隠岐の島

 

 島根県古代文化センターから、第26回隠岐国巡回講座の動画配信のお知らせメールが届いた。テーマは「誕生、隠岐国 ―天平時代の隠岐―」、講師は平石充(島根県古代文化センター主席研究員)だった。講演時間は約1時間。

 日本海に浮かぶ隠岐諸島は、古代より海産物に恵まれた地域。古代国家形成期にあたる飛鳥時代から朝廷に重視されており、知夫(ちぶ)・海部(あま)・周吉(すき)・役道(えきぢ)の4つの郡が設置されていた。奈良時代の天平年間には、これら4つの郡のうちでも海部郡の人口が最も多かったことが分かってきた。講義ではその理由を探る。

 隠岐諸島は、島根半島の北方約50kmに位置する島々である。隠岐群島、隠岐島とも呼ばれる。 現在は島根県隠岐郡隠岐の島町が占める。山陰地方では今でも隠岐諸島を指して隠岐国と呼ぶ場合がある。

 島後水道を境に島前(どうぜん)と島後(どうご)に分けられる。島前は「島前三島」と呼ばれる知夫里島(知夫村)、中ノ島(海士町)西ノ島(西ノ島町)から構成される群島である。

 これに対し、島後は1島(隠岐の島町)のみである。島後の面積は約242km2で、日本列島では徳之島に次いで大きく、15番目の面積を持つ。主な島は、これら4島だが、付属の小島は約180を数える。

 隠岐諸島の最高峰は島後の中央や東側に所在する大満寺山で、山頂の標高は608m。かつては摩尼山と呼称された。

 島根県は隠岐諸島を管轄する隠岐支庁を置いており、支庁所在地は隠岐の島町(旧西郷町)である。人口18,159人、面積345.93km²。

 昭和38年(1963)に隠岐諸島のほぼ全域が、大山隠岐国立公園に指定された。特に、島前の西ノ島町に所在する国賀海岸は、高さ100mから257mに達する海食崖が連なった景勝地として知られる。

 隠岐諸島にはユーラシア大陸の縁辺であった時代と、島根半島の先端であった時代とがある。同諸島と島根半島の間の水深は70mほどで、2万年前の氷期には現在より海面が130mほど低下し、半島と陸続きとなっていた。その後の海面の上昇によって、約1万年前に現在のような離島となった。

 また同諸島は、約500万年前に活動した火山でもある。浸食作用によって火山地形が失われたため、火山としてではなく第三紀の火山岩類として扱われる。島前火山はカルデラを形成しており、その中央火口丘が焼火山(たくひやま)である。

 火山の酸性土壌が多いため、隠岐の牧畑といった原始的農法も近年まで続けられた。産出する黒曜石は、日本列島に居住した先史時代人類によって利用された。

 隠岐諸島は、縄文時代の早期か前期までにはヒトが住みつき、本州と活発な交流が有った痕跡が、出土した石器や土器に現れている。『古事記』では「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」と記される。

 日本神話「因幡の白兎」に登場し、古代には隠岐諸島に隠岐国が置かれていた。古くから遠流の島として知られ、多くの人が遠島になったが、後鳥羽上皇の隠岐配流を描いた障壁画(安土桃山時代、1600年頃)が残る。

 中世には、国府尾城(甲尾城)の隠岐氏が隠岐守護代として隠岐を支配した。隠岐守護は出雲の京極氏や尼子氏が兼ねたものの、本人が渡海した試しは無かった。

 近世は、初め出雲の堀尾氏や京極氏の分国であったが、後に江戸幕府の直轄領(天領)になる。天領の統治は出雲の松平氏が任された。

 江戸時代に入ると、隠岐は西廻り航路に組み込まれ、北前船の風待ち港として繁栄し、日本各地の文化が流入した。

 明治元年(1868)には松江藩と隠岐在住の住民間で隠岐騒動(雲藩騒動)と呼ばれる一連の騒動が発生した。

 特異な民族行事としては、「隠岐の牛突き」が知られる。配流された後鳥羽上皇が喜んだという口承が伝わる、日本最古の闘牛である。また隠岐には古典相撲が伝わっており、公共の慶祝事業に伴って、神社仏閣の境内や学校の校庭など、至る所で土俵が設置された。

なお、隠岐方言は雲伯方言に属しているという。

 以前、日本最後の訪問県鳥取を訪ねた時、境港に立ち寄った。隠岐汽船 ( フェリー )が1日1便、西郷港(島後)行が運航されていた。所要時間4時間と言うことで諦めたが、心に残っていた島である。

  

令和6年(2024)9月1日