§1 自己愛はあるが”自己チュー”ではない私?
❺自己中(ジコチュウ)の背後にあるもの
「『ひとり』が好きな自分」をOKとする。
ジタバタせずに、あるがままに、生きる。
自然体(時別につくろったり緊張したりすることなくありのままに・・)がいちばんだ。
しかしそれはそれでよしとしても、まだ問題が残っている。それは私にとっては、後ろめたい(気がかりで心配な)感情が伴っているものだ。
「ひとり」から連想される「自己中心的」と、さらに、「自己愛」の問題である。
〈§1‐1〉で述べた、「私は自己中心的な人間なのか?」「ナルシストと呼ばれる人間なのではないだろうか」というあの問題だ。
で、結論を先に書いてしまうと、まず「自己中心的」については、私が「自己中心的」な人間かどうかは(すぐに自分では評価を下しにくいので) ともかくとして、人はそもそも(元来)「自己中心性」(的ではなく性)とは切り離せない存在であるということだ。
つぎに「自己愛」の問題については、自己愛は誰にも多かれ少なかれ(程度の差はあっても皆一様に)あるということらしいが、度が過ぎると困った問題を引き起こすことになるということだ(自己愛については先のほうでもっと考えよう)。
さて、「自己中心的」についてだが、よく目にしたり耳にする「ジコチュウ」という言葉は、「自己中心的」のうちの「自己中」を一般には嫌がられがちな(好きでたまらない人もいる)虫(ムシ・チュウ)に引っ掛けて、自己中心的な人は周りの人に虫と同様に、嫌われたり、迷惑がられる人とイメージさせる(心に思い浮かべる)。
確かに、「ジコチュウ」な人は周りに迷惑をおよぼす。
たとえば、電車内で一人で座席をニ、三人分も占有したり、混雑している中で足を伸ばして座る人や大きなリュックを背中に背負ったまま平然とした人だ。(いずれのケースも「マナーを守りましょう」とホームの掲示板にある)
また、ホームで並んで電車を待っている人の列の横から割り込んできたり、停車している電車の窓から自分の手荷物を座席に投げ入れて座席を確保する人もいる。さらに、例を挙げればきりがないが、狭い歩道にもかかわらず、三、四人で広がって歩いてくるので、反対から歩いていく人は通りずらいというケースもある。(ちょくちょく出くわす)
そうした迷惑をおよぼす人たちの特徴は、「他者に思いが及ばない」ことである。
私たちのこの社会、さらには広くこの世界は、つまるところ、自己〈おのれ。自分〉と他者〈自分以外の者〉とそれ以外の生き物・植物や事物(様々な出来事や物)で構成されている。
そうした中、自己と他者、すなわち人間以外のその他のものに人間とおなじ「自分」があるとは思えない。
(生き物や植物にも”心”のようなものがあると感じたりはするが)
しかし、自分以外の「他者」には、私が「自分」のことを「この自分」と感ずるのと同じような、「他者」における「自分」がある(いる)。
したがって、「他者に思いが及ばない」ということは、つまりはその「他者」における「自分」に「思いが及ばない」ということだ。
そのため、自分の言葉や行為が他者における「自分」にどう受けとめられているか「思いが及ばない」のである。
ところで(それはそれとして)、「他者」にも「自分」がいると理解・想像できる人は、別の言い方をすれば、「自分」の「視点」からだけではなく、「他者」の「視点」からもモノゴトを見ることができるということである。
多くの人は成長するにつれてこの視点を獲得いていく。
しかし、成長過程にある幼児にはそれができない。
幼児の「自己中心性」に注目したのは、スイスの発達心理学者・ピアジェ(Jean Piaget 1896~1980)であった。
四、五歳くらいまでの幼児はモノゴトを「自分」の視点からしか見ることができない。
「他者」の視点が理解できないのだ。
たとえば、四歳くらいの男の子がいて、その子に弟がいるとする。かりに、兄を太郎、弟を次郎としよう。
そこで、太郎に、「キミ、きょうだいがいるかな?」とたずねると、「弟がいるよ」という答えが返ってくる。
ところが、つぎに、「それじゃ、弟の次郎くんにきょうだいはいるかな?」と聞くと「いない」という答えが返る。
つまり、太郎は、「自分」から見て弟の次郎がきょうだいだということはわかるが、弟の次郎から見たとき兄の自分がそのきょうだいになるということがわからない。「自分」の視点からはモノゴト(この場合は兄弟関係)がわかるが、「他者」の視点からは見ることができないのだ。
それが、ピアジェのいう幼児における「自己中心性」であった。
よけいなことかもしれないが、電車の中などで見聞きする「「ジコチュウ」な人々は体や顔つきは大人でもそのふるまいは幼児的といえる。
さて、このあと引き続き、「ジコチュウ」について考えてみよう。