§1 自己愛はあるが”自己チュー”ではない私?

 

⓫自己愛に関する二つの考え方

 

 前項ではふだん自己愛(ナルシシズム)ということばを私が口にしないのは、それが精神分析の用語のためになじみがないせいなのと、

ことばの由来であるナルキッソスの神話の悲劇が、心理的なにブレーキになっているのでは? と述べた。

 

 同時に、ナルキッソスの神話が表している「自分を愛する」心理は、まぎれもなく私の内にもある。そして若いころには自覚こそしていなかったが”うぬぼれや”(ナルシスト)的な時期もあったようだったと告白した。

 

 そんななか、手にした『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析―コフート心理学入門』(PHP新書 2002年)の中で著者 和田秀樹氏(精神科医)は次のような意味のことを書いている。

 

 ― 「ナルシシズムとか自己愛、つまり自分がかわいい心理は、いわれてみればあたりまえのこと」で、日本語にはナルシシズムに近いことばに「自惚れ」というのが古くからあるし、「釈迦も『人間にとってもっともかわいいのは自分である』と言っている。

 

 ところがその一方で、西洋において(新しく生まれたばかりの)ナルシシズムという概念は、

 

キリスト教の文化にある「愛他主義」(利他主義。他人の幸福や利益を第一にする考え方。キリスト教の隣人愛など)的な心理や、

 

「左の頬をぶたれたら右の頬を出せ」という言葉もあるような環境のせいなのか、これまで、「以外にまな板に上がることがなかった」

 

 ―と。

 

 そうした中で新しく登場した、ナルシシズムということばに、精神分析的な定義を与えて論文(1905年)にしたのがフロイト【オーストリアの精神医学者。1856~1939】であった。

 

 どう定義したのか。

 

 フロイトと言えば、解説した本などでよく目にするリピドー(ある種のエネルギーのこと)だが、

 

そのリピドーが「 本来は対象、つまり相手に向かうはず」なのに、「自分に対して向かう状態のこと」がナルシシズムである

 

 ― というのだ。

 

 実際の内容は複雑らしいが、その(私が関心のある)ポイントを、先の本をもとに、ごく簡単に私なりにまとめると次のようになろうか。

 

 (※ただし、なにせ、にわか勉強のため生半可な理解によるものなので、まゆつば物〈だまされる心配のあるもの。真偽の疑わしいこと〉として、

  読み飛ばして〈熟読せず速く読む〉いただくことを、心中より希望せり)

 

 フロイトは、人の愛の発達段階を三つの面でとらえていた。自体愛、自己愛、対象愛の三つである。

 

 そしてその中の、自己愛の段階から他者に対する対象愛に向かうのが人間の心の健全な発達、健全な愛である。

 

 したがって、自己愛はそこにいたる前段階にすぎない。

 

 最初の自体愛は、例のリピドーが自己の身体に向けられるもので、乳児における指しゃぶりなどがそれにあたるという。

もちろんそれは、自己愛、対象愛と比べるとはるかにレベルの低い未成熟なものである。

 

 対象愛は、リピドーが、相手、つまり対象に向かっていくものである。子供時代には父親や母親がその対象であり、青年期以降の愛の対象は異性などへと変わっていく。

 

 さて、そのように、人間の発達の一過程として自己愛が生じるというわけだが、

そこで終わってしまっては「 対象愛こそが健全」と考えるフロイトにとっては、もちろんダメである。

 

 なぜなら、そこで終わってしまうと他人とのまともな人間関係がもてない。

場合によっては自分にばかりリピドーがいき、妄想が膨らむなどして病んでしまいかねないというのだ。

 

 また、ケースとしては、対象愛に移行したにもかかわらず、愛する対象に拒否されて傷つき、苦痛な感情から身を守るために退行し、

自己愛に閉じこもろうとするナルシシズムもあるという。

 

 いずれにしても、フロイトは対象愛をゴールと考えていたから、自己愛の心理は、「発達途上の克服されるべき一段階」であるとみなしていたようだ。

 

 しかし、こうした考え方と異なる考えを提唱したのがアメリカの精神分析家のハインツ・コフート【1913~1981】であった。

 

 「人間は多かれ少なかれ自分を愛する気持ちを持っている」ものだし、「それは人間にとって必要なことである」

と主張していたというコフートは、フロイトが精神の発達を「自己愛から対象愛への移行」と考えたのに対し、

「両者はともに平行して発達する」ものであると考えたのだ。

 

 したがって、成熟した対象愛にいきついた人のうちにも自己愛があると主張したのである。

 

 つまり、自己愛と対象愛は二者択一的なものではなく、両立すると考えたというわけである。

 

 (たとえはよくないかもしれないが、威勢のいい魚屋のお兄さんが、出世魚と呼ばれるブリだけが上等でなく、「やいやい、なに言ってんだい、イナダやワラサやハマチだって上等だよ」と言っている様子が目にうかぶ。本にはもちろん書かれてないが、、)

 

 フロイトの理論では、自己愛は発達の一過程であった。しかし、コフートのそれは、自体愛から自己愛になり、やがて対象愛になる発達ラインばかりでなく、自体愛から自己愛、しかもそれが高度な形のもの、あるいは成熟した形のものになるという発達ラインもあると主張したのだ。

 

 高度な形の自己愛はどいうものかというと、芸術的、創造的なエネルギー(リピドー)が自分に向けられて生まれるクリエイティブな能力のようなものだという。

 

 また、成熟した形の自己愛は、いわば、「ギブ・アンド・テイク」の関係であるらしい。

 

 たとえば、仮に「愛されたい」と思ったら、一方的に愛されるのではなく、「自分も何かをやって愛してもらう」。

 つまり、こちらの気持ち、相手の気持ちが「共感できる関係」になること、ギブ・アンド・テイクができることが、成熟した形の自己愛なんだというのである。

 

 (・・自分は何もしないで、相手に貢がせるだけの男性とか、‥自分は何もしないで「こんなきれいな私と一緒にいられるだけ幸せでしょう」という女性というのではなく、お互いがそれぞれの心理的ニーズを満たし合う関係が望まれるということのようだ)

 

 ともかく、コフートは、「一方的に愛してもらおうとする自己愛はありうる」けれども、「なんの見返りも求めないでまったく対象だけを愛するという心はあり得ない」と考えていたようだが、

 

 対象愛こそが健全な愛で、ゴールと考えていたフロイトとはずいぶん違う考え方をしていたようだ。

 

 柄にもなく、成り行きで、愛がどうしたこうしたという話がでてきてしまったが、

 

コフートが、なにはともあれ、自己愛は、「人間としてあたりまえのこと」と認めていることが嬉しい。