一日や一週間、そして一ケ月や一年があっという間なら、過ぎゆく一日一日をゆったりと見直してみよう。そして、二度と戻ることのない「今日」というかけがえのない一日に意識を集め、ちょっとだけでもその一日に彩りを添えていこう。

 そうすれば時の流れを少しは緩やかにできるのではないだろうか―。

 そうした思いがきっかけとなって部屋に掛けるようになったのが(「旧暦」情報も載った)日めくりカレンダーでした。日めくりの紙には、まさにその日の数字が大きく「今日はよそ見などしないでワタシだけを見てて♡、♡!」と言わんばかりにその日一日、くっきりと浮かび上がっているからです。しかしながら、その日めくりカレンダーを日がな一日じっと眺めているだけでは、むろん時は無為に流れ去っていくばかり。ましてや、その日一日に「彩り」を添えることはできません。

 わたしがイメージする、その日に「彩りを添える」は、その日に「おもしろみや変化を求めてちょっとした工夫を凝らす」ことです。

 といっても大げさにはしたくありません。たとえば、その日の晩ご飯のおかずが秋刀魚(さんま)だとして、わたしはただ焼いただけのものでも十分満足できます。しかし、ほんの少し手間はかかりますが、塩焼きにしたうえ大根をすりおろして皿に添え、身にレモンの汁と醤油を少しかけるだけで、その塩焼きは見た目も味もグンと引き立つことはいうまでもありません。

 また、その日の日記もあくる日のそれも「朝起きて、歯を磨いて、朝ご飯を食べて、、、それから、晩ご飯を食べて、テレビを見た後、風呂に入って寝ました。おわり。」と記すだけの生活をかりにわたしが繰り返していたとしたら、きっと退屈極まりないとおもいます。こらえ性がないのでそのうち悶絶するかもしれません。しかし程度の差はあるにしてもたとえ単調な毎日だったとしても、その日一日にちょっと変化を入れてみる。たとえば、ぶらっと散歩に出るのもいいでしょう。

 その日が春間近い時期だとしたら、頬を撫でる風の感触や菜の花の黄色が春の訪れを感じさせてくれるに違いありません。つまり、塩焼きの秋刀魚に大根おろしやレモンや醤油をちょっと加えることで、また皮膚や視覚を通して四季のそれぞれの移ろいを感受することで、その日に、たとえひとときであっても「おもしろみや変化」が生まれます。すなわち、彩りです。

 その「おもしろみや変化」を手に入れるには、見知らぬ土地に旅に出かけたり、あるいは華やかなエンターテイメントに参加したり、たまにはエスニックな料理を味じわってみたりと、つまり日常とは違う体験をすることが一般には考えられます。

 しかし、そうした非日常的な場に身を置いたり、大きな仕掛けをしなくても、その日一日に彩りを添える方法はいろいろとあるに違いありません。たとえば、わたしの場合その一つは、繰り返しになりますが先にも書いた(前回の記事)旧暦をもとにして暮らしていた時代のこまやかな季節感や風物詩、折々の祭りや行事などに思いをはせたり、学んだりしながら生活することです。

 暦に「旧暦」と呼ばれる暦があることは以前から知っていました。しかし「昔使われていたらしい暦」ということで、当然「今は直接には関係ない」とこれまでやり過ごしていました(多くの人がそうかもしれません)。日常生活を営む上で、また効率や生産性を高め、物質的、経済的な富をもとめてくる日も来る日もひた走っていた定年前の毎日を送る中で、誰かにそうした考えが咎められることもなかったからです。

 しかし定年後、書店である一冊の本を手にし、座右の書にしたころからわたしはそれまでやり過ごしてきた「旧暦」に興味を抱くようになりました。その本は、『日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らしー』(文・白井明大 絵・有賀一広/東邦出版)。ふっくら、豊かな気持ちで一日を過ごしたい、そのことで時の流れを緩められないかとこだわっていた懲りないわたしにとって、それは上手に活用すればその一助になるかもしれないと思えたのです。

 「旧暦は心と体で感じる日々の楽しみに満ちています」

 「四季の国に生まれた喜びを味わう」

 「自然によりそう、昔ながらの生活を大切にしなおすことの中に、人が自然と結びつき、生き生きと暮らせる知恵が宿っている」

―。そう帯にあります。

 パラパラと眺めると、「秋分」の候のページには「旬の魚介」として、「さんま」の絵と、「塩焼きは絶品の秋の味」などという文があります。また「春」のところには、「見つけるよろこびに満ちているのが、春という季節では・・」などという文字があり、印象的です。