日本には七十二もの季節がある。

 生きとし生けるものの息吹に満ちた暦(旧暦)はいまも暮らしに溶け込み、年中行事としてなじみの深いものも少なくない―。

 『日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―』で先ずそうしたことに驚いたわたしは本を手にして以来、座右の書にすることにしました。

 本が好きで、これまでいろんな本を買い求めてきましたが、座右の書にしたものはありません。どれもこれもちょっと読んだらすぐに次のものに手を伸ばす。そういう調子でした。

 しかし、これはいつも座る場所のかたわらに置きました。いつでも手に取って本が開けるようにするためです。そしてこう心に決めました。

 「よし・・・、一年かけて、目を通そう」。

 というのも、本は、見開き左右2ページの中で一つの候(七十二あるうちの)が紹介されている。その一つの候が該当する期間(日数)は五日間。だとすれば、つまり五日間かけてその2ページを眺めれば(読めば)いいのではないか。初めから終わりまでを急いで読み終える必要はないと考えたのです。

 ちなみに、七十二候のトップを飾る第一候(立春の初候)「東風凍を解く」(とうふうこおりをとく)は、「新暦では、およそ二月四日~八日ごろ」とあります。そのため、実際にも、その二月四日から八日の間は、2ページの中にある文と絵を味わいながら一日一日を過ごしました。

 春になり、その春風のことを(候の名にあるような)「東風」と呼ぶ理由や、「春一番」の名の由来、また旬の野菜の「蕗の薹」(ふきのとう)、旬の行事の「初午」などのことがいきいきとした絵とともに書かれていて、文と絵に目が釘づけになったものです。

 そうやって、一年をかけてページをじっくり、楽しみながら繰っていくうちに、わたしはいつしか三つの喜びを感じるようになっていました。

 一つは、初めて目にする「ことば」を知る喜びです。そのことばはあまりに多いので枚挙にいとまがありませんが、ひとつあげるとすると、「木の芽起こし」という言葉です。その意味を知ったときは「おおっ・・」となりました。

 立春の次の「節気」である「雨水」の候「草木萌え動く」(そうもくもえうごく)の時期(新暦の、およそ三月一日~四日ごろ)に降る雨のことをいうのだそうです。生命の息吹が外へ現れはじまるこの季節、「木の芽が膨らむのを助けるように降る」ことから「木の芽起こし」。「・・・ふうむ」と深くうなずきました。感動しました。その観察眼と繊細さにです。

 わたしなど外が雨だとわかると、「ちえっ雨か、いやだなあ、早く晴れないかな・・」とか、「うわっ、冷たそうな雨!、早く止んで~」と思ったり、言ったりするのが関の山。それはともかく、この時期の雨は、ほかに、「催花雨」(さいかう)とも「木の芽萌やし」(きのめもやし)ともいうらしく、知る喜び、知る楽しみは尽きません。

 二つ目は、本に載っている旬の魚や野菜、果物などをスーパーに行った折に見かけたり、また、やはり本に載っていた季節の花や鳥を散歩の途中で見かける、つまりその時季ならではものに実際の暮らしのなかで出合う喜びです。

 それもあげるときりがありませんが、ある日、散歩をしていて、思いがけない鳥に出合いました。わたしは、立ち止まって、食い入るようにその姿を見つめました。じょうびたきです。胸の色があざやかな橙色のすずめ大の鳥で、ふだんめったにお目にかかれません。

 それもそのはずで、家に戻ってさっそく本にじょうびたきが載っているページを開くと、大寒の候(新暦の、およそ一月二十五日~一月二十九日ごろ)に、「チベットや中国東北部から冬になるとやってくる渡り鳥」とありました。確かに、わたしが目撃した日にそのページに書き込んだ日付によれば、ある年は一月二十四日、またある年は二月二日で、本に書かれている飛来してくる時期と一致していました。

 そして、最後の三つ目は気づく喜びです。

 立春の候のある時期に降る雨を「木の芽起こし」の雨といった古(いにしえ)の人たちの観察眼や繊細さ。そうしたものは残念ながらわたしは持っていません。しかし、そうした観察眼や繊細で花や草木、気象などの自然の変化を見つめることの大切さに気づかされ、教わることができました。その結果、これまでよりは自然の変化や季節の移ろいに少し敏感になり、変化や移ろいに気づこうとするようになったように思います。

 先日は川沿いの土手を歩いていて、タンポポの花が地面にくっつくように咲いているを見つけました。

 それまで、タンポポといえば長い茎の上のまるい綿毛の状態のものと思っていました。絵本や実物もそれを見慣れていたためです。

 しかし、それは成長したあとの姿であり、茎は最初から花をつけたまま、地面から這い上がるかのようにしだいに春とともに長くなっていくようだと気づいたです。驚きました。