§1 自己愛はあるが”自己チュー”ではない私?

 

⓭自己愛と社会的関心について

 

 それにしてもなぜ自己愛についてこだわってきたかというと、私に放たれた妻の「 あなたは自己中心的」の一言だった。

 

 ふだんは減らず口をたたくのはお手の物の私だったが、どういうわけかこの時ばかりは、一瞬、(ギクッ、、)となり言い返せなかった。

 

 今となっては悔しい限りだが、多分その時は(・・しまった図星〈急所〉をつかれたか?)と思い言い返すのをひるんでしまったようだ。

 

 しかし、今は仮に同じことをいわれてもひるまないで「・・そういうあなたはどうなんですか?」とやんわり言おうと思っている。

 

 なぜなら、先のコフート先生がのたまったという「人間には多かれ少なかれジコチュー的なところがあり、それを認めてあげてもいいんだ」というのを知り、少し勇気を得た気がするからである。

 

 つまり、人は程度の差はあれ、自己中心的だし、神様じゃあるまいしそれがむしろ人間だということが”わかった”からだ。

 

 それはそうと、私に放たれた「自己中心的」というヒナンがどうして自己愛にゆきついたかというと、自己中心的という言葉から連想される「ひとり」が好きな私と、「自己愛」は、何らかの関係があるのだろうかと問題意識を持ったからだ。

 

 それで自己愛とは何ぞや? となり調べはじめたというわけだが、そうは言うものの〈§1‐10〉で述べたように、ふだん自己愛という言葉を口にすることにはためらいがあった。

 

  それはナルキッソス神話をはじめ自己愛という言葉には、どこかしら私を不安にさせるものがあったからだ。

 

 今あらためて思うと、「あの人は自己愛が強そうだ」と眉をひそめがちにする一方で、そのくせ実は自分こそ「自分がかわいい」ガチガチな自己愛者ではないかと内心恐れているところがあったからである。

 

 また、愛の正しい形は他者にこそ向けられるべきものと思っていたのも一つの理由だったかもしれない。

 

 しかし、ともかく自己愛について調べた結果、私は抱いていた自己愛に関するマイナスのイメージを払拭した。

 

 そして、健全な自己愛は自己を維持し、成長させるためには大切なものであることを学んだ。

 

 自己愛、つまり、自分を愛することで、自分に自信や誇りを持つ自負心が生まれると思うが、そうしたものがあればこそ、

試験勉強をするとか、仕事の技能を磨くための学校に通うなどの、長期の努力を続けるための力がわく。

 

 また、社会の中で周囲から一時的に孤立したり、不本意な状況に陥ったとしても、自暴自棄にならずに、「いつかきっといい時が来る」と希望を持って生きることができる気がする。

 

 その意味で、自己愛は、人を厳しい環境に耐えさせ、長期の修練や努力を支える大きな力になるし、さらに言えば、自己愛は、個人が持てる潜在力を発揮するための跳躍台と言えるだろう。

 

 『満たされない自己愛―現代人の心理と対人葛藤』(ちくま新書2003年)の著者 大渕憲一氏は本の中で、

自己愛の重要性を語っているE・フロムの言葉を紹介している。

 

 「自分を愛することができない人が、どうして人を愛することができようか」

 

 (自分を愛するということは)「自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定すること」

 

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 つまり、自分を肯定し、人生を楽しむことができる人は、他者を愛することができるし、同時に自分自身を愛することができるということのようだ。

 

 さて、手にした大渕氏の本は、自己愛と社会的関心という点で、問題を提出している。

 

 氏が言うには、ゲーテの『ファウスト』という物語は、現代人に、「人は、自分自身のためだけでなく、何らかの意味で人の役に立つ有意義な生き方をしてこそ自分も心からの満足を得ることができるのではなかろうか」というメッセージを伝えているという。

 

 個人主義の現代社会の中で、「自己にとらわれて」、(多分きっと)「利己的」な暮らしをしている私には、かなり、耳が痛く、

何べんも聞いていると「鼓膜が破れそうな」、話である。

 

 ただ、大渕氏によれば、「自己愛と社会的関心は両立する」というから、

少なくても社会への関心は今後も持ち続けていこうと思う。

 

 ※今回で§1は終わりとし次回から「§2 私はどのようにして私になったのか」をはじめる予定です。

   お読みいただきありがとうございました