§2 私はどのようにして私になったのか

 

     (前項まで:①三世代を経て「確立」した精神科医・なだいなだ家の《自分》②《自分》がない人)

 

③いつも「自分がある」とは言い切れない私

 

 私は、自分がある人間か、自分がない人間かと考えると、ある人間だと思う。

 

 しかし、いついかなるときにも自分があるかとなると、はなはだ疑問である。というより、自信がない。

 

 ちなみに、自分があるとは、他者やまわりの環境に依存しきったり支配されたりしないで、経済的に自立していたうえで、自分の意のままに振る舞うことができるという意味である。

 

  では、どういうときに私が、自分があるということに自信がもてなくなるかというと、たとえば、職場で、「夕方5時になったら帰ろう」とその日は朝の段階でそう思っていたにも関わらず、いざ5時になると、まわりをキョロキョロ見渡すことだ。

 

 残ってやるような仕事はとくにはない。また、誰からも残ってやるような仕事を命令されたり、指示もされていない。そもそも直接の上司などはおらず、仕事は年間を通してほぼ同じ内容のことを、自分でスケジュールを組んで行っている。

 

 したがって、その日は5時に帰ろうと思えば、誰にはばかることなく仕事場をあとにすることができる。もちろん、就業規則に、始業は朝9時、終業は夕方5時、と明記されている。経営陣も超過勤務手当の経費削減のためにできるだけ残業は減らすようにと言っている。

 

 つまり、5時に席を立ち、「それじゃあ、お先に~」と帰るからといって誰も咎める者はいない。それなのに私は、キョロキョロあたりの動静をうかがうのである。

 

 そんなとき、「お~し!」と気を強くさせるのは、誰かが自分よりも先にタイムカードを押して帰るそのときである。

 

 なんのことはない、私は誰かに引っ張られるようにして(あるいは後を押されるような形で)、私も席を立ち、帰るのだ。

 

 これではたして本当に私は「自分がある」と言えるのか? と思うのである。

 

 また、次のようなときも、「自分がある」ことに対しての自信がぐらつく。それは、自分が所属する組織(勤め先や地域の自治会など)の中で、組織の上に立つ人々から自分の考えと違うことを言われ、その違う考えに従わさせられたり、自分が支配されそうになったときだ。

 

 たとえば、やはり職場で、「みなさんの給料は世間に較べて高すぎますので、来月から下げます」と、言われた場合のときである。

 

 そのとき、その場に、自分と同じ考えの他の誰かやグループがいて、反対意見を述べたり、行動を起こしたりすれば、彼らと自分も一緒だということで、彼らと一体感があるからさほど苦痛ではない。

 

 問題なのは、反対を表明するその場に私ひとりしか居合わせないときだ。相手の論理(言い分)は、私の考えと違う。そして、私の利益を損なう。とはいえ、相手の論理も「筋」が通っている。しかも、雇用者だけに力を感じさせる。

 

 しがたって、私は弱腰になる。きちんとした反論ができないのではないか、強硬に反対すれば、あとで不利益を受けるのではないかと気がすくむ。このまま、この場はやりすごして後で他の人々と一緒にやればいいのではないか、心が乱れるのである。

 

 という具合に、私は、いついかなるときにも、「自分がある」とは言い切れない。

 

 しかし、考えてみると、それが「普通」なのかもしれないと思えなくもない。

 

 たとえば、「郷に入っては郷に従う」ということわざがあるが、その住むところの風俗や習慣に従うのが処世の法であるということをさとしている。振り返ってみたら、私もそれに倣って、新しい環境に入るときは、最初は勝手がわからないので、周りの人の言うことを「ハイハイ」と聞いている。そのとき「自分がある」かといえば、たぶんないに等しい状態だろうと思うのだ。

 

 また、誰かとある人の悪口を言っていたのに、そのある人と二人だけになったときに、その人のことを誉めたりすることはあることである。

 

 悪口を言っていたのも、誉めていたのも、同じこの自分である。

 

 本当に「自分がある」のであれば、ある人に対する評価がそう極端であることはあり得ないはずだと思うが、いかんせん私のような凡人にはままそうしたことが起きる(た)のである。

 

 (居酒屋で同僚とさんざん悪口を言った相手に、翌日ケロッとして、何事もなかったかのような顔して冗談いって笑ってたなあぁ・・)

 

 と、ここまで書いてくると、冒頭、「自分がある人間だと思う」と書いていたが、どの面下げて思っていたのだと反省せざるをえない。

 

 そして、おしまいに、こんなことも想像する。

 

 仮に私が国家権力に長期間拘束され、外部との面接や交信を遮断されたときに、それまでの自分の信条をずっと維持できるかどうか、つまりそれまでの「自分がある」状態を維持できるだろうか。

 

 拘束を解かれるのと引き換えに、「自分がある」状態を明け渡してしまったりはしないだろうか。

 

 と、そのようなことを考えると・・・いついかなるときも、「自分がある」とは、そう簡単には言い切れないと思うのである。