『60歳からの「悠々」生活!?』
CONTENTS
プロローグ / 第1章 60歳は「人生の仕上げ期」の始まり 第2章 定年後は”宝の時間”が待っている
第3章 元気なうちは働く? 第4章 「自分の時間を売り渡さない」人生への帆を上げる
第5章 「悠々」 生活の基礎ー私の例 第6章 お金?そりゃ、あるにこしたことはないが ・・
第7章 友人は大切だが孤独もまた「友」なり 第8章 おいおい、悠々と老いる / エピローグ
第8章 おいおい、悠々と老いる
(Ⅰ~Ⅶ)
Ⅶ‐Ⅲ)老いを楽しむ気持ちになれるだろうか
どうにもならないものはジタバタしないで諦める―—。
しかしそうやって「老いを受け入れる」覚悟を持ったとしても唯々諾々とは老いを受け入れたくないかもしれない。年齢には逆らえないが、いつまでも若々しい心と体を持っていたい、実際の年齢よりも若く見せたい(見られたい)、出来るだけ長生きしたいという気持ちは多くの人に共通していると思われる。
本当のことを言えば私もそうです。その意味では私自身はまだ「老いを受け入れる」覚悟を持ち切れていないのかもしれません。
とはいえ、年齢を重ねるにつれ、やはり老いを受け入れる覚悟を迫られる時期がくることは予想できます。それが60代なのか70代なのか80代なのか、それとも90代なのかそれはわかりません。いずれにしろ、そうなったときは、老いを嘆くのではなく老いを楽しむぐらいの心でいたほうが精神衛生的には良いような気がします。
もちろん、老いを楽しむといっても、何歳になっても老いに抵抗したい気持ちが残っている人は、おいそれとは楽しむ気持ちにはなれないかもしれません。
しかしながら、何をするにしても、イヤイヤやるのと、進んでやるのとでは後者のほうがよい結果が生まれる場合が少なくありません。それなら、どうせ老いていくのなら、「老いを楽しむ」ほうがよいと言えるでしょう。
私は50歳を過ぎた頃から、「今こそが大事」、「今を生きる」という気持ちで生きてきました。それまでの前半生にはそのような思いはありませんでした。それまでは、将来はどんな職業に就きたいか、あるいは、結婚は何歳ぐらいでするかといった具合に、時間は、今ではなく、未来の中にありました。
しかし50歳を過ぎて人生の峠を越えたと意識されるようになった頃から「人生の終わり」が見えてきて、残された時間はそう多くはないと思うようになりました。
それならば、生きている今この時を粗末にしないで、「今を大切にしよう」と考えたのです。そして、「生きている今が一番!」と思うようにしたのです。
したがって、そうした考えを老いてからも持ち続けていくとするならば、当然、「老いてもなお今が一番!」となって「老いを楽しむ」ことが可能になるはずです。
ただ、病気になったり、思いがけない災難に襲われたりすれば、いついかなる時も「老いを楽しむ」という気持ちになるとは限らないかもしれません。しかし物は考え方次第です。「人生いつだって、いまが最高のとき」(『生きて行く私』の宇野千代)と考えたら、老いも楽しめるかもしれません。
■漫画『はだしのゲン』を読む
<28>
「物語」の“発見” ⑦
●手塚治虫が書き残した物語の作法本
先の〈27〉で手塚治虫が物語を作れるようになったのは小学生のときの国語の先生が作文の時間に毎回10枚もの作文を書かしたからだという話しを紹介しました。
小学生の手塚は、庭でアリがカマキリに襲われて食べられたところを延々2、30枚書いたそうですが、何とかして枚数を稼ごうとしたのでしょうか、その中に「アリが暑いなと頭を上げました」とフィクションを入れてみたそうです。
つまりそうやって物語を作るノウハウを身につけていったということでした。
『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)という本に書かれてあったそうしたことを読んだ私は、なるほどなぁ、と感心させられました。
朝起きて歯を磨いて、朝ご飯を食べてそれから学校へ行って、学校から帰って、宿題をしてから遊びました。そして、夕方になったので家に帰って、晩ご飯を食べて風呂に入って、そして寝ましたーーー。
私が小学生だったときは、多分、そんな調子の作文を書いていただろうと思います。しかもとても原稿用紙10枚なんて書けません。1枚で終わりです。
しかし手塚治虫は、小学生ですでにフィクションを混ぜた作文を10枚、ときには何10枚も書いていたというから驚きます。やはり“漫画の神様”と言われる人は常人とは違います。
そこで私は、そんな手塚治虫が物語の作り方ついて書いた本がもしあったらぜひ読んでみたいと思いました。長編のストーリー漫画を数多く創作しているので、きっと実践的な物語作法のようなものを書いてあるに違いないからです。
とはいえ、生前、多忙で、膨大な作品を発表していた手塚治虫がそうした手の内を見せるハウツー的な本を果たして書き残しているかどうか疑問でした。
しかし幸いにも書き残してくれていました。やったぜ。
私は息子の手を借りてヤフオクで『漫画大学』と『マンガの描(か)き方 似顔絵から長編まで』という二冊を入手して、それを読むことができました。
●「四コマ漫画」の四コマにも物語がある
ただ、物語の作り方が書いてあると言っても、その2冊とも、マンガを構成する「絵」と「物語」のうち「絵」の案(アイディア)についてや、絵の描き方の割合が多いのは否めません。
マンガを描くための指導書だからそれはそれで仕方ないとはいえ、私はマンガをまったく描けないしこれから先描けるようになりたいとも思わないので「絵」の部分については、ほとんどスルーせざるをえませんでした。
とくに昭和25年(1950年)に東光堂から発行されている『漫画大学』(入手したものは講談社が1977年に手塚治虫漫画全集39として発行)は「 漫画をかいている少年たち」のための「指導書」とはいうものの、
漫画の形をかりて書かれてあるため、それにしてもあまりにも漫画の分量が多く、「あとがき」で手塚自身ものべているように「結局、指導解説は、つけたしのようなもの」になっています。
しかしそうしたなかでも、私があえて注目した点が一つだけあります。
それは、「 四コマ漫画はあらゆる漫画のもとになる形」だから「 必ずこれを練習しなければいけない」。
その「 四コマ漫画は漢詩と同じで起 承 転 結の四つの絵からできている」として具体的な絵を例に示しながら、
「起」は「 事件の始まり」、次の「承」は「 事件のなりゆき」、最後の「転」と「結」は「 事件が思わぬことへひっくりかえる」と解説していることです。
その中の何に注目したかというと、四コマ漫画のその「四コマ」が「事件」で繋がって1つの短い「物語」になっていることです。
つまり、私がその仕組みに関心を寄せた「物語」というものが、漫画の中では、わずか「四コマ」の中で成立しているということです。
●「起」「承」「転」「結」で物語をつくる
その「四コマ漫画」について、手塚さんは『マンガの描(か)き方 似顔絵から長編まで』(1977年光文社)ではさらに詳しく取り上げ、「 四コマ漫画は、漫画のスジ立の基本である」、その「 四コマ漫画がつくれればどんな漫画でも描ける」としています。
そして、「四コマを、十も百も並べると、長編になる。あるいは、四コマを水増ししても、長い物語がつくれる」といっています。
また、「 四コマ漫画とは、話を四つの段階に分けて表現する方法」だから、そうすることで「意外と案が考えやすかったり、物語をつくりやすかったりする」ともいっています。つまり、四コマ漫画のつくり方の基礎がみっちりとできていれば、たとえどんなに長い物語でもつくろうとすればつくれるといっているのです。
そんななか本では四コマ漫画の技法として次のような四コマ漫画を例にだしています。
まず、「事件のハジマリ」の「起」の絵は、左側にいるおじいさんが右側でよちよち這っている赤ちゃんに、ニコニコ顔で腰をかがめて両手を差しのべています。
その一コマめを受け継いで話をすすめた「承」の二コマめの絵は、おじいさんは両手をパチパチたたきながら後ずさりしています。
次に三コマめの「転」は、事件が急に以外な方向へ行きます。絵はおじいさんがひっくり返って下に落ちてしまいます(平らな床の上で後ずさりしていたのではなかったのです)。
そして四コマめの「結」の絵は、思わぬ結果、オチになっていて、よれよれになってお尻を赤ちゃんに向けて四つん這いになっているおじいさんに、立ち上がっている赤ちゃんが、パチパチ手をたたいています(「起」では赤ちゃんが這い、「結」では、逆転して、じいさんが這っています)。
・・・しかしながらこうしてその四コマ漫画を見てみると、何も漫画の「絵」を伴わなくても、
その起承転結の順で「事件」や「話」をつなげていくと(事件のハジマリ→話をすすめる→事件が急に意外な方向へ→思わぬ結果・オチ)、自然に「物語」はつくられていくものだというのがわかります。
●お話好き、聞き好きになるのがいちばん
『マンガの描き方 似顔絵から長編まで』にはマンガの描き方やアイディアの作り方だけでなく、マンガと不可分の「物語」についてもその「考え方」と「つくり方」などについて紙数を割いています。それらは私が最も知りたかったことです。
そこで、以下に、それらの中で私が特に注目した部分を紹介しようと思います。
まず、手塚は「物語の考え方」の最初のところで「お話好きになることがいちばんだ」と書いています。
前にも、幼い手塚によく話を聞かせていたという母親のことをふれましたが、ここでも手塚は子どもの頃によく母親に寝物語を聞かされていたことにふれています。
「 そのころの話は今でもよく覚えていて、漫画の物語をつくるときに役立つ。話の組み立て方のコツも、こんなことからみについたのだろう」とのべています。
だから、物語をつくるためには、「 小説を読んだり、落語を聞いたりして、聞き好きになるのがいちばんだ」といっているのです。
手塚さんは母親が話した『ここにいる』という恐い話を今でも覚えていました。
次のようなものです――。
ーーたいへん怠け癖のある小坊主がお寺にいました。仕事はサボってばかり。和尚のいうことも聞きません。ある日、つぼの中で居眠りしていると、山姥(やまうば)が来て、小坊主をさらっていってしまいました。山姥ははじめのうち、とても親切で、お米を食べさせてくれたり腕輪をくれたりします。
小坊主はその腕輪をはめて喜んでいましたが、そのうち、うまいものばかり食べさせられるので、だんだん太ってきました。するとその腕輪が腕に食い込んで離れなくなってしまう。山姥は、小坊主がまるまる太ったところで食べようというわけだったのです。
小坊主はそれを知って逃げ出します。山姥は、小坊主が木の裏とか、草むらの中に隠れていると「どこにいる。」と呼びながら追いかけてきます。そうすると腕輪が「ここにいる。」と答えるのです。山姥はその声を聞きつけてまた追いかけてくる。
小坊主が、逃げても逃げても、腕輪が「ここにいる」と言うものだから、どうしても山姥を振り切ることができません。とうとう小坊主は、自分の手を腕輪ごと切って谷へ落としてしまいます。
山姥が、「どこにいる。」と言うと、谷底で「ここにいる。」と答える。山姥は、その声を追っていくうちに、とうとう谷底に落ちて死んでしまいました。小坊主はやっと助かったと安心もしますが、腕を切ってしまった痛さで泣いてしまいます。
オンオン泣いているうちに、つぼの中でハッと夢がさめる。腕が変にねじれて寝ていただけなのです。それからというものは、小坊主の怠け癖も治ってしまったということです。
―ーそんな話です。
もし私も子供のころにその話を聞いていたらさぞ恐かっただろうとおもいます。
ところで、その『ここにいる』のおしまいの「ハッと夢がさめる」というところで私はハッとなりました。手塚治虫の『新宝島』のラストを思い出したのです。
以前取り上げたように、昭和22年(1947年)に発表された『新宝島』は斬新さゆえに当時の子どもたち(のちの多くの漫画家たち)を驚喜させました。
物語は少年ピートが海賊たちの妨害やさまざまな困難を乗り越えて宝島で宝を手にする話です。
ところがラストでそれはピートが夢を見ていた話しだったというオチがついていました。もしかしたらいわゆるその「夢オチ」は、手塚が幼いころに母親から聞いた寝物語のひとつだった『ここにいる』がヒントになっていたのかもしれません。
その真偽のほどはともかく、手塚さんはそうした話をたくさん聞いていたことで、のちに物語をつくる上でいろいろと役立てたに違いありません。また、「聞き好きになる」ということに関連して手塚さんはこんなことを書いています。
「 お話を耳から聞くと、子どもは、頭の中でイメージを働かせる。子どもはお話を聞きながら、頭の中に、その場面とか、出てくる人間の姿とか表情を見ることができる。物語を聞くことは、子どもたちに、映像というイメージをかきたたせるわけだ。
これはぼくのひとつの仮説だが、映画監督や、絵描き、イラストレーター、漫画家は、子どものころから耳から聞いたいりいろいろな情報などの、資料ができているのだと思う。それを自分で自由に、具体的なイメージに頭の中でつくり上げることに、慣れている人たちではないかと思うのだ」
●物語は、初めは“借り物”でもいい
私は手塚治虫が上にあげていた種類の仕事をしている人間ではありません。が、確かに小学生のとき教室で先生がしてくれた恐い話は今でも頭のなかで映像となって残っています。とはいえ、物語をつくることは私には難儀なことです。
手塚も「自分の頭の中で、何もないところから物語をつくるのだから、これは小説家になったと同じことだ」と、つくることの大変さをいっています。
ではどうやってつくればいいのか・・・。彼はこうのべています。
「 物語は、はじめのうちは借り物でもいいからつくってしまうこと。
その借り物に、職場や学校で聞いた世間話や自分で感じたことを色づけする。あるいは、駅や電車の中で人を見て、この人はこんな生活をしているだろうと想像して、できたイメージを盛りこんで肉づけするのだ。
そうすると、たとえ真似したものでも奇妙に物語が新しくなってくる。少なくとも、いちばん最初の、もとになったものよりは、一歩進歩したものができる。
これはイミテーション(にせもの)ではないのだ。たしかにもとの話を脚色したものだが、そこに自分で考えたプラスの要素がちゃんと加わっているからだ」
●物語はその人の体験からも生まれる
また、物語をつくる便利で手軽な方法のひとつは、「既成の主人公の性格を変えること」で新しい主人公をつくることだという。
例えば、「おっちょこちょいで、お人好しで、あわてもの」の『サザエさん』のサザエさんを「非常に怒りっぽい、かんしゃくもち」な性質にしたててみる。一度つくっても、気に入らなければいろいろ変えて、そうやって、「個性的な人物ができたら、その人に合わせて物語をつくる」。
「 性格さえはっきりしていれば、あとは自分で苦労しなくても、その人物は勝手に活躍するだろう」といっています。
また「 いちばん印象に残った体験から物語が生まれる」と書いています。
手塚は戦後の焼け跡で学生生活を送ったそうですが、あるとき町を歩いていて、酔っぱらった六人の米兵に道を聞かれたそうです。
しかしスラングもかなり混じった英語が聞き取れず「自分は英語を話せない」と言うと相手はいきなり殴り、大声で笑いながら去っていったそうです。
そのため、殴られても我慢しなければならない屈辱がいつまでも頭から消えず、そのときの体験が、これまで描いてきた手塚の漫画にすべて出ているはずだそうです。
それは「 人間同士のトラブル、偏見、コンプレックス、誤解、それに暴力による解決への怒りとか悲しみとして表れてしまう」と、
経験が作品に反映されていることをふり返っています。
そして、よい物語を生むために、「自分のいちばん描きたいもの」、「社会の問題、家庭の問題、個人的問題などテーマはなんでもよいから、自分の中にある、いちばん表現したいものを描いてみよう」
と述べて、次のように被爆体験者の中沢啓治さんの『はだしのゲン』を例にあげています。
「 この人の作品には、どれにもこれにも、被爆の身の毛もよだつ恐怖や、それへの否定がテーマの中で繰り返され、しかも作品としてすばらしいものを残して来ている。これだけは漫画にしたいというテーマが、素直に作品の上で反映されているからだろう」
●全体の構成がきちんとした台本づくり
ここまでが手塚治虫の「物語の考え方」、いわば物語の“総論”だとすると、以下は具体論になろうかと思います。
特徴的なことは、前《26》にもふれましたが手塚の漫画が「映画的手法」を取り入れた「漫画と映画の結婚」と比喩されたように、手塚が物語を生む具体論も、やはり漫画と映画をリンクさせて説明されていることです。
例えば、「 映画も漫画も、物語を画面で見せるという点では似ている」とか、漫画も映画も「ドラマ作りと言うことでは変わりはないのだから、映画は漫画をつくるとき、大変参考になる」という具合です。
そうしたなか、以下簡潔にまとめると、
長編漫画(物語)をつくる大きな3つの柱として、(1)テーマ(2)シノプシス(3)主役 をあげそれらは台本づくりという最も大切な仕事の骨格になるといっています。
物語の全体の構成がきちんと考えられ、物語の進行が忘れられないようにするための台本(または脚本)は、映画をつくるとき、登場人物のセリフや動作や舞台装置を書いてあるものだが、漫画のときもそうした台本は必ずつくっておくとのべています。
で、その台本づくりで必要なこととして挙げていることは、
(1)テーマ(主題)を考える ー 物語の中でいったい何を言おうとするのか。(2)プロット(構想)をつくる。テーマをどういうように仕立てるか、大まかなスジを立てる。(3)ストーリーづくり ―3つの段階に分けて、だんだん細かく考えていく。
A)シノプシス(あらスジ)―かんたんなスジ書き。(何がどうしてどうなったか)
B)箱書き―あらスジをもとにして、もうすこし膨らませたもの。C)台本(シナリオ)―箱書きをもっと膨らませて、セリフや、人間の登場と退場、その場所の光景までていねいに。
そして台本づくりで注意することは、話を正確に伝えるために、新聞記者が記事を書く時のように、
➀誰がー人物(who)②いつー時(when)③どこでー場所(where)④なにをー事件(what)⑤なぜー原因(why)⑥どのようにー方法(how)の、5W1Hが大切である。
それは物語をつくる基礎でもあるという。
(4)キャラクター‐まず主役の主人公と副主人公。かたき役には、」うんと特色をつける。面白いくせや謎のような性質。主人公、かたき役以外に、物語の雰囲気をほがらかにする役の三枚目も。(5)考証―物語を事実に基づいて正確に描くということ。
以上です。
●長編ものの構成について
さて最後は長編漫画(物語)の構成についてです。
手塚治虫は従来の平面的な構図に飽き足らず、漫画に映画のアップやロングを取り入れ、アングルも工夫しました(前に何度も取り上げた『新宝島』がその端的な例です)。
構図の可能性をもっと広げれば、「 物語性も強められ、情緒も出るだろう」と考えたからです。アクションシーンや、クライマックスには従来1コマで済ませていたものを、動きや顔を何コマも何ページも描きました。
そのけっか作品はたちまち5、6百ページを超える大長編になりました。オチをつけて笑わせるだけが漫画ではないと、泣きや悲しみ、怒りや憎しみをテーマに使い、ラストが必ずしもハッツピーエンドではない物語もつくりました。
戦後の漫画は、手塚によって映画的に変えられ、内容的にも変革されたと言われます。つまり手塚の漫画から戦後の長編漫画(物語)が確立されたといえるでしょう。
その長編について、手塚は川の流れのように「なかには谷もあるし、早瀬もあるし、よどんだところもある」とのべています。
はじめのプロローグで、大きな派手な場面をもってきて読者の気持ちをひきこむ。
それが基本で、その後は登場人物や面白いキャラクター(人物)を紹介します。そして適当なところで話が盛り上がる第一のヤマ場をつくる。
息抜きをしたらさらに山場をつくって、そうした山場と息抜きを何度か繰り返して一番おしまいにお話し全体のヤマ場をつくる。
本には「長編漫画の構成」ということで「よい例」と「わるい例」が樹木の幹と枝が描かれたイラストで示されています。
「わるい例」には次のような言葉がかかれてあります。
「かんじんの中心テーマが途中でそれてしまっている」「横道がさらに枝葉に分れ、どれが本スジかテーマがわからない」「スジがひどくこんがらかっている」「ひとりよがりで不親切」。
一方の「よい例」には、「 大きな一本のテーマが太く堂々とはじめからさいごまでつらぬいている」「先細りになっていない」「スジのはこびがなめらかでわかりやすい」「枝葉のテーマやスジは本道よりもかくる途中で消したり本道へもどす」とあります。
・・・・・以上で手塚治虫が手の内を明かした物語のつくりかたのエッセンスのごく1部を、私が関心を持った範囲で理解したその内容のご紹介はおしまいです。
調べて見ると、この『マンガの描(か)き方 似顔絵から長編まで』が刊行された
1977年は、手塚治虫は49歳。かたや小学生のときその手塚の『新宝島』を読んで漫画家の道に入り、本の中で『はだしのゲン』を激賞された中沢啓治はそのときは38歳ーー。
当時中沢さんは掲載誌を変えながら『はだしのゲン』を描いていたとのことです。
きっと手塚さんの本も手に取ったことでしょう。
―続く
2023年7月4日(火)