明るい言葉を使うのは…… | 確信犯的スーパー勘違い

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人生は、潜在意識が信じている通りになります。
だったら、『思い切り楽しい人生になる』って
信じた方がいいですよね。
確信犯的に勘違いをしてみませんか?

ある思いがあるからです。

 

派手な立ちまわりではありません。

むしろ、派手な立ちまわりを

『カッコイイ』と思う感性からの

解放とすら言えます。

 

 

こんにちは。

『理性の力で未来をつくる』

ロゴスことスギオカです。

 

 

この投稿は、2020年5月22日にかいた記事を

再編集したものです。

 

ここからだったみたいですね。

『昭和の亡霊』という表現をきちんと使い始めたのは。

 

 

 

 

ことさら『情報発信』と意識しないまでも

SNSなどで何かをつぶやけば、

自分の意見を表明していることになります。

 

その時、人は受け手に対して

『自分と同じ考えになって欲しい』と望みます。

 

 

偏った広告戦略などで

『敢えて炎上させて、注目を集めたい』

こともあるでしょうが、

 

その場合ですら、自分の思い通りに

みんなが考えて欲しいと願っています。

 

炎上させようと思っているのに、

『そりゃぁ、もっともだね』と言われたら、

やっぱり意に反しているからです。

 

 

 

ところで、

『応援』『批判』では

相手に考えて欲しいことが180度違います。

 

 

『応援』というのは明るい呼びかけです。

 

『この人、こんなに素敵なんだよ。

 みんなもそう思うでしょ』

 

という認識が前提になっています。

 

 

一方、『批判』は暗い呼びかけです。

 

『この人、こんなに嫌な感じなんだよ。

 みんなもそう思うでしょ』

と。

 

 

 

つまり、応援的メッセージを発する人は

みんなに明るくなって欲しいと

願っているわけです。

 

かたや、批判的メッセージを発する人は

みんなが暗くなることを望んでいます。

 

 

『怒りは共感を呼ばない』

と言われる由縁ですね。

 

 

 

そして、

言葉は自分のまわりの環境をつくります。

 

 

応援的メッセージを発する人は

まわりを明るくするわけですから

 

自分のまわりには

『善い人が多い』と感じます。

 

 

一方、批判的メッセージを発する人は

まわりを暗くしますから

 

自分のまわりには『嫌な人が多い』

感じることでしょう。

 

 

 

自分のまわりの世界は

他でもなく、自分がつくっているわけです。

 

 

 

ただし、批判的な人たちにも

そうしてしまう理由はあります。

 

かつて(昭和の時代)には、

『批判的精神』

尊いとされていたからです。

 

 

 

『太った豚よりも、

 痩せたソクラテスになれ』

なんて言葉が流行ったことすらありました。

 

1964年のことです。

 

 

実は、その言葉が出まわった背景には

いろんな勘違いがあるのですが、

 

ともかく『批判的』であることが

カッコイイと思われていた証左と言えます。

 

 

それから約半世紀。

 

 

『人を元気にさせる言葉を使いたいよね』

と思う人もいれば、

 

あいかわらず、怒りをまぶした

批判的言説を発し続ける人もいます。

 

 

自分が辛くなるのに、残念なことです。

 

 

 

いろいろと考えた末に、わたしは

 

批判的な態度を取る人には

『昭和の亡霊が取り憑いているのだ』

と、考えるようになりました。

 

そして、亡霊は

退治しようとすると、かえって荒ぶります。

 

 

痛みや悔しさを一旦肯定し、

静かに祀ってあげることが大切なんですね。

 

 

わたしは

新しい時代が明るいものになって欲しい

との願いをこめて、言葉を選んでいます。

 

 

前向きな言葉をつづっている背景には、

そんな思いがあるのです。

 

 

未来は自分でつくれます!

 

 

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