46カ国の楽園 6カ国目 スロヴェニア
明日は知らない場所へ行く。言葉も、民族も、有名な建物も、何もかもが未知な世界へ…
僕はそんな気持ちを抱えたまま、ヴェネツィアから深夜特急に乗りました。オーストラリア→マレーシア→トルコ→ギリシャ→イタリア…そして明日にスロヴェニアへ。列車の外には手を振るイタリア人のおじさんの姿がありました。僕はまたね、さようならとイタリア語で叫びました。![[みんな:01]](https://emoji.ameba.jp/img/user/th/th12o/1631.gif)
![[みんな:02]](https://emoji.ameba.jp/img/user/th/th12o/4284.gif)
『チャオー、アリヴェデールチ!!』
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(僕が家族に送ったポストカードの写真より)
Wikipediaよりスロヴェニア首都リュブリャナの説明…
第一次世界大戦後の1918年のオーストリア・ハンガリー帝国崩壊で、リュブリャナはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後にユーゴスラビア王国)の一部となり、スロベニア地方の中心都市となった。1929年にユーゴスラビア王国の行政区分が再編された際には、現在のスロベニアとほぼ同じ領域を占めるドラヴァ州(Drava Banovina)の州都となった。
第二次世界大戦の1941年4月にリュブリャナはイタリアに占領された。リュブリャナ中心市街の外部で起こったスロベニア人の抵抗運動が強かったため、1942年2月23日にイタリア軍は32kmの有刺鉄線でリュブリャナ中心市街を完全に囲ってしまった。それはヨーロッパで最も大きい戦時下キャンプであり、リュブリャナ中心市街へ入るには、イタリア軍の厳重なチェックポイントを通らなければならなかった。
第二次世界大戦後、リュブリャナはユーゴスラビア連邦人民共和国のスロベニア人民共和国の首都になった。そして1955年にヨシップ・ブロズ・チトーは、第二次世界大戦時の抵抗運動の功績を称えてリュブリャナ市に英雄都市称号を与えた。それはユーゴスラビアで最初の英雄都市称号だった。1980年5月4日、チトーはリュブリャナの病院で亡くなった。
1991年にユーゴスラビア軍との十日間戦争でスロベニアが独立を勝ち取り、リュブリャナはスロベニアの首都になった。
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1998年7月24日、早朝にスロヴェニア首都リュブリャナに僕は到着しました。ガイドブックもありませんでした。早朝に到着したので、駅のベンチで赤紫色の寝袋に包まり、座りながら仮眠を取りました。目を覚ますと、隣のベンチに白人の若い女性がこちらを見ていました。彼女は声をかけてきました。
『ドベルダーナ…』
それがスロヴェニアの挨拶でした。彼女の名前は覚えていません。しかし、彼女の出身地は覚えています。ボスニアヘルツェゴビナ。
彼女の誘いで、リュブリャナの街を歩くことにしました。彼女は戦時中から家族と離れて、オランダに住んでいるそうでした。銀行のATMでお金を引き落とし、公園でパンにハムとチーズを挟んで食べました。彼女はあまり笑いませんでした。僕も何を話していいのかわからず、無言の時間が過ぎました。僕はふと思いついたように、助けて欲しいんだけど…と彼女に言いました。彼女はなに?と聞きました。僕はバッグが重過ぎるから、これを持って行ってくれないかな、ヴェネツィアの友達から貰ったオランダギルダーの貨幣コインを全て渡しました。
彼女は初めて笑いました。貰うことに躊躇していましたが、何とか受け取ってくれました。そして、良ければオランダに来てくださいと、言い残して、リュブリャナ駅からサラエヴォ行きの列車で去って行きました。彼女は笑っていました。当時ではユーゴスラビア国内の内戦が始まろうとしているところでした。まさか、自分がユーゴスラビアへ行くことになるなんて、この時は夢にも思いませんでした。
僕は北上することに決めました。次の目的地、オーストリアへ。
iPhoneからの投稿
明日は知らない場所へ行く。言葉も、民族も、有名な建物も、何もかもが未知な世界へ…
僕はそんな気持ちを抱えたまま、ヴェネツィアから深夜特急に乗りました。オーストラリア→マレーシア→トルコ→ギリシャ→イタリア…そして明日にスロヴェニアへ。列車の外には手を振るイタリア人のおじさんの姿がありました。僕はまたね、さようならとイタリア語で叫びました。
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![[みんな:02]](https://emoji.ameba.jp/img/user/th/th12o/4284.gif)
『チャオー、アリヴェデールチ!!』
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(僕が家族に送ったポストカードの写真より)
Wikipediaよりスロヴェニア首都リュブリャナの説明…
第一次世界大戦後の1918年のオーストリア・ハンガリー帝国崩壊で、リュブリャナはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後にユーゴスラビア王国)の一部となり、スロベニア地方の中心都市となった。1929年にユーゴスラビア王国の行政区分が再編された際には、現在のスロベニアとほぼ同じ領域を占めるドラヴァ州(Drava Banovina)の州都となった。
第二次世界大戦の1941年4月にリュブリャナはイタリアに占領された。リュブリャナ中心市街の外部で起こったスロベニア人の抵抗運動が強かったため、1942年2月23日にイタリア軍は32kmの有刺鉄線でリュブリャナ中心市街を完全に囲ってしまった。それはヨーロッパで最も大きい戦時下キャンプであり、リュブリャナ中心市街へ入るには、イタリア軍の厳重なチェックポイントを通らなければならなかった。
第二次世界大戦後、リュブリャナはユーゴスラビア連邦人民共和国のスロベニア人民共和国の首都になった。そして1955年にヨシップ・ブロズ・チトーは、第二次世界大戦時の抵抗運動の功績を称えてリュブリャナ市に英雄都市称号を与えた。それはユーゴスラビアで最初の英雄都市称号だった。1980年5月4日、チトーはリュブリャナの病院で亡くなった。
1991年にユーゴスラビア軍との十日間戦争でスロベニアが独立を勝ち取り、リュブリャナはスロベニアの首都になった。
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1998年7月24日、早朝にスロヴェニア首都リュブリャナに僕は到着しました。ガイドブックもありませんでした。早朝に到着したので、駅のベンチで赤紫色の寝袋に包まり、座りながら仮眠を取りました。目を覚ますと、隣のベンチに白人の若い女性がこちらを見ていました。彼女は声をかけてきました。
『ドベルダーナ…』
それがスロヴェニアの挨拶でした。彼女の名前は覚えていません。しかし、彼女の出身地は覚えています。ボスニアヘルツェゴビナ。
彼女の誘いで、リュブリャナの街を歩くことにしました。彼女は戦時中から家族と離れて、オランダに住んでいるそうでした。銀行のATMでお金を引き落とし、公園でパンにハムとチーズを挟んで食べました。彼女はあまり笑いませんでした。僕も何を話していいのかわからず、無言の時間が過ぎました。僕はふと思いついたように、助けて欲しいんだけど…と彼女に言いました。彼女はなに?と聞きました。僕はバッグが重過ぎるから、これを持って行ってくれないかな、ヴェネツィアの友達から貰ったオランダギルダーの貨幣コインを全て渡しました。
彼女は初めて笑いました。貰うことに躊躇していましたが、何とか受け取ってくれました。そして、良ければオランダに来てくださいと、言い残して、リュブリャナ駅からサラエヴォ行きの列車で去って行きました。彼女は笑っていました。当時ではユーゴスラビア国内の内戦が始まろうとしているところでした。まさか、自分がユーゴスラビアへ行くことになるなんて、この時は夢にも思いませんでした。
僕は北上することに決めました。次の目的地、オーストリアへ。
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