできない。これだけは、人間、みな平等である。それならば。当たり前のこととはいえ、いつかは自分にも死が訪れるということを覚悟を持って受け入れるほかはない。

 

 そのうえで、どう死の怖さを克服していくかを考えると、それはつまるところ、1日1日を大切に生き、そして人との絆を大事にしながら、「生きていてよかった」と思える日々を悠々と楽しく生きていくことが、すなわち死を怖れずによく死んでいくことにつながるということになるのではなかろうか・・・と思う次第である。

               ヒヨコ

  チューリップ差別について考える ⑬

 ●ハンセン病強制隔離に抗した小笠原登(Ⅱ)

 「らい予防法」による「絶対強制隔離」政策でわが国のハンセン病者が世界に類を見ない人権侵害を受けたとされる偏見と差別の歴史のなか、1926年以来ハンセン病者の診療をしていた医師小笠原登は、その強制隔離政策にどう抗っていたのだろうか・・・・。

 

 強制隔離を基本とする「らい予防法」が1931年に制定され、ハンセン病の療養所以外での医療は予防対策を危うくする行為として激しく批難されるようになりました。そうしたなか「無らい県運動」が展開され、「日本型絶対隔離絶滅施策」の嵐が吹き荒れました。

 

 「無らい県運動」というのは、「らい予防法」は隔離収容の業務を国が都道府県に委託していたため、都道府県が「祖国浄化」と称してこの委託に積極的に相呼応し、地域のハンセン病者をすべて隔離収容することを競い合った運動のことです。

                                             チューリップ黄

 「らい予防法」が制定されて以降、カルテに「らい(ハンセン病)」と記載すれば、医師はそれを届けなければならなくなりました。その届け出に基づいて、患者の強制収容が行われることになるのです。

 

 しかし登は「予防法」制定以後、カルテに「らい(ハンセン病)」と記載するのをやめ、「進行性皮膚炎」などの症状による「病名」を記載することで規則に抵抗しました。

 もっとも、このような方法で隔離せずに治療を続けることは、ほとんど「違法」すれすれの苦しい選択でした。

                                           オカメインコ

 それにしても、強制隔離政に抵抗していた登の信念の根拠はなんだったのだろうか。小笠原の業績と生涯を調べた元同朋大教授の菱木政晴氏の推測によれば、それは第1に、医師だった祖父の啓導(けいどう)によってもたらされた「ハンセン病はそう簡単には感染しない」「ハンセン病は治る」という実践に裏付けられた確信があったこと。

 第2に、西洋医学を学ぶとともに漢方医学の教養があったことが挙げられるとのことです。漢方医学は、西洋医学とは異なり、病気を病原菌などの単一の原因がもたらすものとは考えず、さまざまな原因が総合的に絡み合うものとして捉えていました。

 

 登が発表したハンセン病やハンセン病患者の体質に関する多数の論文は、ハンセン病を、細菌とその感染という観点だけではなく、総合的に見ることによって強制隔離政策の根拠を失わせるものでした。

                                          チューリップオレンジ   

 もっとも、病気をもたらす原因を病原菌にのみ求めるのではなく、体質や精神的状況を考慮しながらさまざまな要因が総合的に絡み合うものとして捉えた登の主張と同様の医学論文は他の医学者からも発表されていました。

 

 しかし、他の医学者と違って、登にはそこから導かれる強制隔離反対の実践がありました。そのためその実践が、国策に反するとしていわば「嫌われた」というのです。

 ●ハンセン病強制隔離に抗した小笠原登(Ⅲ)

 そうした中で、登は「らい予防法」が制定された同じ年の1931年に、「診療と治療」誌に「らいに関する三つの迷信」を発表しその迷信がハンセン病患者とその家族を苦しめていると訴えました。そして、ハンセン病の対策を企図する場合は「諸迷信を脱却して正しき見解の上に設定」されねばならぬと書いています。

 

 登が挙げている「三つの迷信」とは、その「第一はらいは不治の疾患であると云う迷信」で、「第二はらいは遺伝病であると云う迷信」。そして「第三はらいは強烈な伝染病であるという迷信」です。

 

 しかしながら、今ではまったくその通りと思える訴えも、当時は国が患者の隔離政策を推し進めていたときであったため登はたった1人で反対の論陣を張ったのです。

                                                セキセイインコ青

 では、絶対隔離政策によってハンセン病問題を解決しようとした人たちが多数派を占めていた日本らい学会(現ハンセン病学会)は登の学説をどのように扱ったのだろうか。

 登が日本のハンセン病対策を批判し始めた1931年から数年間は、同じような専門家もいたため大きな軋轢はありませんでした。しかし、例の「無らい県運動」が高まり、「絶対隔離政策」が強化されるにつれて風当たりは厳しくなり、1941年(昭和16年)11月に開かれた第15回日本らい学会はあたかも小笠原学説を糾弾する会になりました。

 

 けれども、登は「その罪万死に値する」と体質説の撤回を迫られましたが、最後まで自説を曲げませんでした。また学会代表は、登が所属する京都帝大の医学部長に登の処分を迫りましたが京大はそれを拒否しました。ハンセン病患者に対する登の真摯な医療態度と科学的な裏付けを持った登の病因論を京大は基本的に認めていたのです。                                       チューリップオレンジ

 しかしながら、間違った噂が彼を苦しめ、協力者がほとんどいなかったために、患者への奉仕をすればするほど職員に負担がかかり、病気で倒れる者も出たそうです。

 絶対隔離政策によってハンセン病医療が一般医療から隔離された」時代にあっては、患者だけでなく関係職員も差別や偏見に耐えなければならなかったようです。

                 ハイビスカス

  ■漫画『はだしのゲン』ラブラブを読むふたご座 

              <45>

      麦よ出よ

 ●前回〈44〉までのあらすじ鳥

 「おねがい すぐ家にきて 政二さんが へんなのよ」。政二の姪の冬子がゲンを呼びに来たのでゲンと隆太は屋敷に駆けました。政二の部屋から、ガウ~ ウオ~と奇声が聞こえます。家族は気味悪がって近づきません。ゲンがガラッと戸を開けて見ると、政二が口に絵筆を咥え、ウウウ グウウと唸り声を上げながら、床の上のキャンバスに前かがみに正座して絵を描こうとしていました。

 

 それというのも、ピカで不自由な体にされたこんなかたわの手ではもう絵筆は握れないから「ひとおもいに殺してくれ」と言った政二に、ゲンが「死ぬ気になれば  手がつかえなくても 口でも絵はかけるわい あまったれるな わしがついていて やるけえ 元気をだせや 政二さん」と励ましていたからです。しかし何度やっても筆がべチャとなり、うまい具合にいきません。

 

 なので、自分はもう無理だ。好きな絵を自由に描けないのならもはや生きている価値はないからはやく死にたい。政二はそう言って諦めようとします。だがゲンは、練習すればうまく描けるようになるから「あせるなよ」「さあ 筆をくわえろよ さあかくんじゃ」となおも政二を励まします。

                                                ニコニコ

 そのゲンのおかげで生きる勇気がわいた政二。ある天気のいい日、ゲンは政二をリヤカーに乗せ、隆太に後ろを押させて、3人は写生に出かけます。けれど、そこで3人が目にしたものは、陸軍の射撃練習場の敷地で、原爆で死んだたくさんの死体を焼いている光景でした。政二はそれを見て、いまに自分もそのように焼かれて捨てられる身なのだと激昂。

 

 そして、「この姿を わしはかくんじゃ」「あのボロキレのように すてられて おばけのようにされた ひとりひとりの 苦しみの顔をかいてやる」「戦争をおこしたやつに・・・ 原爆をおとしたやつに みせてやるんじゃ」「わしの最後の作品として かきのこすんじゃ」とガッと筆を咥えます。

                                                えー

 しかし気持ちが高ぶった政二は口から血を吐きます。これはヤバいと家に連れて帰ろうとするゲン。だが、政二は、「このまま だまって死なれるか」とリヤカーから自ら転がり落ち、筆を口に咥え、キャンバスを脇に抱えて、匍匐前進して、土手の下で死体を焼いている場所に行こうとします。

 

 そして土手の上からゴロンゴロンと転がり落ちていったのだ・・・・。

 

 ●政二は死体を前にして絵筆を動かす雷

 土手の上から転がり落ちて、「ぐぐぐ・・・」ドタッと政二は土手の下に着いて倒れました。そして「ううう かくんじゃ わしは 最後の 作品をかくんじゃ」と言い、なお「ハア ハア」と息をしながらズル ズル ズルと匍匐前進して、やっと土手の上から見えていたたくさんの死体が置かれている地点にたどり着きます。

 

 「な なんだ きさまは!」「ここは きさまの くるとこじゃない かえれっ」と鳶を手にした兵隊2人が言います。しかし政二は「ど・・・ どけっ じゃまだ」「どかないと おまえら くい殺すぞ」と言って、死体の前に進み出ます。

 

 「せ・・・ 政二さん なにを するんじゃやめろよ」。ゲンが制止しますが、政二は

死体に向かって「お おい・・・ おまえ つらかったろう・・・」と語りかけるように言い、さらに続けます。「おまえ 苦しかったろ・・・」「おまえ かなし かったろう・・・ くやし かったろう・・・」「わ・・・ わしも みんなと おんなじじゃ もうすぐ 死んで ボロキレのように すてられんじゃ」。

                                                十字架

 そう言って、死体の前にキャンバスを置いて正座します。そして「く くそっ」ガッ、と筆を咥えて、「ううう・・・」と唸りながら筆で死体を描き始めます。

 

 「せ・・・政二さん」とゲンは驚き、ポカーンとして見つめていた兵隊の1人は「あいつ きちがいか・・・」「じゃまになる はようおいだせ」と言います。

 

 が、ゲンは「やめろっ 兵隊さん 政二さんに 絵を かかせてやれよ」「政二さんの いうとおりじゃ このまま ボロキレのように すてられたら この人たちは うかばれんわい」と政二に近づく兵隊に言います。隆太も一緒になって「そうじゃ かかせてやれ」「そうじゃ」と加勢します。

                                                おばけくん

 さらにゲンは「じゃまを すると おばけになって 兵隊さんは たたられて くるしむぞ」と脅かし、隆太も手をオバケのように曲げ、「うらめしや~~ ひやめしや~~ こわいぞ~ こわいぞ~」とおばけの顔をします。すると兵隊たちは「わかった わかった」「へんな やつらが きやがった」と政二を止めるのを諦めます。

 

 「ハア ハア」「ハア ハア」。政二は兵隊とゲンたちのそんなやりとりなどなかったかのように一心不乱に筆を動かしています。ゲンは心配になり、声をかけます。「政二さん だいじょうぶか むりをするなよ」

 

 ●頭蓋骨の中から両親の骨を探す隆太ゲッソリ

 「兵隊さん ここの死体は どこからきたんじゃ」。ゲンたち一行に仕方なく気を許し、作業を始めている(頭蓋骨をザルですくい集める)兵隊さんの1人に、隆太が人懐こく、そう尋ねました。

 

 「広島市内から あつめられて いるんじゃ」。それを聞いた隆太は、「ほいじゃ 水主町(かこまち)からも きとるかのう」と問い返し、兵隊さんが「ああ きとるじゃろう」と答えると、「うわ——い ばんざ——い」と叫びながら辺りをピョンピョン飛び跳ねて喜びます。そして折り重なって置かれている死体をひとつずつ見ながら、「もしかしたら おとうちゃんと おかあちゃんの 死体が はこばれてきていないか」とさがしています。

 

 そういえば、第2巻で隆太が登場してきたときに描かれていたように、隆太の両親はあの原爆が投下された日に亡くなっています。父は大木の幹から突き出ている枝が胸を貫通し、そのまま枝にぶら下がった状態で即死し、いっぽう母は、倒れた家で足がちぎれて動けず、家に火がついても逃げられないまま焼け死んでいました。

                                           ショボーン

 なので、隆太は、ゲンに「あんちゃん  わしゃ死んだ おとうちゃんと おかあちゃんに あいたいよ」「あんちゃんも さがして くれよ」「あんちゃんには とうちゃんたちの骨が あるけえ ええよ わしにも おとうちゃんと おかあちゃんの 骨がほしいよ」と言います。しかしふたりで探しても隆太の両親は見つかりません。

 

 「グスン」となっている隆太にゲンは、「隆太 もうあきらめぇ わしのかあちゃんを おまえの かあちゃんだと おもえば ええじゃないか」と言いますが、隆太は、ふと、すでに焼かれてしまっているたくさんの頭蓋骨を見て、それらの前に立ってこう言います。

 「もう やかれたのかも しれんのう この中に とうちゃんと かあちゃんが いるかも しれんのう」。そして大声で叫びます。「おとうちゃ——ん おかあちゃ——ん いたら へんじをしてくれよ~ わしじゃ~ 隆太が きとるんじゃ わからんのか~」

                                          ショボーン

 そして「ううう うううう」となりながら涙を流し、2個の頭蓋骨を抱えて「わ わしゃ このふたつ もってかえるよ」とゲンに向かって言います。「ば ばかたれ だれの骨か わからんぞ もうあきらめろ」「いやじゃ わしは もってかえるんじゃ わしゃ きょうから この骨を おとうちゃんと おかあちゃんに きめるんじゃ~ ええだろう あんちゃん ええよな」

 

 隆太の意志が固いのを見たゲンは仕方なく「う・・・うん・・・」と返事します。にこっとなった隆太は、「エへへへ わしゃ これで さびしくないよ おとうちゃんと おかあちゃんが  いるけえ」『ワ——イ ワ——イ』と飛んで喜びます。

 

 ●政二が「おばけ」と差別されるガーンショボーン

 一方、ゲンと隆太の近くで、たくさんの死体を前にして口に咥えた絵筆をキャンバスに走らせていた政二が、突然、グググ、ブワッと口から血を吐きだします。

 

 「うわ~ 政二さんが また 血を はいたぞ 政二さん しっかり せええっ」

 

 だが、政二は苦しみ、「ぐぐぐ か 神よ・・・ 仏よ・・・ もしもいるなら わしのねがいを きいてくれ わ わしが この絵を かきあげるまで じゃまを しないでくれ~~ わしを 生きさせてくれ たのむ・・・・ たのむ・・・・」と、もがき転げます。

 

 それを見たゲンは、「政二さん きょうは もうやめろ かえるんじゃ かえるんじゃ」と言いますが、政二は起き上がろうとするも再びグワッと血を吐き、とうとうドタッと転がり臥せってしまいました。

                                                馬

 驚いたゲンは、「うわ~ 隆太 はよう 政二さんを つれてかえるんじゃ 医者を よぶんじゃ」と隆太に声をかけます。——ーそして、ゲンと隆太は写生に出かけたときのようにリヤカーに政二を乗せ、息をハアハアさせながらリヤカーを走らせます。

 

 政二も「ハア ハア」苦しそうです。

 

 「政二さん 死ぬな しっかり せえよ」。「げ 元・・・ み 水を・・・ 水をくれ・・・」

 

 ゲンは近くの、井戸がある農家に立ち寄り、庭先で作業をしていたおじさんに、「おじさん 水を のませてくれよ」と頼みます。しかし、おじさんは「ああ」と言った後、リヤカーの中の包帯だらけの政二の姿を見たとたん、「うわ~ このばかたれ~ よくも こんな ピカをうけた おばけを つれて きやがって かえれ かえれっ」と言って、そばにあった小石を拾い、「ピカの毒が うつったら たいへんじゃ かえれっ はようかえれっ」とそばにいた息子と一緒になってゲンたちに投げつけます。

                                             うずまき

 ガッ、ガッ、「わっ」「わっ」。ガツン、「ギャッ」。政二の頭にも当たります。怒ったゲンが「く・・・ くそったれ おどれら どうして ピカを うけたら きらうんじゃ だれも すきこのんで うけたんじゃ ないわい」と言うと、おじさんも「やかましい かえれと いったらかえれっ」と怒ります。

 

 しかし、癪に障ったゲンは「このまま だまって かえれるか」と、井戸の中に隆太と2人でしょんべんを放ち、「ざまあみろ」「ばかたれー」と言いながら逃げます。「こらー まてー」

 

 ●町中の人にピカのキズを見せる政二恐竜くん

 「政二さん しんぼうせえよ  いそいでかえるけえ」。ゲンは、「ハアハア」と息をはずませている容体の悪い政二をリヤカーに乗せたまま、隆太と町へ急ぎます。

 

 「うっ」「わっ」。「たいへんじゃ ピカの毒が うつるぞ」「にげろ 吉田の おばけがくるぞ うわ~~~」。3人は町へ帰ってきました。「ち ちくしょう」「ばかたれー ピカの毒 なんか あるものか わからんのかー」

 

 ゲンと隆太が逃げまどう子どもらにそう言うと、「うううう」と嗚咽した政二は、体中に巻かれていた包帯をひとつひとつ外し、リヤカーの上に立って、原爆で負った体の傷をあらわにしてこう言います。

                                           炎

 「げ 元 わしを みんなに みせてやれ この みにくい姿を 町中 あるいて みせてやれ」「この姿を 町中のやつらの 目の奥に やきつけて やるんじゃ」「ピカをうけて いじめぬかれた わしが・・・ たったひとつできる しかえしじゃ」。

 

 そしてこう続けます。「元 はよう いけっ わしは 見世物に なって ピカのキズを みんなに たたきこんで やるんじゃ わしは このまま だまって みじめに 死にたくない かんたんに 原爆のうらみを わすれさせて たまるか 元 はよう あるき まわって くれっ」。「わ・・・ わかったよ い・・・ いくよ・・・」

 

 そして政二は、ゲンに、歌って、騒いで、みんなを集めろと言って、歌わせます。

 

 「ジャンジャン ジャガイモ サツマイモー」

 

 政二はリヤカーの中で立ち、拳を握った両手を広げて、ウオ~ ガウ~ ギオ~ ウオ~ と奇声を上げます。それを見た町の人は、「うわ—— 気持ちが わるい」「うわ—— おばけだ——」と口々に気味悪がります。

                                           炎

 ガウー ガオー ギエー ウオー。「にげろ 吉田の おばけじゃ ピカの毒が うつるぞ」

 

 「ふふふ みんな わしを しっかり みろ ピカをうけたら こんな姿に なるんじゃ原爆が どんなに おそろしいか わかったか! ふふふふ」

 

 「うわ——ん こわいよー キャ——」「ばかたれ はよう むこうへ いけっ」。「ふふふ こわいか ざまぁみろっ おどれら ピカをうけた わしを さんざん バカにして きらいやがって・・・ わしのうらみを かんたんに わすれさせんぞ この みにくい姿を みんなの 目の奥に たたきこんで 一生きえない ようにしてやる それが わしの しかえしじゃ さあ しっかり みろよ!」

 

 「わ——」「ヒー」「キャ——」

 

 ●“見世物“ 政二をハナと秋子が目撃イルカ

 「秋子 なにを さわいで いるのかね」

 「ああっ」「お・・・ おかあちゃん」

 

 政二の兄の妻・ハナ(政二の義姉)と政二の姪(ハナの娘)が、政二が町中で、リヤカーの中で立ち、キズだらけの上半身の裸をあらわにしてガウーガウーと叫び声をあげているのを見てびっくりします。

 

 「せ 政二さん な なんてことを・・・」

 

 狼狽するハナをよそに、町のおじさん達が口々にこう言っています。「あの おばけは どこのやつじゃ」「吉田の弟よ」(政二の兄は吉田英造でした・・)「吉田の家に あんな ばけもんが いるとは しらんかった」

 

 「まったく 人さわがせな とんでもないやつじゃ・・・」「そうじゃ 大ばか たれじゃ」。渋い面持ちのハナと秋子が顔から冷や汗を垂らしながらそれを耳にしています(・・・後でひと騒動起きそうです)。

                                           ゲッソリ

 すると突然政二が、グググと声を漏らし口からブワーと血を吐きだし、首を後ろに垂らしてグッタリとなりました。

 

 「うわ—— 政二さんが また 血を はいたぞ 隆太 いそいで かえるんじゃ 医者を よぶんじゃ」。ゲンはリヤカーの取手を握りそう言います。

 

 「ぐぐぐぐ・・・ 元・・・ かえるな わしの この姿を 町中のやつらに みせるんじゃ ピカを しらんやつらに みせるんじゃ」と、政二はグッタリなりながらもそう言いますが・・・・

 

 ゲンは、「もうやめじゃ こんなこと したって みじめに なる ばっかりじゃ」と応えて、3人は政二の兄の家へと急ぎます。

ー続く 

     チューリップオレンジちょうちょふたご座チューリップ黄パンダチューリップオレンジいのしし

        2023年12月21日(木)

             おばけくん

    ゲン:suiganさん わしらのこと 書いてくれるのは うれしいけど 長いと 読んでもらう人に

       ちと 気の毒な 気がするのう

    隆太:ほうよ  suigan:わしかて 気にしてるがなぁ・・・

            龍