§1‐9 自己愛はあるが「自己チュー」ではない私?
❾「自己中心性」はどこまでいっても残る
今の世の中、子供も大人も「自分さえよければいい」という自己中心的な人が増えているというが私はすべての人が
そういう人ばかりだとは思っていない。
自分は十分な食事がとれなくても(・・ときには食べなくても)、子供にだけは、腹いっぱい食べさせたいと思う母親だっているだろう。
また、家族をかかえる従業員のことを考えて、自分の給料を減らしたり、遅らせたりする中小企業の経営者だっているという話もある。
さらに、地震や台風・大雨で被害を被った人々のところへボランティア活動にかけつける人だって大勢いるからだ。
そういう中で、そうした人々ほどの自己犠牲的なものはないにしろ、この私自身、「自分さえよければいい」人間だとは思っていない。
常に自分が世界の中心にいて、自分にしか関心がなく、他人や相手が何をどう思い、どう考えているのかあまり気にしない人ー などを
かりに、「自己中心的」な人の特徴だとすれば、私はそうではないと思っているからだ。
たとえば、電車の席に座っていて、私の前に、気分が悪そうな人や、赤ちゃんを抱っこした母親が立っていたら、私は迷わず席をゆずる。
立っている人が高齢者の場合は(いまでは私もだが)、「どうぞ・・」と立っても、「・・(いえいえ、譲られるほどまだ老人ではありませんとばかりに)」 黙って手を小さく左右に振って固辞されることがあるから、すぐに立ち上がることはしない。
嫌な気持ちにさせたら悪いと思うからで(相手のことを考えてのことで)ある。
また、その日の、世の中の動きや出来事を知らせる(すべてを知るのは無理だが)テレビのニュースは、欠かさず見るようにしている。
たんに、何があったということだけでなく、世の中の動きや出来事に伴う、人の”思い”や、”心” を知る、よすがにもなるからだ。
しかしながら、確かにその程度には自己中心的ではないかもしれないが、そんな私も、「自分さえよければいい」という世の中の一員である以上、そうした「自己中心的」な面と完全に無縁(関係がないこと)であるとは言い切れないという気もどこかにある。
くり返しになるが、私は「自分さえよければいい」とは思っていない。むしろ、自分も他者もよかれ(よくあってくれ。うまくいってくれ)と思っている。時には、自分が”損”をしても、多少(少しの)ことは目をつぶったことも何度かあったほどだ。
しかし、若かったころに比べると今は、自分のことが先である、という考え方にあまり躊躇(ぐずぐずする。ためらう) しなくなった気がする。
若かったころは― 学生運動が盛んで、運動をすれば社会が変革できるのではないかと多くの者が信じていた1970年代ー 私も
「万人が幸せになる」社会の実現のためならば、自己犠牲的な活動をすることも厭わない”活動家”であった。
だが今ではそうしたかつてのような情熱はしぼんでしまった。
選挙になれば、「社会をよくし、みんなが幸せになる政治」を公約に掲げる政党や候補者に投票するが、しかしそうした政治は、夢のまた夢で、自分の身を守るのは、結局はこの私自身なのだという気持ちに今は、、なっている。
また、若かった当時は、”マイホーム主義”を心のどこかで軽蔑していた。しかし、今ではそのマイホームで、半ば”隠遁”的な暮らしをしつつ、社会を”眺めている”自分がいる。
そういうわけで、私は「自分さえよければいい」という人間だとは思ってはいないといえ、それは、決して、押すに押されぬ(びくともしない、れっきとした)ものではないとということを、正直に認めなくてはいけないだろう。
つまり、「自分さえよければいい」わけではないが、同時に、なにはともあれ、「まず、自分」なのだ。
しかし、弁解するわけではないが、それは、戦後の価値観の大きな流れの中で、多くの人々が個人の幸福、家族の幸福こそ最高のものだとしてそれらを求めてきた風潮に、私も逆らえなかったということだった。
そして、その「まず、自分」が、何に由来(ことの起こり)するかと、理屈(道理。あるいは、こじつけの理由)づけをすると、
これまで何度か”登場”してもらった「自己中心性」を、私自身「完全に除き去ることはできそうにない」、からである。
「生身の身体を抱えている私たちは、どんなに脱中心化を徹底しても、自分のこの身体の内側からこの人生を生きているという事実を抜 け出すことはできない。私たちは生まれ落ちた瞬間から死ぬその瞬間まで、自分の身体につきまとわれているわけで、頭の中でいくら脱中心化を徹底しようとしても限界がある」。
そう、著書 『「私」とは何か』(講談社選書メチエ)の中で述べているのは、浜田寿美男氏である。
浜田氏は、そのことをこんな例で説明する。
ー 仮に、他者が自分を見ているとする。
そのとき自分はどう見えているだろうかと、相手の視点にたち、いわば脱中心化することによって想像することは可能である。
しかし、だからと言って、どんなに想像力を高めても、「相手が見ている通りの世界をそのまま私が経験することは決してできない」。
そのため、「いくら脱中心化しても、自分の身体の位置からこの世の中を生きる以外にないという自己中心性はどこまでいっても残る」
のだ。― と。
なるほど。言われてみればその通りだと、目からうろこである。。
しかし、だからと言って、脱中心化の努力をすることは必要ないということではないだろうし、
ましてや、「自分が世界の中心」で「おれは(わたしは)自分にしか関心がない」というのはイエロー(レッド?)カードだろう。