「編集室員」だった時に大失敗をしたことがありました。ある日、編集長から講演を録音してくるように頼まれたのですが、テープレコーダーにまったく音が採れていなかったのです。

 

 講演者は「シネ・フロント」誌の顧問をされていた高名な映画評論家で、録音採取された講演内容は文章化して紙面に載せる予定のものでした。それをおじゃんにしてしまったのです。

 

 現在は、テレビで見かけるように、記者の多くは口述取材に小型のICレコーダーを使用しています。けれども当時はそんなものはなく、わたしが会場に持って行った機材は、所有していたソニーの「カセットデンスケ」というその当時オーディオマニアや鉄道ファンの間などで人気のあったヒット商品でした。

 

 それを、現場にデン!(・・デンスケだけに。ダジャレ言ってる場合じゃないが)と構えてスタンバったにもかかわらず、いざ、再生ボタンを何度押しても、・・・・・。セキ払いひとつ聞こえてきません。はちゃぁ、、。もちろん機材のせいではなく、わたしの何かしらの不注意が原因でした。

 

 編集長にも講演者にも大変申し訳ないことをしてしまった、忘れようにも忘れられない一件でした。

 

 それと、これは失敗というわけではありませんが、テープレコーダーに録音採取された他人の音声を再生して文章化する作業の難しさをつくづく知らされました。自分が文章を書くのとは勝手がちがいます。再生して、停めて、巻き戻して、また再生する。その作業を何度も繰り返すだけでも根気がいります。

 

 そして、いったん文字にした後が大変です。話し言葉をそのまま文字にしているだけなので、主語がなかったり、「えぇ~と・・」などというムダな言葉も入っています。そのままだと、何を話しているのか意味が伝わりません。読む人が読んでわかるように言葉を足したり削ったりしなくてはいけないのです。慣れないわたしにはかなり難しい仕事でした。とても片手間でできる作業ではないと痛感しました。

 

 ですから、余談ですが、いま新聞や雑誌などで談話を文章化した記事を読むときは、いつも、スゴイ! と思いながら、敬意をこめて読んでいます。

 

 ところで、冒頭のような失敗をやらかしたり、ともかく未熟で頼りないそんなわたしでしたが、1981年の年末に「シネ・フロント」社が株式会社になるときの「発起人」の一人になりました。と言っても、わたしは新参者ですので、「発起人」といってもほんの名ばかりです。

 

 そもそも「シネ・フロント」は1976年に映画鑑賞団体全国連絡会議(全国映連)の機関誌として発足した雑誌です。その発行母体を映連から切り離して会社化し、「広範な映画人、映画愛好家に愛され、民主的なジャーナリズムとして発展させていく」ことが念願だったのです。

 

 そうした中で、1978年、1979年、1980年、そして1981年と、わたしも、熱心な一人の読者として、また、編集長のセンスのファンとして雑誌を購読し、批評活動に参加させていただいてきたのでした。

 

 しかしながら、不運にも、残念なことに、1982年に入ってしばらくしてわたしは過労で倒れてしまいました。

 

 しばらく静養して回復しましたが、「編集室員」は辞退させていただくことになりました。

 

 もちろん、映画はその後、定年後のいまもずっと、見続けております。

 

 また、ありがたいことに、40数年たったいまも、当時編集室員だったころに肩をならべた友人とは年賀状を交換しあい、映画や本の情報などを文通するなどしてお付き合いさせていただいております。

          

                    ※

 

映画 『シュンマオ物語タオタオ』

  劇場公開 1981年12月 配給:松竹

    【解説】 『男はつらいよ』シリーズの山田洋次原案・監修による初の日中合作長編アニメーション。

          脚本は高橋健、田中康義、監督は島村達雄が担当している。声の出演:大竹しのぶ・倍賞千恵子ほか。

 

 『シュンマオ物語タオタオ』は山田洋次=原案・監修による日中合作の感動的なアニメーション映画である。

 中国の山奥で生まれ育ったパンダ(中国名=シュンマオ)・タオタオ(声・大竹しのぶ)が優しい母親とともに、美しい自然やいろんな動物の仲間たちと平和に楽しく暮らしていた。そこに人間たちがやって来て・・・・・。

 

 生け捕りにされたタオタオは海を渡り、ヨーロッパの動物園に送られてしまった。

 

 この日本でも、やれ珍獣だ、かわいい、とパンダブームが巻き起こって、やがて十年。実際、その人気は凄いものだった。確かに珍獣だし、かわいい。しかし、山田監督はそのパンダに深い哀しみの影を見た。

 

 成る程、おりに入れられたパンダにも故郷があり、母親や仲間たちがいて、そしてタオタオのように恋人もいたに違いない。それだけに、たとえどんなに人びとからかわいがられ大切にされようとも、故郷を遠く離れている「 タオタオは幸福になれるはずがない」という作者の思いが、ひしと伝わってくるのである。

 

 そのごのタオタオはどうなったのだろうか。

 

 飼育係のやさしいメアリーさん(声・倍賞千恵子)とその婚約者のジョージさんはタオタオの良き理解者であった。タオタオは故郷に帰りたいという想いを抱きながらも、動物園の暮らしに慣れていく。芸も覚えるようになり、人気が集中した。ネズミのチュウチュウたちとも仲良しになる。

 

 しかし、ある冬の雪の降った日、メアリーさんが雪遊びをさせるためにおりの外へ出してくれた機会をとらえて、故郷のことを想いだしたタオタオは、ついに動物園の塀を乗り越えて、街へ走り出た―。

 

 都市の混乱。猛スピードで走りぬける地下鉄。ゆけどもゆけども出口のない袋小路の街角。それらは、まさしく現代日本に通じる光景である。タオタオが必死になって駆けぬける姿を追っていくうちに、めまぐるしく、今にも息苦しくなりそうな「現代」がよみがえってくるようだ。

 

 そこに批評の眼を感じた。それはアニメの画調にも表れていて、前半の、故郷で平和に過ごしていた時代はまるで絵本の絵のようであったが、それとはまったく対照的にヨーロッパに連れてこられてからの絵はその文明の特徴をとらえたイラスト感覚にあふれたものだった。

 

 さて、タオタオはやっとの思いで港に出るが、そこから先は大海原が広がるだけ。再び動物園に連れ戻されたタオタオは望みを断たれ、急に年老いたようになる。

 

やがて第二次世界大戦が始まり、ジョージさんが戦死した。動物園にも空襲があった。ネズミのチュウチュウも空襲で家族を失ってしまう。メアリーさんは婚約者の戦死を電話で知った時、「やめて! ジョージを殺した戦争なんてやめて」と叫ぶ―。

 

 この物語の時代と舞台は、一九三〇年代から第二次世界大戦前後のヨーロッパになっている。けれども、見ていて感ずることは、現代のわたしたちの日本における状況にぴったりの話しではないのかということだ。右傾化の波が強く押し寄せている今日、それだけに平和と自由への道が強くもとめられているなかにあって、タオタオの運命が語りかけて来るものは一体何だろう、と自問してみる。

 

 それはきっと、タオタオがもとめてやまなかった自由の尊さであろうし、そしてメアリーさんの恋人を奪った戦争に対置される、平和の尊さなのであろう。その意味ではまさしく戦争反対を内に秘めた哀しくも美しいアニメだと思った。

 

 力尽きたタオタオはやがて最後に「 そうさぼくは今、母さんの胸の中にいるんだ」とつぶやきながら故郷を夢見、死んでゆくが、そのタオタオの望郷の念と自由へのあこがれをあんなに優しいメアリーさんが、理解しえなかったところに哀しさをいっそう深く感じさせた。

           ―「シネ・フロント」1982年1月号より―

 

       ※以下(来週以降)1982年に載った記事を、Ⅴ‐2、Ⅴ‐3、終り、という形でご紹介します。