差別について考える

 「差別はいけない」だけで片づけていた私アセアセ

 あなたは差別について考えたことがありますか? 

 私はこれまであまり突っ込んで考えたことがありませんでしたが、最近少し考えてみることにしました。

 

 きっかけは、差別をテーマにした『差別の教室』(藤原章生・集英社新書)と、差別についてもふれている『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診(み)る』(内田舞・文春新書)という2冊の本を手にしたことと、

 

 漫画『はだしのゲン』の中で、朝鮮人差別、被爆者差別が描かれていたのが強烈な印象として残っていたことです。

 

 本の内容についてはあとでふれるとして『はだしのゲン』が朝鮮人差別をどう描いていたかというと、ゲンの知り合いの朝鮮人・朴さんは「朝鮮 朝鮮ばかにするな 同じメシ食ってぬくいクソでる どこちがう クツの先が ちょっとちがう」と子どもたちにバカにされ、差別されていました。

 

 被爆者差別は、ピカをうけて醜い姿になってしまった登場人物・画家志望の吉田政二さんが「ピカの毒がうつるからあっちへ行け」「おばけ」と町の人からだけでなく家族からも忌み嫌われ、差別されていました。

 

 ところで、そうしたきっかけで差別について考えてみるといっても、どう考えていけばよいかはまったく手探り状態です。何を糸口にしたらいいのか。そこで、まず、なぜ私はそれまで差別についてあまり突っ込んで考えたことがなかったのかその理由を考えてみました。

 

 その結果、理由らしきものが1つ思い浮かびました。それは、私が、差別と聞けば「差別は絶対にやってはいけない」と条件反射的に差別に対する私の中での「答えを出してしまっている」ことでした。

 

 例えば、人種差別?・・・ダメでしょう。ヒットラーのユダヤ人虐殺は人種差別の最たるものなんだから。アメリカで黒人が警官に射殺された事件が頻発したのは黒人差別が根深いからだよ。男女差別?・・・今どき何を言っているの。そんなの絶対ダメにきまっているでしょ。・・・テナ具合に、差別と聞けば、即ノー。

 

 なので、差別について他にあれこれと考える必要が生じなかったのではないか。

 

 つまり、差別について考えるもなにも、「差別はいけない」という私の中の観念が差別についての多くの問題に蓋をしていたのかもしれません。

 

 ●差別の問題は単純ではなさそうだカエル

 もちろん「差別はいけない」という観念(物事に対する考え)を私が持っていたということがいけなかった(いけない)と言っているわけではありません。差別がいけないのは太陽が東から昇るように自明のことだと思います。

 

 ですから私はこれまでだけでなくこれから先も「差別はいけない」という考えを持ち続けたいと思っています。それに「私は差別がいけないとは思わない」とか、「差別? ・・・いいんじゃないの? 」とあからさまに差別を肯定する人にお目にかかったこともありません。しかし現実には差別があります。

 

 どうして差別は生まれるのでしょうか。またその構造はどうなっているのか。差別はなくせないのだろうか。・・・等々、問題はいろいろあります。

 

 他にも、たとえば、「差別はいけない」という考えの持ち主でいるつもりでいる私が、それでは「私は今までただの1度も人を差別したことがなかったか?」と自分に問いかけてみると、そんなことは「絶対になかった」とは言い切れないような気がしています。

 というより1度や2度は人を差別したことがあったはずです。はずですと言うのは、ある時ある人を差別して、その時に差別した意識をずっといつまでも持ち続けることがなく、差別したことを「忘れ去っている」かもしれないからです。

 

 そうなると、差別はいけないと言いながら差別をしていたとなって、私は矛盾していたということになります。

 

 つまり、そうやって問題をひろげていくと、差別についての問題は、私がこれまでそうであったように「差別はいけない」と思っているだけでは1件落着!とはいかないと思わざるをえません。

           虫めがね

   ■漫画『はだしのゲン』ラブラブを読む ふたご座

          <33>

   死ぬも地獄 生きるも地獄

 ●麦はふまれるの巻」に流れるテーマイエローハーツ

『はだしのゲン』の第2巻「麦はふまれるの巻」は、広島に原爆が投下されゲンの父と姉と弟が業火に焼かれて死んでいったその日から、ゲンが悲しみと困難を乗り越えて立ち上がっていく物語です。

 

 その初めのところで、街が惨状を極めたその日に母・民江が路上で赤ん坊を産みます。そしてゲンは、業火にまかれた父と姉と弟がうまく助かって帰って来るという夢を見、嬉しくなって元気がでます。

 

 物語の初めのこのふたつの出来事からはその後に続く話の底を流れるテーマのようなものが浮かんできます。それは、“生と死” と “死と再生” といったものです。

 

 母・民江が産み落とした赤ん坊(ゲンの妹)は、原爆によって死んだ夫・大吉と子どもの英子と進次の命を継いでいく ”新しい生” です立ち上がる。つまり “生と死”。考えようによっては “死と再生” も意味します。

 

 また、ゲンが、死んだはずの父と姉と弟がうまく助かって帰ってくると見た夢は、“死と再生“ ちょうちょを喚起・連想させます。

 

 では、後に続く話の中で、その “生と死” と “死と再生” がどう脈うっているかと言えば、まず “生と死” では、赤ん坊を死なせないために、お乳がでない母のためにゲンが田舎にお米を手に入れるために出かけたその道中で、ゲンはたくさんの死体を眼にします。もちろん投下された原爆で死んだ人々です。“生と死” のまさに死そのものです。

 ゲンの頭も原爆症で髪の毛が抜け丸ハゲになります。その結果、ゲンは死の恐怖にかられますゲッソリ。つぎに “死と再生” では、身の 周りに群がるハエを原爆で死んだ息子の再生・“生まれ変わり” と信じてそのハエをかわいがる女性の話があります。

 

 そして少女・夏江の登場です。ゲンは彼女の後ろ姿を見て「まちがいなく 英子ねえちゃんだ」「やっぱり 生きていたんだ・・・」イエローハーツと驚き、「とうちゃんや 進次も 生きているんだ!」と喜びます。

 

 私が “死と再生“ をイメージした、ゲンが〈父や姉や弟は帰って来る〉と夢見たことが、あたかも姉の英子が再生したかのごとくゲンの前に出現したのです。

 

 ●“死” の淵から “生” へ向かう夏江りんご

 しかし、すでに《32》でふれたように、ゲンが夢みた、姉・英子の再生かと思えた夏江は、むろん英子の再生なんかではなく、このあと一転して、夏江は、“生と死” のドラマをゲンとの間で繰り広げます。

 

 彼女は踊り子になる夢を持っていましたが原爆で負った顔のヤケドのひどさを知り「おばけみたいな顔では人前ではおどれない」と絶望的になります。

 

 「元気をだせよ そんな ヤケドは 手当てをすれば なおるよ」とゲンは励ましますが、業火で母を失い、原爆症にもかかっていて衰弱していた彼女は絶望のあまり自殺しようとして海に飛び込みます。

 

 そのあとすぐに飛び込んで助け上げ、「ねえちゃんいきるんだ おねがいだから いきてておくれよ」というゲンに向かって、彼女は「うわ~ん あたしを 死なせて」と叫ぶのです。ドラマを見ているようです。タコしかしまだ先があります。

 

 ゲンはヤケドの手当てをするために彼女を瀬戸内海の小島(似島)にある陸軍の検疫所に連れていきます。そこは広島市内の救護所でかたづけられない負傷者や死体が2万人以上もはこびこまれたところです。

 

 「兵隊さーん はよう 薬をつけて くださーい」「水を くださーい」「くるしいよ」と大勢の負傷者が横たわっている中で、次から次へ死んだ人が担架で運ばれています。 

 そうした中で手当を待って横たわっている夏江はゲンに水を持ってきてくれるように頼みますが、ゲンは離れたすきに彼女が自殺するのでは? と恐れますえー

 

 案の定、「自殺なんかもうしないよ」と約束したのに、ゲンが水を持ってくる間に木に縄をかけて首を吊ろうとしました。

 

 ゲンは「ばかたれ! ばかたれ!」とすんでのところでやめさせます。

そしてこう言います。「ねえちゃんは もう 自殺で 二回も死んだんだ もう うまれ かわったんだ」。「わしゃ ねえちゃんが 死ぬと 英子ねえちゃんが 死ぬようで たまらんのじゃ さびしいよ 」(ゲンは英子の再生にまだ希望を持っています)

 

 「 うまれかわった つもりで 勇気をだして いきてくれよ」「おどりができなくても ええじゃ ないか 生きてやることは いっぱいあるよ」。

 

 こうしたゲンの言葉に夏江も、「生きたくても 生きられない人が いっぱい いるのに・・・もっと 自分を 大切にするよ」イエローハーツと応えます。

 

 ・・・こうして、“死” の淵に立っていた夏江は、“生” へと向かうのです。

 

 だが作者は夏江の顔とゲンの絵に重ねて「 夏江は たちなおった・・・が はたして 夏江にとって 生きるほうが よかっただろうか? 死なないかぎり きえることの ないヤケド・・・ケロイドの ために きびしく かなしい人生が夏江をまっているのだから・・・・」と書いています。

 

 きびしく、悲しい人生が待っているのだから、「むしろ死んだほうが・・」という考えに忖度したかのような一文です。しかしこのすぐ後に描かれる残酷な光景をゲンと夏江が眼にすることでその考えはキッパリ否定されます。

 

 その光景とは、原爆によるケガ人が次々死んでいくなかその死体を少しずついくら焼いても焼ききれないので炎、穴を掘ってまとめて埋め、スコップでガラガラと土をかぶせるというもの。

 

 それを見て、ゲンは「 ねえちゃん ぜったいに あんな姿に なるなよ 生きててくれよ」とダメ押ししたのです。

 

 つまりこうした、ゲンと夏江が邂逅して繰り広げる話も含めて、第2巻「麦はふまれるの巻」の底には、“生と死” と “死と再生” のテーマが脈うっているのです。

 

 ●重い話の後にホット一息つかせるも・・アセアセ

 「キズがなおったら 広島であおうよ」

 「ありがとう 元くん あんたも 元気でね」

 「さようなら・・・」「さいなら ねえちゃん」

 

 はやく米を持って帰らないと赤ん坊が死んでしまう。母が首を長くしてゲンの帰りを待っています。夏江と別れたゲンは走って田舎をめざしますダッシュ

 

 しかしようやくたどり着いた田舎では困難が待ち受けています。

 

 「 ばかたれっ わしらさえ 米のめしを くっていないのに みもしらぬ おまえに 大切な米を やれるか」「さっさと おかえり かえらんと 警察をよぶよっ」「だいじな 米を ただで やれるか かえれ はよう かえれつ」

 

 困り果てたゲンは落ちていたカマを手にし、「 くそったれ 米を わけて くれないなら・・・」「ドロボウでも ひと殺しでもしてやるぞ」と物騒なことを考えます。

 

 そんななか、ゲンは村のやんちゃ坊主たちがチャンバラで切腹ごっこをして遊んでいるのを見て、彼らから米をだまし取る作戦にでますOK

 

 拾ったカマを子どもたちに見せながら、「おまえら ほんとうの 切腹を みたいと おもわんか」このわしが「ほんとうの 切腹を みせてやるけえ みんな 「米をもってこい」「もってこんやつは切腹はみせんぞ」と言い、みんなに家から米を持ってこさせます。

 

 たっぷり2升はあります。はやく切腹を見せろと言われたゲンは、血が飛び散ってみんなの腹が汚れるから「うしろへ さがれ さがれ」とさがらせて、ころ合いをみて、米をかついで脱兎のごとく逃げ去ります。

 

 しかし「 まてー 米ドロボウ」「つかまえろ」「にがすな」と追いかけられ、肥溜めに落ちてしまいます。そして「このやろう よくもだましたな」「やれっ やれっ」と棒でみんなから頭をたかれ米を奪い返されます・・・・・ショボーン

 

 このゲンと村の子どもらとのお米をめぐっての “切腹ごっこ事件” は、それまでの、夏江の、死ぬの生きるのという重い話から一転して、いかにも “少年漫画” の世界を感じさせ、ホット一息つかされる気になります。

 

 とはいえ、ゲンの困難な状況はなんら変わりません。米を手に入れられないゲンは、世間の冷たさを知り、原爆さえなければこんな目にあわずにすんだと涙を落とします。

 そして第2巻の底を流れている “生と死” と “死と再生” も変わりません。ゲンが目を落とした先にガサガサ何かが動いています。

 

 それは島に流れ着いていた死体の肉を食っていたカニですかに座

 

 「 こら~ かわいそうな ことを するな!」とゲンは地団駄を踏み、「 ばかたれ ばかたれ が・・・」と言いながら肩を落とすのです。

 

 ●苦労のすえにゲンは米を手に入れるグー

 「わしは ないてる ときじゃ ないんだ どうしても 米を 手にいれんといけんのじゃ」「もう一度 たのみに いこう」と気を取り直したゲン。夜、村の家から「ハハハ」「ワイワイ ガヤガヤ」と家族が団欒する声が聞こえます。「 ええのう・・・みんな そろって たのしそうに めしをくっとる・・・」

 

 そして、家の子どもたちと父親が相撲を取る様子を木の陰から見ていたゲンは、在りし日、父・大吉と弟・進次の3人で相撲を取ったことを思い出します。

 

 また、ゲンと進次が、父と母と姉の前で座布団に正座して、「 妻は夫を いたわりつ 夫は 妻にしたいつつ~~」「ハアーペンペン」と浪曲を真似ると、聞いていた3人が、「アハハハハ」と楽しそうに笑っていた家族団欒のひとときがあったことも思い出します。しかし原爆によってそうした家族の幸せも、「広島市に すんでいた ばっかりに みんな きえてしもうた・・・」「ううう・・・」と手で目頭を押さえます。

 

 すると「 だれじゃ そこにいるのは」と家のおじさんがゲンに気づきます。

 

 ゲンはおじさんに「おじさんは 浪曲がすきですか」と訊ね、「ぼくが 浪曲をきかせるから 米を すこし わけてください」お願いとたのみます。

 

 浪曲が大好きだというおじさんは、へただったら米はやらないが、うまかったらやると約束します。聴くだけ聞いて「へただ」と言うつもりでいました。また、退屈しのぎにからかってやろうといういじわるな魂胆でした。

 

 しかし、ゲンが「 それでは壺坂霊験記より・・・・・」「ハアー ペンペンペン」「妻は 夫を いたわりつ~~~ 夫は 妻を したいつつ~~~」「ハア―」と浪曲を語りだし、「ころは六月中の頃~~」「夏とはいえど 片いなか~~」・・・・・と唸りだすと、おじさんと奥さんと子どもたちの表情が変わり、その目からは涙がこぼれます。

 「 元のうなる浪曲は 進次との たのしかったおもいでとなって 声は潮鳴りのごとくひびきわたり きく者の胸におしよせしめつけた・・・」のです目がハート

 

 「 さあ 米をやる もっていけえ!」「ほ・・・ほんとうに くれるのか!」

 

 「こ 米だ・・・米だ・・・」「お おじさん おばさん ありがとう」

 「ワ―—イ バンザ―—イ バンザ——イ」晴れ 

 

 こうしてゲンはようやく米を手に入れることができたのです。

 

 それにしても、ゲンが浪曲を演じ、それを聞いていたおじさんたちが涙を流す一連の場面は、ゲンが浪曲をうなるところに進次の回想場面が組み込まれ、演じるゲンと、聞くおじさんたち、そして進次のそれぞれの場面が映画のモンタージュ(複数の場面を合成して1つの画面にする)のようで、あたかも映画やドラマのシーンを見るようです。

 

 ●ゲンは叫ぶー父と姉と弟、家をかえせ~えー

 さて米をゲットしたゲンは、タダでのせてもらった船で、母と赤ん坊が首を長くして待つ広島へ向かいます。船の、漁師のおっさんはゲンに「うわさでは 広島市は 新型爆弾で 六十年間は 草や木が はえないそうだ」「おそろしい ことじゃ 広島は 死の町になったのう」と嘆きます。

 

 ゲンが船の舳先に座って見たその広島の空には煙が立ち込めています。死体を焼いている煙とのことです。おっさんはさらに嘆きます。「 ひどいのう広島で うごいているのは 死体をやく けむりだけか・・・つい二 三日まえは にぎやかな町だったのに・・・」

 

 やはり舳先で「ジャンジャン ジャガイモ サツマイモ ホイホイッ」とはしゃぎながら、米を手にしてやっと帰れる嬉しさの絶頂にいるゲン。

 

 だがそんななかにあっても、おっさんの嘆きにみるように、2巻の底を流れる “生と死”  “死と再生” は、ゲッソリ通奏低音のようにずっと流れ続けているのです。

 

 船を降り、米の袋を担いで焼け跡の町を歩くゲンの眼にとまった立札(たてふだ)には、散り散りになった家族への伝言が記されています。 

 

 それを見たゲンは「 わしも 立札をたてないと いけんのう 浩二あんちゃんと昭あんちゃんが かえってくるかもしれんけえ・・・」と二人の兄を思い浮かべ、さびしいから「はよう かえってきてくれよ・・・」と胸をいためます。

 

 ー—と次の瞬間、「むっ」と今度ゲンが眼にしたのはガイコツを金づちでガッガッと叩き、トントントントンと砕いているおばさんでした。

 

 「 へんなことを するのう」と見ていると、おばさんはサラサラになった骨の粉をヤケドを負った息子に飲ませています。ヤケドにつけると治るし、飲むと死なないという、巷で流行っているらしい迷信を信じていたのです。おばさんだけでなく、迷信だろうがなんだろうがみんな「たすけたい一心で」信じていたのです。

 

 そんななかゲンがふと空を見上げると、ゴ~~ツ という音とともに低空をB29が飛んでいます。ゲンは、「まだ 戦争は つづいているんじゃ」・・と拳を握り、こう叫びます。

 「 ばかたれ―— おまえら なにをしに きたんじゃ 広島には もう爆弾をおとすところは ないぞ~~~」炎

 

 「 くそったれ おまえら 死体ばっかりの 広島をみて たのしんでいるのか! アメ公の ションベンたれ おりてこいっ わしが ムゲチンに してやらあ」

 

 「ちくしょう わしの とうちゃんと  ねえちゃん 進次を かえせ~~~ わしの 家を かえせ―——」「 ばかたれ―— ばかたれ―—」「ちくしょう ちくしょう ちくしょう」.........。

ー続く

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            ニコニコ2023年8月23日(水)処暑

                  ヒマワリ