映画 『青春の門』

  劇場公開:1981年1月 配給:東映

  【解説】過去に東宝で『キューポラのある街』の浦山桐郎監督によって二作

      〈『青春の門』(1975年)『青春の門 自立篇』(1977年)が映画化されている

      五木寛之の同名の小説を映画化したもので、北九州の筑豊を舞台に主人公の

      青年が青春の門の扉を開くまでを描く。『象物語』の蔵原惟善と『仁義なき戦い』

      シリーズ『蒲田行進曲』などの深作欣二が共同で監督している。出演は東映には

      はじめてになる松竹の松坂慶子の他、菅原文太・佐藤浩市・杉田かおるなど。

 

       青春の門

    痛恨の情に欠けたヤクザ映画型

 

 六年前、浦山桐郎監督によって映画化された『青春の門』筑豊篇は大きな感動を生んだ。

 

 映画を見た当時、青春時代のさ中にいた私は、ラスト、伊吹信介がオートバイに乗り、未知の世界に旅立つ姿に、十代の後半、不安と期待のいりまじるなか故郷と親もとを離れて東京へと向かった自分の体験とをだぶらせていた。

 

 そして、その後、生きがいを模索しつつ、山あり谷あり青春時代に突入するまでに至る自己の形成過程

古いものの否定や種々の葛藤をへて、ひとが新しい人生へと殻を突き破っていくことの痛恨と意義を、確認させられたように思う。

 

 その感銘が深いだけに、今度、東映で映画化された作品は、否応なしに前作との比較において鑑賞せざるをえなかった。

 

 その結果は、前作を越えられなかったばかりか、これまでの主人公のバイタリティー溢れた個性から反転して、

すでに挫折の入口にたたされた主人公像に変質した印象を受けた。

 

 監督や俳優が変われば、リメークされた場合違いが出るのは当然だし、その点、深作監督のアクション演出が、

東映作品であることの確認を与え、映像美を追求する蔵原監督の冴えが随所に見られる。

 

 だが、問題は、原作の骨太なストーリーに支えられそれらアクションと映像美を築きながらも、

つまるところ、いろんな経験を経ながら〈青春の門〉へふみこもうとする主人公・信介の内的風景が見えてこないことにある。

 

 前作の場合信介は、〈青春の門〉の入口を通過するまでの間、育ての母親、タエの豊かな愛情もふくめてすべての存在と桎梏をたちきることで、そこから充電したエネルギーを糧に、未知の世界へ挑んでいこうとする輝きに満ちていた。

 

 例えば、そこでは父・重蔵とそのライバル・竜五郎の生きた〈川筋気質〉と呼ばれる任侠的な環境が、豪快な面として信介に継がれる。

しかし、戦後民主主義がほうはいと起こる時代の中で、やがて信介は父の時代と人生を古いものとしてのり越えていく。

 

 だが今回の作品において、その世界はそのままであり、何ら批判的にこえられていく対象になっていない。

 

 そればかりか、驚くべきことに朝鮮人の活動家・金朱烈が、炭鉱に働くものにピストルを向け逃亡し、その後、竜五郎と対決しピストルをぶっ放すヤクザな男に描かれる。

 

 後半のそのドラマを通じて、暴力と暴力の対決という構図をとりながらその枠の中に〈民主主義の正体〉を閉じ込めようというムードが気になった。

 

 「みんなやさしい人ばかりだが息苦しか」と信介はタエに言い、東京へ立つ。

 

 だが、それは信介を育んだ回りの大人たちの優しさを包みこんだ上でのことでなく、母や織江やさきほどのような形の金との空しい別れが起因になっている。

 

 そのことが信介の〈青春の門〉への出発に影を落としたのではなかろうか。

                                     -「シネ、フロント」1981年2月号よりー

 

映画 『ある結婚の風景』

  劇場公開:1981年3月 配給:エキプ・ド・シネマ

  【解説】結婚して十年になる幸福そうで理想的に見えた夫婦に暗雲がたちこめるー。

      1974年に製作されたスウェーデンの映画。監督は巨匠イングマ―ル・ベルイマン。

      出演はリブ・ウルマン他。

 

      ある結婚の風景

   ベルイマンのものすごい演出力

 

 この映画は、『沈黙』『野いちご』などで知られるスウェーデンの映画作家、イングマール・ベルイマンが、最初、スウェーデン国営放送のために企画・製作して大きな反響を呼んだといわれる全五時間のTVシリーズを、セリフなどに手直しを加えて、二時間四十八分の劇場用に再編集した作品ということである。

 

 これまでベルイマンの映画といえば、宗教や神の問題をテーマにした、何となく難解な映画という印象をもっていたが、これは題材とテーマが日常的なもののせいか、とてもわかりやすい。舞台演出家でもあるというベルイマンらしく、シークエンスの少ない、いわば舞台劇的な映画である。クローズ・アップがふんだんに駆使され、ダイアローグが凄まじくぶつかる。そのことによって長丁場を飽きさせずに運びこんでいくベルイマンの演出力はすごいものだ。

 

 結婚して十年になるというヨハン(42)とマリアンヌ(35)。二人は、ヨハンが応用心理学研究所の助教授、マリアンヌが親族法・民法を専門にする弁護士のインテリ中年夫婦で、二人の子供がある。その子供たちは、冒頭ほんのわずか顔を見せるだけで、あとはこの一組の夫婦のドラマが精妙に、力強く、そして魅惑的に展開されていく。

 

 二人は、これまでの結婚生活においてこれといった大きなトラブルもなく、自他ともに認める理想的な夫婦として文字通りなごやかで幸福そうな日々を過ごしているかに見えた。

 

 だが、その結婚生活の風景にやがて暗雲がたちこめ、嵐がおとずれる。事の起こりは、二人の親友夫婦があるパーティーの席上激しくいがみ、憎しみ合う場面に遭遇することによって、満ち足りた関係と思われていたヨハンとマリアンヌの内面の齟齬(そご)が照射されはじめ、以後、その振幅が拡大されていく。

 

 その夜の客が帰った後、ヨハンは「 二人の人間が一生暮らすのは不合理だ」ともらし、一方マリアンヌは「話し合えば何でも解決できる」と、かみあわない。

 

 だが、この夫婦の間に交わされる会話は洗練されているうえに、とても豊富なのだ。その量と質がないまぜになってピッチをあげていくにつれて逆に、事態は空疎な深みにはまっていく。それは、ヨハンに四年ごしの恋人がいて、その彼女と一緒になりたいという告白をマリアンヌが受けることによって、いよいよ決定的になる。

 

 そして圧巻は、傷心をを回復し離婚の決意に立ったマリアンヌと、一方立場が逆転して失意の淵にたたされたヨハンが後半、これまでの結婚生活に思いのたけをぶつけるくだりだ。

 

 心理学と民法、ともに人間関係を専門に追求していた二人が肝心の自分たちの足元をすくわれていくという軽いアイロニーが、作品を、濃密でシリアスな人間関係を描いただけのものでなく、面白みも加味されたものに仕上げているように思えた。一九七四年度作品。

                                -「シネ・フロント」1981年3月号よりー

         二作品とも一部を改訂して再録しました。