他責も自責も伝播する | 確信犯的スーパー勘違い

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人生は、潜在意識が信じている通りになります。
だったら、『思い切り楽しい人生になる』って
信じた方がいいですよね。
確信犯的に勘違いをしてみませんか?

こんにちは。

『理性の力で未来をつくる』

ロゴスことスギオカです。

 

 

この投稿は、2019年6月30日に書いた記事を

再編集したものです。

 

『人を責めない』というのは

わたしの人生の大きなテーマになりましたが、

特にハッキリと言語化できるようになったのは

ここ1年くらいです。

 

この記事では、

まだうまく言語化できていない要素もありますが、

『他責』をきちんと対象化でき始めています。

 

 

 

 

『お前のせいだ』と言われると

『はい。そうですね。ぼくの責任です』

とは、なかなか返せません。

 

つい、

『いやいや、あんたのせいでしょう』

という言葉が浮かんでしまいます。

 

口には出さずとも、

頭の中では条件反射的に

反論がひらめいてしまうものです。

 

 

逆に、

『全てはわたしの責任です』

と言われると

 

『そんなことはないですよ』

と感じるのも、また人情。

 

つまり、最初に口を開く人が

他責か自責かで

『場』の空気感は決まるわけです。

 

 

『つきあう人を選びなさい』

という教えの要点は、そこにもあります。

 

うまくいかない原因を

自分以外に求める人と一緒にいると

思考は自ずと他責になります。

 

一方、

『全ての因は我にあり』

を心に刻む人たちの中にいると

自分も自然にそう感じていきます。

 

 

要は、

『どちらの空気も伝播する』

ってことですね。

 

 

論理的な正しさだけにフォーカスすれば、

他責の方が整合性が高かったりします。

 

たとえば、

自分が生まれる前に起きたことまで

自分の責任でしょうか?

 

 

しかし、そのスパイラルにはまると

『俺は悪くない』

『お前がおかしい。お前が変われ』

という、忿怒と不可能性のスパイラルに

取り込まれてしまいます。

 

 

不可能性というのは

ベクトルを他者に向けても

『変化は起きにくい』ということです。

 

他者を変えることは難しい

あるいは『不可能』ですよね。

 

 

逆に、たとえ論理的にはおかしくても

本来自分の責任範疇を超えている

(と思われる)事象の責任まで引き受けると、

全ては自分次第になります。

 

『わたしが変われば状況も変わる』

という制御可能な領域に入っていけるのです。

 

 

それって、 

『理想』に根拠がいらない

ことと似ていますね。

 

 

未来は自分でつくれます!

 

 

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