仕事を転々とした後、(理系)学会事務局の職員に採用された昭和49年(1974年)は、フィリピンのルバング島から小野田元少尉が30年ぶりに日本に生還(3月)。セブン‐イレブン1号館が東京江東区の豊洲にオープン(5月)、そして「我が巨人軍は永久に不滅です」という言葉とともにミスタープロ野球長嶋茂雄が引退(10月)した年でした。

 

 映画は「エクソシスト」や「燃えよドラゴン」、本は「かもめのジョナサン」、「ノストラダムスの大予言」などが話題になり、歌は、殿様キングスの「涙の操」、小坂明子の「あなた」が大ヒットしていました。

 

 そんななか11月には子どもが生まれるということになり、これまでのような薄給のままではまずいだろうと意を決し、職員の採用試験を受けることにしたのです。

 新聞の求人欄に載っていた「職員募集」の広告には、たしか、「一般事務、俸給は公務員準拠、年次有給休暇20日、土曜月2休」とあったように記憶しています。薄給に甘んじてきた身にはこの上ない好待遇です。

 

 なにしろ、大学を出て最初に勤めたところ(腰かけのつもりでいた)は、日給(!!時給じゃなく、、)が千百円でした(記憶ちがいかと思っていましたがちがっていませんでした)。だから月に25日ほど働いて、手取りは3万円足らず。

 その後、転々とした先も、多少はアップしていたかもしれませんが薄給であることに変わりはありませんでした。(ちなみに、最近調べてみて知りましたがこの年の大卒初任給は7万5100円)

 

 ま、そういうわけで、運よくそこへ「拾ってもらった」わたしは、さいわいにも居心地のいい職場だったため、その後定年退職するまでの38年間、そこでつとめを全うさせてもらうことになりました。

 人生、行き当たりばったり、も、悪いことばかりではなかった(ない)と、いまでは思っています。

 

 38年間は山あり谷ありでした。なかでもいちばんのハイライトは、採用された次の年(1975年)の四月に労働組合が結成(正職員16名中7名・臨時職員1名・アルバイター1名)されたことです。そして、その勢いでその十月には、団体交渉や他からの支援、ストライキ権の確立を背景にして「週35時間完全週休二日制」を実現させたことでした。

 当時、「完全週休二日」がまだそれほど一般的ではないなか画期的な成果でした。

 

 組合を代表する執行委員長とその女房役の書記長は二人とも、わたしより一つ年長の同世代の女性でした。

 ふたりとも才気活発、リーダーシップをいかんなく発揮しました。

 いっぽうでわたしたち男の組合員と言えば、ふたりに「何か意見はありますか」と指されると、なにやらブツブツとノーガキだけはいつも一人前。しかし、「で、どうなの!」と詰められると、結局、あっさり、ふたりのあとをついていっていました。ただ、何かを決めるのに、いつでも、みんな対等な立場で喧々がくかく、意見をいいあっていましたね。だから、少人数の組合でも大きな力を生み出せたのかもしれません。

 

 書記長の女性は、頭の回転も舌鋒もするどく、言い争いでもしようものなら、だれも歯が立ちません。わたしも何度、地団駄をふんだことか。

 その、まるで中世のジャンヌ‐ダルクを思わせるような彼女は、事務所内での女性のお茶くみをやめさせ、喫煙を禁止させました(このころから嫌煙運動が始まっていた)。そんなこともあって、男たちは、とくに弁は立つが彼女にだけは毎回コテンパンにされるインテリ男性は、いつしか彼女のことを(畏敬の念をこめて)”魔女”と呼ぶようになっていました。

 

 今にして思えば、おりしもこの年(1975年)は、「国際婦人年」でした。男女の差別をなくし、女性が社会的な活動に参加できるようにというキャンペーンが世界各国で行われていた年です。

 そうした中、行動を起こした女性たちが、インスタント‐ラーメンのCМで流れていた「私作る人、僕食べる人」に対し、男女の役割を固定し、差別を助成するもので許せないと抗議して、そのCМを中止させたということがありました。

 

 そんな時代のなかでわたしたちの組合のリーダーたちも、子育てをしながら、輝きを放っていたのです。