今年5月に福島県富岡町についてかかれた記事を見つけましたので、掲載いたします。
東日本大震災ルポ・被災地を歩く:
東京電力・福島第一原発事故をうけて半径20キロ圏内は昨年4月22日、警戒区域に設定された。1年が経ち、警戒区域と計画的避難地域は、放射線量にもとづいて、立ち入り自由な「避難指示解除準備地域」(年間20マイクロシーベルト以下)と「居住制限地域」(年間20~50マイクロシーベルト)、立ち入りが制限される「帰還困難地域」(年間50マイクロシーベルト超)に再編された。空間線量は低くなっているものの、「一律帰還」を目指す富岡町などは今回の再編からは漏れた。
私が郡山市の仮設住宅などで富岡町の人たちを取材するようになって、多くの人が「夜ノ森の桜」について、懐かしむように話をしていた。そのことが頭に残り、「夜ノ森」という言葉を何度も耳にした。「夜ノ森の桜を見たい」というのは、「富岡町に帰りたい」と同じ意味なのだろうと思ったものだ。
●「一律帰還」を目指していた富岡町
福島県の浜通りでは桜の名所がいくつかあるが、そのうち富岡町夜ノ森の桜並木は、町民にとっては町のシンボル的な存在であり、遠藤勝也町長にとっても、町おこしの手段でもあった。しかし、富岡町は「一律帰還」を目指していたが、警戒区域の見直しは延期された。夜ノ森で花見ができないのは残念だろう。
遠藤町長は富岡町郡山事務所で行なわれた共同インタビューで、「今年になって警戒区域の見直しが予定されていたが、実現することができなかった。空間線量が低い地域もあり、実際には立ち入りができる場所もあるが、富岡町の場合は、一律で帰還するという考えじゃないと不可能と判断した。ただ桜をどうしても見せてあげたい。そのため、ライブカメラを設置した。メディアにも公開する。町民はある程度理解してくれるのではないか。必ずふるさと富岡に帰るという信念はあきらめていない」と話していた。
「夜ノ森」の由来は、岩城藩と相馬藩の領有を巡って争い、「余(=私)の森」と主張したことが由来とされている。1900年に農村開発のモデルとして、新しい村を作るために夜ノ森公園を入手した、相馬藩主・半谷常清の長男、清寿が、その記念に桜300本を植えたのが始まりだ。
夜ノ森の桜並木は、福島第一原発から約7キロ地点にある。1000本以上の桜が道路の両側に立ち並び、桜のトンネルを形成している。その長さは約2500メートルで、夜ノ森の駅前でL字型に曲がり、健康増進センター「リフレ富岡」、富岡二中方面まで続いている。
クルマを利用する場合は、常磐道富岡ICから約3キロ。国道6号線を夜ノ森交差点で西側に曲がり、県道36号線をまっすぐに進むと、すぐに桜並木が見えてくる。電車を利用する場合は、JR常磐線夜ノ森駅で下車。徒歩3分ほどで桜のトンネルを見ることができる。その通りの中間には夜ノ森公園、リフレ富岡の近くには「基準木」がある。
原発事故前であれば、多くの人が観光で訪れていた。しかし、原発事故により立ち入りが制限される「警戒区域」に設定されたために、観光客はおろか、一般住民でさえ、花見ができなくなった。それでも桜は咲くものだ。そこで、富岡町では、メディアに対して夜ノ森の桜を公開した。夜ノ森の桜の開花を楽しみにしていた町民たちを元気づけるためだ。
私も富岡町に申し入れ、メディア向けの一般公開に同行した。新聞やテレビ、雑誌の記者、カメラマンが役場職員と同行し、双葉郡楢葉町のJビレッジ近くの検問所を通過して、夜ノ森の桜並木を目指した。行く途中の楢葉町でも桜が咲き始めていた。富岡町の住民に限らず、故郷の桜が開花するのを楽しみにしている人も多い。一週間しか咲かない桜だが、地元の人にとっては、その桜に数々の思い出が刻まれている。
「基準木」は夜ノ森公園ロータリーにある。公開された4月19日の天気は曇り。ほぼ満開に近かったために、晴れていなくて残念だった。また人々がおらず、報道陣と役場職員、そして工事関係者が通りすぎるだけの桜並木はちょっと異様に感じる。桜並木は、やはり花見をする人がいることがセットではないかと撮影していて思った。
●「宝泉寺」のしだれ桜
夜ノ森公園では「桜祭り」が行なわれる季節だが、警戒区域になっているために今年も中止だ。その公園内は除染で出た「ゴミ」の仮置き場になっている。
リフレ富岡は、昨年3月11日の地震発生から12日の朝まで地域の住民が避難してきた。富岡町では12日朝、全村避難を指示する。バスが用意できず、原則的には個々人での避難になった。しかし、クルマでの避難ができない人のために、町ではバスを用意した。そのときに使ったのが、このリフレ富岡のバス。集合場所もここだった。
富岡二中付近の道沿いにも桜のトンネルがある。ここから見える桜並木はよく見える角度で、多くのメディアがこのポイントから撮影している。町がネット配信するライブカメラもこの地点からの映像だ。
二中の体育館前にも桜がある。ここも避難場所になった。二中の生徒は下校していたために、学校での生徒への対応がほとんどなかった。しかし、地域住民は二中の体育館に避難する人も数多くいた。また、富岡一小は一度、「学びの森」に避難したが、最終的には二中体育館に避難する。ここで保護者への引き渡しが行なわれた。しかし、川内村へ避難するまで保護者と会えない子どもたちもいた。二中体育館に避難した人の中で、クルマでの避難ができない人たちはリフレ富岡に向かった。
役場職員の配慮で、「宝泉寺」のしだれ桜も撮影できた。宝泉寺のしだれ桜は、夜ノ森の桜並木とは違ったおもむきがあり、町の桜の名所のひとつになっている。Twitterでそれらの桜をアップすると、富岡町の人たちから感謝のメンションがあった。それだけふるさとを回想する人がいるのだろう。
●震災はまだ終わっていない
まだ震災が終わっていないことを示す象徴的な場所でもある「警戒区域」。私が20キロ圏内のエリアに入ったのは、警戒区域に設定される前の昨年3月26日だった。南相馬原町区の避難所で取材した男性の家が、20キロ圏内の小高区にあり、「今、どうなっているのか?」と心配していた。そのため、男性の家の周辺をビデオ撮影をして見せたこともあった。警戒区域に設定される数日前には福島第一原発の正門前まで行ったりもした。
富岡町は第二原発があるため、原発作業員たちの出入りが多く、時間によってはクルマの流れが多い。居住できない警戒区域にあっても、人の気配がする。飼われていた牛が逃げて「野良牛」となり、その一部は囲い込みのための柵に入っている牛を見かけることができた。空間線量は低くなっているが、人が歩いている姿を見かけることはなく、「まだ息を吹き返していない」といった印象だ。
震災取材当初、私は原発事故ではなく、津波被害に関心があった。もちろん、今でも最大の関心事だ。しかし、警戒区域およびその周辺も関心事として頭を離れない。また、取材で出会う人々の人柄も魅力的だったことも、再訪する理由だ。1回の事故で人々の暮らしを奪って行ったことの影響を見過ごせない。
[渋井哲也,Business Media 誠]
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東日本大震災ルポ・被災地を歩く:
東京電力・福島第一原発事故をうけて半径20キロ圏内は昨年4月22日、警戒区域に設定された。1年が経ち、警戒区域と計画的避難地域は、放射線量にもとづいて、立ち入り自由な「避難指示解除準備地域」(年間20マイクロシーベルト以下)と「居住制限地域」(年間20~50マイクロシーベルト)、立ち入りが制限される「帰還困難地域」(年間50マイクロシーベルト超)に再編された。空間線量は低くなっているものの、「一律帰還」を目指す富岡町などは今回の再編からは漏れた。
私が郡山市の仮設住宅などで富岡町の人たちを取材するようになって、多くの人が「夜ノ森の桜」について、懐かしむように話をしていた。そのことが頭に残り、「夜ノ森」という言葉を何度も耳にした。「夜ノ森の桜を見たい」というのは、「富岡町に帰りたい」と同じ意味なのだろうと思ったものだ。
●「一律帰還」を目指していた富岡町
福島県の浜通りでは桜の名所がいくつかあるが、そのうち富岡町夜ノ森の桜並木は、町民にとっては町のシンボル的な存在であり、遠藤勝也町長にとっても、町おこしの手段でもあった。しかし、富岡町は「一律帰還」を目指していたが、警戒区域の見直しは延期された。夜ノ森で花見ができないのは残念だろう。
遠藤町長は富岡町郡山事務所で行なわれた共同インタビューで、「今年になって警戒区域の見直しが予定されていたが、実現することができなかった。空間線量が低い地域もあり、実際には立ち入りができる場所もあるが、富岡町の場合は、一律で帰還するという考えじゃないと不可能と判断した。ただ桜をどうしても見せてあげたい。そのため、ライブカメラを設置した。メディアにも公開する。町民はある程度理解してくれるのではないか。必ずふるさと富岡に帰るという信念はあきらめていない」と話していた。
「夜ノ森」の由来は、岩城藩と相馬藩の領有を巡って争い、「余(=私)の森」と主張したことが由来とされている。1900年に農村開発のモデルとして、新しい村を作るために夜ノ森公園を入手した、相馬藩主・半谷常清の長男、清寿が、その記念に桜300本を植えたのが始まりだ。
夜ノ森の桜並木は、福島第一原発から約7キロ地点にある。1000本以上の桜が道路の両側に立ち並び、桜のトンネルを形成している。その長さは約2500メートルで、夜ノ森の駅前でL字型に曲がり、健康増進センター「リフレ富岡」、富岡二中方面まで続いている。
クルマを利用する場合は、常磐道富岡ICから約3キロ。国道6号線を夜ノ森交差点で西側に曲がり、県道36号線をまっすぐに進むと、すぐに桜並木が見えてくる。電車を利用する場合は、JR常磐線夜ノ森駅で下車。徒歩3分ほどで桜のトンネルを見ることができる。その通りの中間には夜ノ森公園、リフレ富岡の近くには「基準木」がある。
原発事故前であれば、多くの人が観光で訪れていた。しかし、原発事故により立ち入りが制限される「警戒区域」に設定されたために、観光客はおろか、一般住民でさえ、花見ができなくなった。それでも桜は咲くものだ。そこで、富岡町では、メディアに対して夜ノ森の桜を公開した。夜ノ森の桜の開花を楽しみにしていた町民たちを元気づけるためだ。
私も富岡町に申し入れ、メディア向けの一般公開に同行した。新聞やテレビ、雑誌の記者、カメラマンが役場職員と同行し、双葉郡楢葉町のJビレッジ近くの検問所を通過して、夜ノ森の桜並木を目指した。行く途中の楢葉町でも桜が咲き始めていた。富岡町の住民に限らず、故郷の桜が開花するのを楽しみにしている人も多い。一週間しか咲かない桜だが、地元の人にとっては、その桜に数々の思い出が刻まれている。
「基準木」は夜ノ森公園ロータリーにある。公開された4月19日の天気は曇り。ほぼ満開に近かったために、晴れていなくて残念だった。また人々がおらず、報道陣と役場職員、そして工事関係者が通りすぎるだけの桜並木はちょっと異様に感じる。桜並木は、やはり花見をする人がいることがセットではないかと撮影していて思った。
●「宝泉寺」のしだれ桜
夜ノ森公園では「桜祭り」が行なわれる季節だが、警戒区域になっているために今年も中止だ。その公園内は除染で出た「ゴミ」の仮置き場になっている。
リフレ富岡は、昨年3月11日の地震発生から12日の朝まで地域の住民が避難してきた。富岡町では12日朝、全村避難を指示する。バスが用意できず、原則的には個々人での避難になった。しかし、クルマでの避難ができない人のために、町ではバスを用意した。そのときに使ったのが、このリフレ富岡のバス。集合場所もここだった。
富岡二中付近の道沿いにも桜のトンネルがある。ここから見える桜並木はよく見える角度で、多くのメディアがこのポイントから撮影している。町がネット配信するライブカメラもこの地点からの映像だ。
二中の体育館前にも桜がある。ここも避難場所になった。二中の生徒は下校していたために、学校での生徒への対応がほとんどなかった。しかし、地域住民は二中の体育館に避難する人も数多くいた。また、富岡一小は一度、「学びの森」に避難したが、最終的には二中体育館に避難する。ここで保護者への引き渡しが行なわれた。しかし、川内村へ避難するまで保護者と会えない子どもたちもいた。二中体育館に避難した人の中で、クルマでの避難ができない人たちはリフレ富岡に向かった。
役場職員の配慮で、「宝泉寺」のしだれ桜も撮影できた。宝泉寺のしだれ桜は、夜ノ森の桜並木とは違ったおもむきがあり、町の桜の名所のひとつになっている。Twitterでそれらの桜をアップすると、富岡町の人たちから感謝のメンションがあった。それだけふるさとを回想する人がいるのだろう。
●震災はまだ終わっていない
まだ震災が終わっていないことを示す象徴的な場所でもある「警戒区域」。私が20キロ圏内のエリアに入ったのは、警戒区域に設定される前の昨年3月26日だった。南相馬原町区の避難所で取材した男性の家が、20キロ圏内の小高区にあり、「今、どうなっているのか?」と心配していた。そのため、男性の家の周辺をビデオ撮影をして見せたこともあった。警戒区域に設定される数日前には福島第一原発の正門前まで行ったりもした。
富岡町は第二原発があるため、原発作業員たちの出入りが多く、時間によってはクルマの流れが多い。居住できない警戒区域にあっても、人の気配がする。飼われていた牛が逃げて「野良牛」となり、その一部は囲い込みのための柵に入っている牛を見かけることができた。空間線量は低くなっているが、人が歩いている姿を見かけることはなく、「まだ息を吹き返していない」といった印象だ。
震災取材当初、私は原発事故ではなく、津波被害に関心があった。もちろん、今でも最大の関心事だ。しかし、警戒区域およびその周辺も関心事として頭を離れない。また、取材で出会う人々の人柄も魅力的だったことも、再訪する理由だ。1回の事故で人々の暮らしを奪って行ったことの影響を見過ごせない。
[渋井哲也,Business Media 誠]
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