§1 自己愛はあるが”自己チュー”ではない私?

 

➐ジコチュウと仮想的有能感

 

 「脱中心化」ができていないジコチュウ(自己中心的)な行動をされることで以前私が腹を立てる日がしばしばあった。

 

 勤務をおえて夜帰宅するとき、私は(よその)家の塀と、(ときどきおじいさんがのんびり鍬をおろしている)畑の境界に張られた鉄線に挟まれた、人ひとりがやっと通れる小道を通らなければならない。

 

 しばしば腹を立てたわけは、塾帰りの自転車に乗った小学生らがその暗がりの小道を、私がこちらで足を止めて待って(やっている)にもかかわらず、自転車に乗ったまま、黙って、我が物顔(ここは自分の領域だという顔つきや態度)で通り抜けていくことだった。

 

 (どうも・・スミマ、セ~ン・・とかなんとか言いながら通るなら全然平気である。私も誰か向こうで止まって待っていてくれる人がいたら、そう言いながら通ることがあるからだ。それなのに、やつらときたら、ニャロメ、、なのだ)

 

 あいにく、道の真ん中で行き交うことになっても、彼らはぜったいに自転車を降りようとしない。

 

 ぶつかると(当然ながら)危ないので、私は仕方なく立ち止まる。そして体を畑のほうにそらして(イナバウアー)、彼らをやり過ごす。

 (ちくしょう、書いているうちに思い出して、まただんだん腹が立ってきた・・)

 

 このような傍若無人な振る舞いは、形を変えて日々、いたるところで多くの人が遭遇していることなのかもしれない。 

 (〈§1‐6〉の最後で紹介したような、自己中心的な行動によって起きたとみられる事件が頻発しているからだ)

 

 さて、そうした中、『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書・2006年)の中で、速水敏彦氏は昔の若者と、最近(13、4年前)の若者を比較してこう述べている。

 

 昔の若者は、「父親や先生などの権威ある他者からさまざま行動の制限を受けて」きて、「それを破ることが大きな罰に繋がるという意識が内面化され」た。

 

 その結果、「一定の年齢になれば自分を監視する目を自分自身の中に強く意識するように」なった。そして、「他者の目が気になった」。

 

 しかし、「最近の若者は関心が自分だけに集中し、社会や他者への関心はきわめて薄い。まずもって自分の欲求を充足させることだけで頭がいっぱいで、他人が自分の行為をどう受け止めているかに、思いを巡らすことができない」。

 

 そうしたことが背景にあって、最近の若者の社会的迷惑行為が生まれるのではないかというのである。

 

 また速水氏は最近の若者は他者への関心が薄いということだけではなく、他者を軽蔑し、見下す傾向があるという。

 

 こうした、他者を軽蔑したり、見下すということでも昔と今の若者とでは違うようだ。

 

 確かに、昔の若者も、理想主義やエリート意識から他者や一般市民を見下したり、蔑視することはあった。

 

 しかしながら「現在の若者は一般に、内心自身を喪失しており、一種の防衛機制として他者を軽視することで自信を取り戻そうとしている」。

 (ちなみに「内心」は、心のうち。「防衛機制」は、不安・葛藤の情況や欲求不満に直面したとき、自我を守ろうとして無意識にとる適応の仕方。)

 

 少子化のなか、確かに子どもの頃はちやほやされたかもしれない。だが、簡単には「賞賛や承認が得られなくなる」と、

彼らはその「不満を解消するために、無意識のうちに『自分より下』の存在を探し求め」る。

 

 そして、それを「徹底的にうち砕くことによって」、「委縮した自尊感情を回復」させているのではないかというのだ。

 

 しかし、他者を見下す風潮はなにも若者に限ったことではないと速水氏はこう述べる。

 

 「現代の日本人は、自由な社会を当たり前のこととして、誰もが横行闊歩(おうこうかっぽ・人に遠慮せず、威張って歩く。傍若無人に振る舞う)しているように見える。その自由さは、利己主義を強め、『ジコチュウ』という言葉も生まれた。

 

 これが高じれば、人は自分の立場ばかりを見て、他人の立場を見なくなる。

つまり以前に較べて、人々は他人を見下し、他者軽視・軽蔑をいとも簡単にするようになる」。

 

 そうした背景にあると速水氏が考えている仮説(一般に、ある事柄を理由づけるための仮の見解)は、「仮想的有能感」というものである。

 

 「ホンモノの自己肯定感」は、「長い年月をかけて本人の努力の結果として獲得したもの」である。

 

 いっぽう反対に、その仮想的有能感は、「過去の実績や経験に基づくことなく、他者の能力を低く見積もることに伴って生じる本物でない有能感」、「偽りのプライド」である。

 

 なぜそうしたものが生まれれてくるかといえば、自由な社会の中で人々が「自我を膨張させている」一方で、

「厳しい現実」のもと「夢の喪失」「自信の喪失」があるからだという。

 

 そして、その仮想的有能感こそが、「自分以外はみんなバカだと思う現代人」を生みだしているというのだ。

 

 もちろん私は「自分以外はみんなバカ」と思っている人間ではない。むしろ、欠陥だらけで、

「アイツはバカだ」と思われている組みに入る人間かもしれない。

 

 いずれにしても、他者を軽蔑したり、見下したり、「自分以外はみんなバカ」というジコチュウの背後には、ひょっとしたら、

 

「仮想的万能感」なるものがひそんでいるのではないだろうかという仮説を立てている人がいる。