(この日記は、mixiに2010年07月11日02:20に
書かれたものです。当時の父の死の様子を記録
したものです)
前編はこちら
僕の父は、僧侶でした。
曹洞宗という禅宗のお坊さんでした。
永賞寺というお寺の住職でした。
お坊さんが亡くなったときは、普通よりはお葬式に
長い時間がかかります。
本来なら密葬と本葬を分けてやるのですが、
父の意向により一度にまとめてやる、とのことでした。
そのための準備期間が必要なため、7月3日に
亡くなって、通夜は9日(金)、本葬は10日(土)という
長期間に渡るものでした。
ですから僕は、3日から9日までずっと、父の傍にいました。
「死体の傍にいて恐くないの?」
と思う人もいらっしゃるでしょうが、僕にとっては死体ではなく
あくまで『父』であり、父の『遺体』なのです。
それに父が幽霊で出てきたら、それはそれで嬉しいのです。
父の遺体の傍にいる間は、ろうそくとお線香の火を絶やさない
ことが主で、隣の部屋にいながら本を読んだりしていました。
それが四苦八苦の日記とニーチェの言葉の日記です。
少し仕事もしていたのですが、やはり身が入りません。
それならばと思い、少しでも生前父が触れていたものに自分も
触れたいと思い、父の部屋にある本を読み始めたのです。
ろうそくとお線香以外に、実は僕には重要な役割がありました。
それは、亡くなった父を偲んで父に会いに来てくれた方々を
お迎えすることです。
もちろんしっかりとお迎えすることが重要なのですが、
僕にこの役割が与えられた本当の意味がそこでわかりました。
とにかく、いろんな方が父の最期に一目会いたいと思い、
かけつけてくれたのです。
中には、遺体を見た瞬間に泣き崩れる方もいらっしゃいました。
父にかける最期の言葉として多く耳にしたのが、
「いろいろ教えて頂いてありがとうございました」
「こんな私にお声をかけていただいてありがとうございました」
でした。
父は禅僧として、多くの人に様々なことを教え説き、
多くの人を救ってきたのです。
よく、死んだときにその人の価値がわかる、と言いますが、
まさに父は亡くなってから、僕にその偉大な背中を見せてくれました。
本当に、一人や二人ではありませんでした。
次から次へと訪れる父への来客。
その度に上記のような言葉を父にかけて下さいました。
その姿を見ていると、自分の父の偉大さが初めて身に沁みてわかりました。
こんな偉大な人が、自分の父親だったのだ・・・。
まさに、尊敬すべき父。
その父の息子であることを、心から誇りに思っています。
7月4日(日)のこと。
梅室院さん(あるお坊さん)が、父の遷化(お坊さんが亡くなる
ことを遷化<せんげ>といいます)に際して歌を詠み、それを
筆で書いて贈って下さいました。その歌とは、
栖(す)みなれし 圓通山(えんつうざん)の
夜雨(やう)の聲(こえ)
夢に聴くらむ 釈迦の御法(みのり)と
(圓通山とは簡単に書くと円通山で、うちのお寺は
円通山永賞寺といいますので、永賞寺のことを指します)
この歌をまさに達筆な字で書いて贈って下さいました。
こういう贈り物を頂くところに、父親がどれほど信頼されて
尊敬されていたかを知ることができます。
来客が絶えない7月6日(火)、納棺。
父の遺体を、棺に納めます。
父の、冷たく固くなってしまった身体。
家族で父の遺体を持ち上げて、棺に納めるその瞬間。
感極まって、涙がこぼれる。
涙がこぼれる瞬間は、父親の死を<実感>したときです。
冷たく固くなった身体に触れた瞬間。
棺に入れていよいよ「亡くなった」と感じる瞬間。
耐えられません。
納棺が済んでも、通夜までは父の部屋に遺体を安置しておきます。
ですので、9日の通夜まで僕の役割は続きます。
7月9日(金)午後6時。通夜。
いつの間にか、かなりたくさんの人が来てくれていました。
頂いたご香典は、預かって渡されたものも含めて450以上ありました。
この数が意味するところのものは、もはや言葉にする必要はありません。
お通夜の中に、歎仏という儀式があります。
そこで読まれるお経に、感動して涙が流れました。
大勢のお坊さんが声をそろえて、父のためにお経を唱えてくれる
というのは、やはり嬉しいものです。
一つになったお経の旋律が、僕の心の琴線に触れました。
また、父が亡くなる前に読んだ句があります。遺偈(ゆいげ)と
いいますが、それは、
如意舌鋒七十余年(にょいぜっぽう ななじゅうよねん)
末後一句法璽自然(まつごのいっく ほうじじねん)
これもまた別のお寺さんが達筆な字で書いてくれました。
おおまかな意味としては、
言葉を意のままに使ってきて七十余年
最期の一句は法(真理)のままに
くらいでしょうか。
お通夜が終わり、文字通り本当の「通夜」が始まりました。
お通夜の夜は故人の傍にいて夜通し起きていて、ろうそくとお線香の
火を絶やさないのがそのしきたりです。
ただ僕はそれまでに似たようなことをやってきましたので、
(もちろん3~9日までずっと寝ないというのは不可能ですが)
いつも通りのことをやりました。
その日は他の家族も一緒に一夜を過ごしてくれました。
多くの親戚が集まり、故人を偲ぶこのお通夜。
父親のいろんな話が聞けました。
やはり日本の伝統というのは、良いものです。
7月10日(土)午前10時。本葬。
また、たくさんの方が来て下さいました。
本堂には、永平寺や総持寺の代表の方などがおりました。
父の葬儀のために駆けつけて頂いたことに、本当に感謝です。
式が終わり、最後のお別れとして棺にお花などを入れる際には、
もうこれで本当にこの父親の顔を見ることはできないんだ、
触れることはできないんだ、と思うと、流れる涙を止める
ことはおろか、嗚咽をこらえることができませんでした。
本当にたくさんの人が、別れを惜しんでいました。
午後12時半。出棺。
父がいよいよ永賞寺から離れてしまいます。
そして火葬場へ到着。
お経を読みながら、本当に最後のお別れです。
亡くなった直後(7月3日、4日)は微笑んでいた顔も、
日が経つにつれて体の水分が抜け、ほほがこけて皮膚が
黒ずんできて、あごが落ちてきて口が半開きになり、
もう微笑みの顔ではなくなってしまっていました。
それでも最後の父との別れに涙しながらお経をよみ、
喪主である兄が火葬開始のスイッチを押しました。
…これで、二度とあの顔を見ることができなくなりました。
2時間後。火葬が終わり、収骨。
骨だけになった、父親。
それはもう面影などはありませんでした。
ただ、骨は丈夫だったようで大部分の骨が残っていました。
800度という熱で焼くので、人によっては骨があまり
残らない場合もあるようです。
祖母の場合がそうでした。祖母は5年前に老衰で亡くなりましたが、
骨粗しょう症で下半身の骨がほとんど残っていませんでした。
父の骨の一部を、家族・親族で橋渡しで骨壷に収めていきます。
変わり果てた姿の父に、何かむなしさというか儚さを感じました。
生きている間にどれだけの功績を残そうが、死んでしまえば
骨になりそして無に還っていくのだ、ということを、父は
身をもって僕に教えてくれました。これもまた、仏教の教えです。
骨壷と遺影を大事に持ち、帰宅。
最後の仕上げのお経を読んで、全て完了です。
父は病室で、母にこう話していたそうです。
「悔いはない。良い生涯だったよ」
もう、あの姿は見られない。
もう、父の姿を永賞寺で見ることは、ない。
もう、あの穏やかな笑顔を見ることは、ない。
もう、あのたくましいお経の声を聞くことは、ない。
それでも、僕の記憶から父が消えることは永久にありません。
父の姿はすぐに思い出せます。
父の穏やかな笑顔はすぐに思い出せます。
父のたくましいお経の声はすぐに思い出せます。
それ以上に、父が僕に残してくれたもの。
父の歩んできた道。
人間として、一人の僧として、模範となるべき人生を歩んできた父。
その人生の全てを、お寺のために、檀家さんのために、
世の中のために尽くした、父。
その道を歩んでいる父の背中は、あまりにも偉大でした。
その背中を見て、追いつき、追い越せるよう、これからの人生を
生きていく。
お父さん、貴方の息子であることを、僕は心から誇りに思います。
まだまだ教えてほしいことはたくさんあったけど、一番大事なことは
その背中で、その生き様で教えてくださいました。
ありがとうございました。
…お疲れ様。そっちでは、ゆっくり休んでな。
二〇一〇年七月三日(土) 午後一時五十八分
當山二十二世再重興大雲清司大和尚 遷化
享年七十歳
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最後になりましたが、父に関わってくれた人全てにお礼を言いたいです。
ありがとうございました。
そして、今回の父:清司の遷化のために1週間休暇をいただき、
ご迷惑・ご心配かけた全ての人に心からのお詫びとお礼を申し上げます。
特に会社の方には深く感謝申し上げます。ありがとうございました。

