これは、前の「13あ・草壁皇子は自ら命を絶った」の続きです。
文字数がオーバしたのです。
草壁皇子の薨去のわけ
草壁皇子は大津皇子を深く信頼していました。
草壁皇子が立太子されたのは、天武12年か、天武14年。天武帝の最晩年です。
遅すぎます。立太子できない理由は、本人の辞退でしょう。
その譯は、持統天皇が知っていました。
それゆえ、草壁皇子は皇位継承者として大津皇子を考えたのでした。
天武天皇崩御
朱鳥元年(686)五月、天皇の病を卜うと、草薙劔の祟りというので、熱田社に安置。
仏法にて病の平癒を誓願。
諸国は主な神社に幣を奉り、天皇の病の平癒を祈念。
「天下のことは全て皇后と皇太子に啓上せよ」の勅。
朱鳥元年とする。
皇太子・大津皇子・高市皇子に封四百戸
9月㏣皇子・諸臣ことごとく川原寺で天皇の病平癒を誓願。
9月9日・天皇崩御
9月11日・殯宮を建てる
9月24日・殯の礼。大津皇子が謀反を起こす
10月2日・大津皇子の謀反が発覚
10月3日・大津皇子に賜死。山辺皇女が殉死
これらの出来事のことごとくを、草壁皇子は承知していたのです。
草壁皇子が苦しまないはずはありません。
皇太子でありながら即位しなかった大きな理由は、ここにあると思います。
大津皇子を死なせてしまった
このことが、草壁皇子の心を縛り、即位を拒否したと思うのです。
草壁皇子は苦しんだ挙句、高市皇子に皇位継承を託しますが、母が承知しません。群臣と母と高市皇子の取り巻き勢力の板挟みで、皇子は自ら命を絶ったと思います。
だから、書紀の記述は短く。万葉集の挽歌も「高市皇子の挽歌」より短いのです。人麻呂が崇拝する持統帝の息子の挽歌を粗末にするわけはありません。彼は、あれ以上書けなかった。
悲しすぎて、悔しすぎて書けなかったのです。
むしろ。草壁皇子は大津皇子に皇位が継承されることを考えていた。
彼の申し出を受けてもよかった。
大津皇子は姉にも相談し、決心を固めた。
しかし、事は謀反とされ、大津皇子は死を賜った。
草壁皇子は責任を感じたのです。
母との三年間の軋轢を経て、ついに…
これが、私が日本書紀から読んだことです。
草壁皇子の薨去のわけ
このことは、阿閇皇女も十分に知っていたのです。