入ったばかりの小さな職場に労働組合ができた背景には次のようなことがありました。

 

 ひとつはそれまであった「待遇の改善を求める会」の一年あまりの活動が、使用者側(理事会)に待遇改善の要求を提出しても、体(てい)よくあしらわれるなどして、「こんなんじゃなぁ・・」と会のメンバーに限界を感じさせるようになってしまったことです。

  

ふたつには、その会の活動をささえていたひとの何人かは、かつて70年安保闘争やベトナム反戦運動の集会とデモなどに参加したことのある活発なひとたちだったこと。

 

 そして決定的ともいえたことは、同じフロアのふたつ隣にあった同じ分野の学会事務局に、組合員が女性だけ四人の労働組合が産声(うぶごえ)をあげたことでした。その彼女たちのパワーが、使用者にあしらわれぱなしだった「待遇の改善を求める会」の面々に強いインパクトを与えたのです。そして、事務所が隣の隣だけに、彼女たちが破竹の勢いで賃金や一時金(ボーナス)を引き上げているその「闘い」ぶりが漏れ聞こえてくるようになったのです。

 

 「む、む、むっ・・」そのまなじりが日に日に吊り上がったのは(おそらくそうにちがいないのです、、)われらが闘士のあの”魔女”でした。

 つまり、そんなこんなの要因が絡まって、ウナギの寝床のような小さな事務所に組合員が10人にも満たない小さな組合が結成されたのです。

 

 それにしても、結成されて半年後に「完全週休二日制」が実現するに至るまでのその半年間は、実に大きなエネルギーが噴出した時期でした。まず、発足後すぐに、女性四人の組合が加盟していた同じ上部団体(組織上、上位に位置する団体)に加盟し、彼女たちの組合と連合体を結成。そして、ただちに、理事会(使用者側)あてに完全週休二日制(それまでは第一と第三の土曜は休みで二と四は午後三時まで)の実施など五項目の要求書を提出。その後は、数次にわたる団交(団体交渉)が展開されます(時には激しいやり取りも)。

 

 団交には、上部団体からと女性たちの組合から応援が来てくれました。団交が終わったら総括をし、みんなであれこれ次の戦術を練ります。また、団交のなかで生じた不明な点を、労働基準監督署へ理事と組合員で行って、明らかにしてきたこともありました。

 

 そしていよいよ山場がやってきます。膠着状態を打破すべく、職務上の「出張拒否」を宣言。臨時大会を開いて、全員の賛成でスト権(労働者がストライキを実行できる権利)が確立されます―

 いまこうしてその半年間を振り返ると、まるで嵐のようでした。

 わたしは、その嵐に吹き飛ばされまいと、みんなのうしろに懸命についていっていましたね。

 

 これまで「労働組合」と言えば、デモ行進で旗をかざし、頭に「要求貫徹!」とか「団結!」などと書かれたハチマキをした人々という印象でした。しかし、まさか、吹けば飛ぶよな”ふらり~まん”だった自分が小さな組合とはいえその一員になるとは・・夢にも思っていませんでした。

 

 組合が理事会に要求を提出したものには賃金や手当の引き上げの他にもいろいろなもがありました。

 そのひとつは、「母性保護」に関わるものでした。委員長も書記長も当時二十代の女性。しかも連合体をつくった同じフロアの彼女たちもみんな同世代だったため、その要求は切実です。

 

 そんななか、わたしは、世の男性諸氏の(たぶん)ほとんどが当時経験したことのない(であろう)経験をしました。

 それは、一年あまりにわたって、子どもを保育園に送り迎えするために一日2時間の育児時間を取得したことです。(委員長や書記長などから、「『男』たるも者、育児にたずさわらずして「階級闘争」を語ることなかれ!」などと、けしかられたり、”脅された”?(^^)/りして・・うそ、です)

 (当時としては、男性が育児時間を取るのはまれだったらしく、ラジオのFM東京が職場に取材に来て、わたしの気弱な声が電波に流れました。田舎の両親に電話でその話をしたら、地方なので「FM東京は聞けない・・」といわれました、そりゃそうだよね、、)

 

 組合が要求し、実現したものの中には、「原子力の平和利用を検討する労使協議会」を設置させたのもありました。組合員の中には「原子力は危ないぞ!」という考えに立っていた者も何人かいたからです。そこで、本来は利害が相反する労使でしたが、協議会の趣旨にそって一緒に、当時話題になっていた「原発ジプシー」(堀江邦夫著)の読書会を開いたり、太陽熱・地熱・風力などのソフトエネルギーの利用を説いた物理学者のA・Lovins氏の講演会を企画しました。

 

 正直なところ当時わたしはこの活動にあまり積極的ではありませんでした。「原子力は平和的、民主的に利用されたら安全じゃん、、」そう思っていたのです。いわゆる「安全神話」にひたっていたのです。(ちなみにこの場合の「神話」は「根拠もないのに、絶対的なものと信じられている事柄」〈広辞苑〉のことらしい、、)

 

 しかし、その頃より30年後の・・2011年3月―

 

 あの未曾有の大事故は、わたしがそれまで信じて疑わなかった「安全」の「神話」を大きくくずすこととなったのです。