■先人の「老い」から学ぶ
人は老いていく。そう覚悟したらあとは老いを受け入れて楽しむ——ー。
頭ではわかっても、60歳を過ぎたばかりのころは老いることへの不安がまだ残るかもしれない。老いというものを痛切には体験していないからだ。
老いが徐々に進んでいく場合はショックが緩和されそうでまだいいが、ある年齢になると「カクンとなる」「老いるショックは3度ある」などと聞くと、それはいつやって来るのか、またその程度はどのようなものかその予測ができない。
以前、ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄氏が60歳の還暦を迎えた時、「60歳になった感想は?」と聞かれて、「60歳は生れて初めてなもので・・・」と言い出してから所感を述べていた。
当時40代だった私はテレビでそれを見て、「長嶋らしい面白い言い回し」と思ったが、それから10数年がたち自分がその60歳という年齢に達してみると「60歳は生れてはじめて」という言い方は「なるほど」と自分でも実感できた。
人は1年ごとに歳を取る。その取っていく歳をあらかじめ先回りして体験することは、想像上はともかく身体的には不可能である。
それだけに、長嶋茂雄氏が「60歳は生れて初めてなもので」と言ったように、人は60歳に限らず、ある年齢になることは「生まれて初めて」のことなのだ。
その「生まれて初めてのこと」を、もし先回りして体験できれば、ある年齢のところで「カクンとくる」「老いるショック」の程度を知ることができ、不安は和らぐに違いない。むろんそれは無理な相談である。
しかしながら、確かに年齢を先回りして「体験」はできないが、直接、間接に、先人たちの「老い」の体験談を聞いたり読んだりすることで、学ぶことは可能である。
直接的には自分の親である。親が老いていく姿を見ることで、自分の身にもいずれ老いがやってくることを実感するようになる。
83歳で逝った私の父は70代の後半になると背中が曲がり老いが感じられたが、旅行ができ、頭もしっかりしていたのでこのぶんだと90歳ぐらいまでは長生きできるかもしれないと思っていた。
しかし、年末に書いて出す年賀状の購入枚数を、手帳にメモした数日後に、突然亡くなった。老いの一寸先は、ときに ”死” である。
母は現在(執筆時)82歳である。70代の頃は「90歳までは生きたい」と口にしていた。だが最近は、自信を失いかけている。部屋の電球を取り替えようとして布団の上に倒れ、骨にひびが入り半年ほど歩行がままならなくなった。骨粗鬆症と医者に言われたそうである。
そのように「親の老い」を見ていると、遺伝子でつながっている親子だけに「自分の20年先を先回りして見ている」気にさせられるのである。
そして、間接的には、テレビや雑誌などのメディァを通して目にする高齢の著名人たちの老いの姿である。
そうした人たちが80歳、あるいは90歳を過ぎてもピンピンしている秘訣は何なのか。どんな生活習慣をすれば、そうした元気が生まれるのか。
これから老いを迎えようとしている身にとっては、それらの人々が元気で活躍していると励みになる。そしてそれぞれの老いの体験談は役に立つ。
私は体でどこか気になるところがあると、わりとすぐに病院に行く。薬を飲むのもあまり抵抗がない。だが、ある著名な高齢者は雑誌の中でこう話していた。
「(私は)特別な健康法を行っているわけではない。健康なのは、半分は運。全然気を遣わない人でも元気な人は元気。みんな健康、健康と神経質になりすぎです。仮に病気であっても、本人が健康といえば健康なのですよ。それを、精密検査をして病気を探し出す。たいしたことがなくても、ああ自分は病気なんだと落ち込む。決して病気を探し出さないこと。医者のいいなりにならないこと。自分自身の判断を大事にする。弱みを見せないことが大切だ」
しかし、その方は、運がよくて健康だからそうしたことが言えるのかもしれないと思う。病気の発見が遅れて手の施しようがなかったということもあるから、私は健康に関しては、むしろある程度の神経質さがあったほうがよいと思っている。
しかしいっぽうで、確かに、あまり神経質になる必要はないというのも、また医者の言いなりにならないで自分自身の判断を大事にするという考えもうなずける面はある。つまり、そうやって、先人の体験や考え方を参考にしながら自分の老いに備えていきたいものだ。
差別について考える ④
●「差別する心」がない人はいない?
私はこれまで人を差別したことがあったかどうか、過去をふり返ってみました。
もし差別をしたことがあれば加害者として反省したいからです。そしてその上で、「もう二度と差別はしないぞ」と心に誓いたいからです。
ところがいくら思い出そうとしてもなかなか思い出せません。きのうや一昨日のことならいざ知らず、数10年にわたる過去のこととなると容易ではありません。遥か昔の子どもの頃のこととなるとまったくお手上げです。
しかしだからといってあきらめたくありません。差別したことを忘れているかもしれないからです。自分の心の動きや流れを観察するとわかりますが、ある瞬間、瞬間、心の中に生起するさまざま思いや喜怒哀楽の感情などは、時が経てば消えてしまう瞬間的なものです。
なので、あるときちょっとした「差別心」が生まれたとしても時とともに記憶の底に沈んでしまいます。「人間は忘れる動物である」と言った方(赤尾好夫氏)もいたくらいですから。
しかしだからといって、「差別心を持ったことはなかった」「差別したことはなかった」と結論づけるのは気が引けます。
差別の被害をうけた人はその被差別体験を忘れられないはずです。が、差別の加害者は往々にして忘れ去ることがありそうだからです。
そんななか差別体験を思い出そうにも思い出せない私はとうとう、「私はこれまで人を差別したことはなかったかもしれない」と “結論” づけようとしました。
しかしやめました。手にした『差別の教室』(2023年・藤原章生・集英社新書)の中で「よほど悟りを開いた人は別にして、差別する心が一切ないという人はまずいないと思います」という一文を目にしたためです。
●過去の差別経験の有無を思い出す端緒
「 よほど悟りを開いた人は別にして、差別する心が一切ないという人はまずいない」ーーー。そう言われると、「私はこれまで人を差別したことはなかったかもしれない」などと能天気なことは言っておれず考え直さなくてはいけません。
幸いなことに本には具体的な差別の事例や著者の差別体験・被差別体験が紹介されていたため、それらがヒントになって、私はこれまで差別をしたことがあったかなかったかを思い出す端緒となりました。
ヒントの1つはハンセン病の患者差別にまつわる話です。著者は、ハンセン病についての熊本地裁の判決(2019年)が、国にハンセン病の元患者や家族に賠償金を支払うよう命じたことに対して国は控訴しなかったという話しを取り上げ、
その中で、元患者を差別してきた責任は控訴しなかった国だけでなく「差別住民にも責任」があると新聞で解説していた識者の話を紹介しています。
それによれば、かつては、“らい病” と呼ばれていたハンセン病の患者を、「自分たちの県からなくそうという無らい県運動というのがあった」そうです。
また、「国だけでなく住民が長年にわたって患者を差別し、『おまえたちは施設に住め』と隔離し、その家族をのけ者のようにしてきた」などとあります。
そしてそうした患者差別の歴史をふまえた著者は、自らの「責任」についても次のように書いています。
「ハンセン病の場合、私も周りに患者がいなかったから、関わってこなかったと思い込んでいました。でも、差別にあらがってきたかというと、そうではないのです。患者が近くにいたかもしれないし、存在を耳にしたこともありました。でも、私は見てみぬふりをしてきたんです。ですから同罪、『差別住民にも責任』の一人です」
著者は自分に対して厳しいのでは? と思えなくもありませんが、きっとまじめな方なのだと思います。
ところで、著者が取り上げているハンセン病の患者差別の責任をめぐるそうした話が、私が過去に差別をしたことがあったかなかったかを思い出す端緒にどうしてなったのか。
それは、私が小学1年の時から高校を卒業するまでの12年間、ハンセン病の患者さんが入院・生活している国立療養所が近くにある所で過ごしていたからです。
つまり、『差別の教室』の著者の場合と違って、私はハンセン病の患者さんが周りで生活していた環境にいたのです。
■漫画『はだしのゲン』を読む
<36>
死ぬも地獄 生きるも地獄 ⑦
●瞬間的回想シーンで劇的効果高める
「 ここじゃ わしの 家は・・・」
スコップとバケツを持ったゲンが、原爆で焼失した家があった焼け跡にやってきました。家の下敷きになって業火に巻かれて死んでいった父と姉と弟の骨を掘りだしにきたのです。ゲンと母・民江の前に現れた弟の進次にそっくりの原爆孤児の隆太が、進次か、進次じゃないかをハッキリさせるためです。
「 こ・・・ この 土の下に・・・」
地面に両ひざをついて土を手で触るゲン。
「・・・・・ ・・・・・」
地面にうつむいているうちに、「あんちゃーん あついよ~ はよう ここから だしてくれよ~」と燃えさかる業火に焼かれながら家の柱の間から抜け出せないで助けを求めて叫ぶ弟の進次の顔が思い浮かびます(回想)。
そして、同じように柱の間から抜け出せないまま、「ううう・・・くるしい~」と顔をゆがめている姉の英子、「元 なにを しとるか! かあさんをつれて はようにげろ 火にまかれるぞ!」とゲンを促す父・大吉も浮かびます(回想)。
この後も家族3人が焼かれていった原爆による悪夢のような出来事が、瞬間的な回想として用いられる映画のフラッシュ・バック(場面の瞬間的な転換が繰り返される)のように描かれます。
「わかったよ とうちゃん わしは いくよ・・・!」「あんちゃーんにげるのか ずるいぞ ずるいぞ! わしと 川にいって 軍艦をうかべる 約束じゃないか!」
「あんちゃん はよう ここから だしてくれよ~」「進次・・・だめなんじゃ 柱がおもくて びくともせんのじゃ!」「元 なにをしとるか! はよう にげろっ」
ゴゴ~ッ「あんちゃ―—ん」。
瞬間的回想(フラッシュ・バック)が交互に描かれることで劇的効果を高めています。
このような劇的・映画的手法は、漫画家になる前は漫画とともに映画狂いになり漫画と映画は相通じるものがあると気づき、映画には、「映像とコマ画面の構成やセリフの使い方、ドラマの進行、盛り上げる演出方法など勉強になることが山ほどあった」(『はだしのゲン自伝』)といっていた作者ならではと思われます。
つまり漫画のなかで進行するゲンの物語を劇的に盛り上げるために、作者の中沢さんは映画で用いられるフラッシュ・バックを取り入れているのです。もっとも、それは他の所でも頻繁に取り入れられています。
例えば、米を手に入れるためにやって来た田舎で、ゲンが村の家で浪曲を唸って家族を感涙させていた場面。
ゲンは浪曲を唸りながら、父と姉と進次と笑いに満ちて過ごしたときのことを懐かしく思い出し、頬に涙をこぼします。浪曲の声は潮鳴りのように響き渡り、聴いている家族の胸に押しよせ締めつけます。
そうやって浪曲を唸るゲンと、それを聞く家族のそれぞれの感情が、フラッシュ・バックが挟まれることで読者に強く印象づけられるのです。
また、ゲンは隆太を「おまえは進次じゃ」と言い張り、かたや隆太は「わしには おまえみたいな あんちゃんは おらんわい」と対立する場面でも回想が多々用いられ、そのけっか、ゲンは進次を回想することで隆太を進次と思いこむことを頑としてやめず、
いっぽう隆太は隆太で、原爆で両親が無惨な死を遂げたその時の非情な光景を回想することで、ゲンに「わしゃ とうちゃんも かあちゃんも 親類もしんで ひとりぼっちなんじゃ」「もう いつまでも つきまとうな」と言い、二人の間の溝をドラマチックに浮かばせていました。
●漫画に映画的手法を取り入れた元祖
先のフラッシュ・バック(回想シーン)は、「過去の場面をはさみ込む手法」です。それが使われる目的は、登場人物のバックストーリー(生い立ちや経歴)を伝えたり、読者が場面を理解するためのようです。
「登場人物のバックストーリーを伝える」という点では、フラッシュ・バックが使われていることで読者は、ゲンが進次だと疑わないその隆太は、本当は進次ではなく、実は原爆で両親も親類もいなくなった「ひとりぼっち」の少年なのだという彼の背景―生い立ちと素性を知ることができます。
また、「読者が場面を理解するため」という点では、漫画『はだしのゲン』にはフラッシュ・バックが頻繁に用いられているため物語がわかりやすく、トントンとスームズに流れていることに気づかされます(現代の漫画の多くは当たり前のことかもしれませんが)。
ところで、そのフラッシュ・バックのような映画的な手法を漫画に取り入れた漫画家は以前にも取り上げたマンガの神様・手塚治虫でした。
その『新宝島』(1947年)は「 これまでのまんがとちがっていて、少年たちを驚喜させました。なにしろ一ページめをひらくと、走っている自動車が風のようにスピード線をなびかせて画面からとびだしてきます。まるで自分が自動車にのって走っているように感じられます。ひと目見ると映画のようです」(『手塚治虫—未来からの使者 』
。
その手塚はなぜ漫画に映画的手法を取り入れるようになったかについてこうのべていました。
「ぼくは、従来の漫画の形式に限界を感じていて、ことに構図の上に大きな不満をもっていた。構図の可能性をもっとひろげれば、物語性も強められ、情緒をでるだろうと、まえまえから考えていた。
従来の漫画は、『のらくろ』にしてもなんにしても、だいたい平面図的な視点で、舞台劇的なものがほとんどだった。ステージの上で、上手下手から役者が出てきてやりとりするのを、客席の目から見た構図であった。
これでは、迫力も心理的描写も生みだせないと悟ったので、映画的手法を構図に採りいれることにした。
そのお手本は、学生時代に見たドイツ映画やフランス映画であった。クローズ・アップやアングルの工夫はもちろん、アクションシーンや、クライマックスには、従来一コマで済ませていたものを、何コマも何ページも刻明に動きや顔をとらえて描いてみた。
するとたちまち、五、六百ページから一千ページを超えた大長編ができあがってしまう。戦時中に描き溜めた作品が山のようにあったのはそのためである。また、オチがついて笑わせるだけが漫画の能ではないと思い、泣きや悲しみ、怒りや憎しみのテーマを使い、ラスト必ずしもハッピイ・エンドでない物語をつくった。
ある作品のプロローグには、『これは漫画に非ず、小説にも非ず』と断わり書きまでしておいた」『ぼくはマンガ家』(1969年手塚治虫・毎日新聞社)。
●手塚治虫による「折り紙付き」の『ゲン』
スコップとバケツを持ったゲンが原爆で焼失した家があった焼け跡にやってきて、「ここじゃ わしの 家は・・・」と言った漫画の場面からこの〈36〉を書き出しているうちに話が脱線気味になって、とうとう手塚治虫の話がでてきてしまいました。
それというのも、フラッシュ・バックのような映画的手法を多用して、主人公ゲンの怒りや憎しみ、涙や悲しみといった心理的描写が巧みな物語『はだしのゲン』の作者である中沢さんは、漫画に映画的手法を取り入れた元祖・手塚治虫の『新宝島』を読んだのがきっかけで漫画家になったからでした。
そのため、その手塚治虫へのオマージュとして取り上げざるをえなかったのです。また、手塚治虫が中沢啓治と『はだしのゲン』のことをある本の中で取り上げていたのでそれも紹介しておきたかったからです。
手塚は『マンガの描(か)き方 似顔絵から長編まで』(光文社のKappa Homes)で、物語のネタや「テーマはなんでもよいから、自分の中にある、いちばん表現したいものを描いてみよう」とこうのべていました。
「被爆経験者で、中沢啓治さんという『はだしのゲン』を描いた漫画家がいる。この人の作品には、どれにもこれにも、被爆の身の毛もよだつ恐怖や、それへの否定がテーマの中で繰り返され、しかも作品としてすばらしいものを残して来ている。これだけは漫画にしたいというテーマが、率直に作品の上で反映されているからだろう」
この本は1977年に刊行されたものです。『はだしのゲン』が『週刊少年ジャンプ』で連載が終わったのが1974年のことですから、それから3年後ということになります。
●激しく葛藤するゲンだったが・・・
さて脱線はそれぐらいにして漫画に戻ります。家の焼け跡に骨を掘りだしにきたゲンのその後です。
ゲンが骨を掘り出しに来たのは、知人の朝鮮人の朴さんが、家の下敷きになり火で焼かれて死んだ3人を早く彫り出してあげないと土の中で「おしつぶされて いたい いたいと ないているぞ」と言ったからです。
最初は、夢に出た父も姉も弟も3人はまだ生きていると思っていましたが、しかし骨が出てくれば弟の「進次がしんだことも はっきりする」と考えなして掘り出すことにしたのです。
しかし、「・・・・」。いざ地面を見るとためらわれます。だが、「く・・・ くそっ」と思い切り、ザクッ、ザクッ、と足をスコップにかけて掘りはじめます。
しかし、激しく葛藤します。「でるな 骨はでるな! でなければ 進次たちは いきているんじゃ」「でるな骨が でないでくれっ」。ザクッ、ザクッ、ザクッ。「むっ」。
ついに出やがったか!という表情のゲンのアップ。出てきたのはゲンが進次にあげたおもちゃの軍艦でした。ゲンとともに読者もハラハラです。
「ハァ ハァ わ・・・わしゃ これいじょう ほれんよ・・・」「ほ・・・骨が でてくるのが こわいよ・・・」「ち ちくしょう」。だが葛藤はつづきます。
「く・・・くそっ どうしても ほらんと いけんのじゃはっきり させんと いけんのじゃ」。「くそっ」とスコップを再び手に取って、ザクッ。「ヒ~~~」と声を上げ、
口を大きく開けたゲンのアップ。
ページをめくると、ヒ~~、頭蓋骨と肋骨が・・・。読者も驚かされます。
ハラハラドキドキさせて骸骨を見せるまでの見せ方がじつに映像表現的です。
骨をみてガクガク震えたゲン。「で でやがった やっぱり でやがった・・・」「こ・・・こ これが・・・ 進次か・・・」。ゲンは進次の頭蓋骨を手にして、そうつぶやきます。一つのコマにゲンと頭蓋骨と進次が笑っている顔が描かれていて生と死のコントラストが強く印象されます。
コマは一転して、進次の頭骨に顔を近づけているゲン。
「・・・・ ・・・・」その大きな目からはポタポタ涙がこぼれています。
「ち ちくしょう」「ちくしょう ちくしょう」となおも地面を掘ったゲンが「ギッ」となり目にしたものは、
「この 大きいほうがとうちゃんだ」「これが 英子ねえちゃんか」とそれぞれ手に取った、父・大吉と姉の頭蓋骨でした。そしてゲンは並べた3個の頭蓋骨を前に進次、英子、大吉、3人の顔と姿を思い浮かべます。
「うわ――い あんちゃん イナゴが いっぱいおるぞ―—」「元 畑まで きょうそうしよう」「元 おまえは ふまれても ふまれても 強くなる 麦になれ」——。
「ううう うううう」。ゲンは涙をこぼし、地面に並べた3個の頭蓋骨の前に両ひざと両手をついてつぶやきます。「く くそーっ し・・・ 死んでいた 進次も ねえちゃんも とうちゃんも ほんとうに 死んでいた・・・」「もう 生きていないんだ 生きていないんだ・・・・・・」
●頭蓋骨を持って母のもとへ帰るゲン
原爆が落ちた日に家の下敷きになり、火に焼かれて死んでいった父と姉と弟。しかし、3人とも「うまく助かって帰ってきた」夢を見たゲン。ゲンは、3人が、身重だった母がその日のショックで、路上で生んだ赤ん坊のためにみやげを持って家に帰って来ると言っていたのを信じていました。
しかしお乳のでない母のためにゲンが田舎でお米を手に入れるために出かけた途中で出会った姉の英子に似、「やっぱり生きていた・・」と思った少女・夏江は英子ではなく別人でした。
そして次に出会った隆太は、本人がいくら「わしは進次なんかじゃない」と否定してもゲンには進次としか思えません。しかし家の焼け跡の地面を掘り進次の骨が出てくれば、隆太が進次でないことはハッキリします。
残念なことに「骨はでるな!」「でなければ進次たちはいきているんじゃ」というゲンの願いは打ち砕かれてしまったのです。それで、3人はもう「生きていないんだ・・・・」と悲嘆にくれたのです。
やがて気を取り直したゲンは、スコップをガラガラ ガラガラとひきずり、手に3個の頭蓋骨が入ったバケツを持ち、頭をうなだれ、肩を落として母のもとに帰ります。
とそこへ、「やい わりゃ よくもわしをなぐりやがったのう かりを かえしにきたぞ」と子分たちを引き連れた隆太が現れました。だが、「・・・・ ・・・・」。
ゲンはうなだれて肩を落としたまま通り過ごします。焼け跡から進次の骨がでてきたので、ゲンは隆太が進次じゃないことはハッキリしました。
しかし隆太はそうとは知らず、「やい! まちやがれ こわくて にげるのか」「みんな にがすな 、やっつけたれ」と子分たちをけしかけ、みんなでゲンをポカポカ叩いてやっつけます。けれどもゲンはされるがまま。
かれらを相手にしないで立ち去るゲンの後姿に、隆太は「チェッ なんじゃ わしをみると進次 進次と いうとったのに みむきもせんぞ」「しゃくに さわるのう」と言葉を浴びせます。
●新天地で再生を図るゲンと母と赤ん坊
ゲンは母のもとに帰ってきました。
「・・・・ ・・・・」。
二人でバケツに入った頭蓋骨を見つめた後、母はゲンに「これで・・・生きている のぞみが 完全にきえてしまったね・・・・・」と言い、
「ううう・・・」「うううっ」「あたしは死にたい もう生きたくないよ もう・・・どうなってもええよ・・・」と泣きます。
それを聞きゲンも「うわ~~ん」と大声で泣きます。「かあちゃーん ごめんよー わしが 骨をださなきゃ よかったんじゃー ・・・かあちゃんー 死なないでくれよ~~」「うわ~~ん」「うわ~~ん」。
だが、ゲンと肩を寄せ合ったあと母は、夫の大吉が火に巻かれながら「子どもたちや赤ん坊を母親として育てる義務があるから生きてくれー」と言い残した言葉を思い浮かべ、「おまえたちをおいて死んだり するものか」「弱気なことをいってごめんよ」とゲンに謝ります。
そして、「いやな思い出ばかりの やけあとから すこしでも とおくへいこう!」と、ゲンとリヤカーに路上での生活品を積み、「いちからやりなおしだ」と言って、赤ん坊と3人は「江波」へ向かいます。
ゲンがリヤカーを引く前部には頭蓋骨が入ったバケツがひもで結わえられ、カタカタと音を立てて揺れています。それをゲンは「骨が カタカタなってとうちゃんたち ないているようじゃのう」としんみりします。
そんな一行の後ろ姿を夕焼けのなかで仲間とともに見ていた隆太は言います。
「あいつ進次たちの骨をほりだして元気をなくしていたのか・・・」
「わるいことしたのう」―———。
※
私は第2巻 “麦はふまれるの巻” を読んでいる途中から、この巻の底を流れているテーマのようなものは、「生と死」や「死と再生」なのでは? と思いながら読んできました。ゲンの父と姉と弟が原爆で死んだあと、母がショックのあまり路上で生んだ赤ん坊は、父・姉・弟の「命」を引き継いだ新しい「生」でした。また、死んだ父・姉・弟が、その赤ん坊のお祝いに「みやげを持って帰ってくる」とゲンの夢に現れたのは、ゲンに、死んだ家族の「再生」を抱かせるものでした。しかし、姉・英子の再生か・・・と思わせた少女・夏江との出会いはむろん英子の再生ではありませんでした。また、弟・進次の再生か?と原爆孤児で進次とそっくりの少年・隆太が現われましたが、家の焼け跡から進次の骨がでできたため、隆太も進次の再生ではないことがハッキリしました。つまりゲンが見た父と姉と弟は、助かって生きていた、みやげを持って帰ってくる=再生するということはなくなり夢のままで終わりました。
・・・・・しかし、ゲンと母と妹(赤ん坊)は新天地の「江波」へ行き、人生の新たな再生を図ろうとするのです。
―続く
2023年9月22日(金)