手持ちの書籍にある、昭和10年/明治43年当時の八幡市地図の西部(幸神/別所と穴生あたり)について、少し調べてみました。

▼故郷穴生近く、西部を切り出してます。
右下の八幡養老院、左の焼却場(一部文字が潰れてる)が目を引きます。
黒崎方面(大字熊手)は九年前、八幡市に編入されてます=同年、八幡製鐵所溶鉱炉が稼働
左下の遠賀郡上津役村(穴生・引野方面)も二年後には八幡市になります。

山寺の北には、新地町とあります。新地は文字どおり新たに開拓された土地やそこに誘致した遊郭街を指しますが、ここは洞海湾埋立・干拓に由来してるようです。
北九州の昔を調べる際、たまにお世話になってる福山組さんのホームページに、貞元・新地町・山寺などについて丁寧に書かれてます↓

上津役村の緑が広がる部分は、現在の青山・西王子・南王子あたりの丘陵地。開拓前です。
その更に西(地図枠外)には、穴生から引野にかけて田園が広がってました↓

以下では、これら養老院・焼却場について簡単に調べてみます。身内向け・ごく狭い関係者向けですが、もしよろしければお付き合いください。


八幡養老院
▼現在の幸神・茶売町あたりでしょうか。
少し上の「文」は熊西小学校。その南には現存する幸神の緑地・墓地。当時はそれらを取り囲むように半円の道があったようです。
更に少し南にある養老院の北西と南には、現存しない2つの大きな池があって、水路で接続されてます(こちらも後で少し調べてみます)

まず養老院ですが、聞いたことある言葉だけど老人ホームかな?というイメージしかありません。
とりあえずWikipediaを見ようとすると「養老院」のページはなくて「老人ホーム」に飛ばされます。

Wikiによると、民間・宗教関係の養老院は古くから存在していたようですが、昭和七年(地図の三年前)に制定した救護法により、初めて養老院が国の制度上に位置づけられたんだそう。
ただ、それ以前から自治体レベルで一部支援したりしてたようです。

なお「養老院」は、法改正により昭和二十五年に「養老施設」に改められ、その後昭和三十八年に「老人ホーム」になったんだそう。時を経て「養老院」という言葉は死語になりました。

続いて「八幡養老院」を検索しますが、現存する他の民間施設しかヒットしません。
が、福岡県統計年表で見つけることができました。

▼昭和十年 福岡統計年表より
養老事業の項に、八幡養老院と福岡市・小倉市・門司市の施設がエントリーしてます。

八幡養老院は
・所在地:八幡市大字熊手
・運 営:個人
・設 立:昭和七年十二月(救護法制定元年)
となってます。
なお、統計年表を遡ると設立当初の運営は財団法人でしたが、同法制定前年に個人に変わったようです。
ちなみに昭和六年の統計年表にも養老事業の項があり、福岡市と小倉市の二施設がエントリーしてますので、同法制定前から県は養老施設を支援してきたのかな?

続いて過去の地図・航空写真をみてみると、先ほどのアバウトな地図とも整合する位置で、あっさり養老院らしきものを見つけることができます。

▼昭和十年当時、国土地理院の地図。
→ 幸神あたり。池の南東。現200号線沿い。同じような位置に建屋の表記らしきものがあります。

▼昭和二十年代。同じ位置に建屋があるのが分かります。戦火を免れたのか分かりませんが、八幡養老院でココで間違いなさそう。
→ 池は埋立が進み、周辺は住宅がびっしり。三菱化成社宅?じゃなくて安川電機社宅?

▼昭和三十年代。より鮮明。池は埋立完了しました。養老院北にも似たような建屋群があります。

▼養老院を拡大してみます。学校にも似た横長の建屋が複数。

▼北側も拡大。似たような横長建屋群です。養老院を拡張?あるいは公営施設?

▼現在と比較。養老院は商業地に、北側建屋群は市営小鷺田団地に。

▼かつて八幡養老院があった場所

更に情報を求めて検索してみたところ、現存する民間施設の中に、八幡養老院を継承したかもしれないところが見つかりました。

▼聖ヨゼフの園です。

▼同園のホームページによれば、終戦から二年弱が経過した昭和二十二年四月より、なんと八幡養老院と同じ幸神で、ヨゼフ養老院として事業開始されてます。

▼当時の写真も掲載あったので見てみますと、建屋などが航空写真と重なる感じもしますが、
当たりでしょうか?

(Rev.1.3訂正/追記)
→ バスレ。写真は青山移転後のようです。
過去の地図を見ますと、青山ロイヤルホスト1号店の北に、聖ヨゼフの園の建屋を確認できます。
矢印方向から撮影すると建屋レイアウトが写真とドンピシャな感じです。。

同園は昭和三十七年に青山へ移転。幸神建屋は、養老院→北の施設群の順で取り壊されたようです。

ちなみに昭和二十二年、同園は市から養老事業を引き継がれたとの事。旧八幡養老院@幸神→青山で間違いなさそう(Rev.1.5追記)



養老院近くの二つの池
続いて、先に触れた二つの池について少し調べてみます。

両者とも現存しないので、地図を遡ってみます。


最初に消失した南側の池は、その後八幡西区別所にできた八幡工業高校敷地と被っており、同校建設と共に姿を消したようです。

▼同校周辺を拡大
→ 池はグランドに。池埋立跡地あるあるです。
ちょっと気になったのは同校と引野中との間。高校敷地じゃなさげな草地の区画。うっすら長方形に盛土してるように見えます。

▼付近を拡大
▼ストリートビューで確認すると、周囲は金網で囲まれてて、施錠された門扉と工事標識が見えます。ココはもしかして?

▼標識を拡大
なんと、別記事(引野浄水場を訪ねて三千里)で探していた引野配水池(工業用)のようです。
検索してもすぐ見つからず放置してたんですが、まさかこの記事書いてて見つかるとは…ビックリ。

▼キーワード引野配水池に、別所を加えて検索するとあっさりヒットしました。。ナンテコッタイ
→引野配水池、八幡西区別所町とあります。

▼他の配水池はグーグルマップ検索でもヒットするものがあるけど、引野配水池はヒットしないので未登録。試しに申請・登録しておきました。簡単に削除されるみたいなので、いつまで残ってるか分かりませんケド
八幡工業学校あたりは一段と土地が高くなってて、浄水場や配水池にウッテツケ。後になってみれば分かりやすい立地です。
このあたりは帆柱山系の裾野で丘陵地になっており、一帯は広範囲にわたって水が豊富な土地柄です。養福寺貯水池/割子川/金山川など、潤沢な水が下流域を潤してくれてます。

▼八幡工業高校の沿革。昭和17年/1942年に新校舎着工してるので、そのときに池はなくなったけど、引野配水池として生まれ変わったんですね。

→ 余談ですが、校名が迷走してます笑
・学制改革で福岡県立八幡工業高校となり、
 中学を併設
・翌年に洞南高校に改称し、
 その年度末には中学を廃止
・改称後四年を待たず、元の名称に
なんで?一体なにが!?
(まだ中卒も珍しくない御時世でしたが、職業学校を県立中学で作ろうと前のめりになったけど?、入学者少な過ぎてやめた?←勝手な妄想が暴走)

なお、地上水路(開渠)で接続されていた北側の池(下流側)ですが、南側(上流側)が工業用配水池になったというオチでしたので、おそらく一帯を宅地開発する中で、池を埋め立て、どこかのタイミングで地中配管を埋設したんじゃないかな?(調べても何も出てこなさそう…)

少し配水池北部・南部の変遷を航空写真で振り返ってみます(Rev.1.4追記)
→安納芋さん、コメントありがとうございます。

▼配水池北側ー昭和20年代
宅地開発初期(北側の池は半分残存)は、まだ宅地南部に田畑が残っており、小川があったように見えます。配水池のあたりには小さな池?

▼配水池北部ー昭和30年代
更に一帯の開発がグンと進みます。西側に道路が。
地図枠外北西には、鉄竜・鉄王にかつて存在した穴生社宅群が立ち並ぶようになった年代です。

▼配水池北部ー昭和50年代
配水池が完成し、田畑は引野中学校と宅地に。
中学校の西側はダンボールそりに最適な、広大な草の坂が広がってて、子どもたちは自由に出入りしてたそうです。めちゃくちゃ楽しそう。

▼配水池南部ー昭和50年代と現在を比較
配水池まわりに舗装路はなく、ココも子どもたちが自由に出入りしてたそうです。こちらも妙な地形だし、変化に富んでて楽しそう‥

▼別所団地南西部から配水池敷地を撮影した写真があるので、あわせて載せておきます。
↓コチラ
正面のケモノ道らしきものは団地住人の畑ゾーンアクセス路かな? 。中央奥の木々の後ろには配水池の施設が映り込んでます。

▼引野中学校から見える夜景(Rev.1.2追記)
八幡工業高校そばの引野中も土地が高くて、夜になると黒崎方面の夜景がキレイ。
→VTEC隊長さん、ありがとうございます。



西部焼却場
ここからは八幡養老院・配水池を離れ、西側の焼却場を少し調べてみます。

▼改めて昭和10年/明治43年の地図。皇后崎の南に「西部◯◯焼却場」とあります。(字が潰れてる)

▼文字を拡大。焼却場ですし、一文字目は「塵」ですかね。→ゴミ焼却場確定
二文字目は、部首がしんにょうに見えるけど、ゴミ関係でそんな字ありましたっけ?

少し調べてみると、この時代、ゴミ焼却場は「塵芥焼却場」と表記することが多いようです。
けど、二文字目は「芥」じゃなさげなので、ちょっと無理あるけど「埃」でしょうか。
塵芥(じんかい)じゃなく塵埃(じんあい)?
でも、やっぱり、しんにょうに見えます。。

ややこしいし、書きにくいし、以下西部焼却場/焼却場で進めます。

まず、当時のゴミ処理事情について少し調べてみます。 

Wikipediaによれば、ゴミ処理に関する法令は1900年/明治33年に制定された汚物掃除法が始まりのようです。

それまでもチフスなどの伝染病は度々問題になっていたようですが、制定前年にペストが神戸に上陸し、シビレを切らして、公衆衛生確保のため複数法令とあわせ制定したんだとか。同法制定により、行政によるゴミ処理が始まったんだそう。

制定前は、個人間の請負によってゴミ処理しており、行政の関与ナシ。ヤバいです。。とてもそんな環境でイキテイケマセン笑

昭和5年の改正では使用料・手数料も取れるように。その後、昭和29年の清掃法制定で役目を終えたんだそうです。

西部焼却場に戻します。
地図の端にポツンとありますが、どんなところにあったんでしょう?。めちゃくちゃアバウトな地図だけど地元。穴生あたりかな?

二つの池が目印になるので、国土地理院の地図でどのあたりにあったのか見てみます。

▼昭和十年代
上端の街道は、当時の国道2号線/後の3号線です。
二つの池がちゃんと描かれてます。国道から池方向に延びる道は、焼却場へのアクセス路でしょうね。焼却場は終端あたりにあったのかな?
アバウトな地図だと、もっと奥な感じだけど。

▼昭和二十年代の航空写真。アクセス路の終端あたりに施設らしきものが見えます。池の南側は埋め立てが進行。
→ このあたりは池がたくさんありましたが、すべて埋め立てられ、現存しません。

▼北西部を拡大。やはり施設のようです。

▼更に拡大すると、直線的な長い影をハッキリ確認できます。焼却場の煙突で間違いなさそう。

▼所在地を確定できたので、航空写真で年代を進め、現在のどのあたりか確認してみます。
→ 1960年代後半〜1970年初頭にかけて一帯は大きく変わりました。池の北部は埋め立てられ、青山小学校に。かつての西部焼却場は取り壊され、住宅街になってます。

▼現在。焼却場があった青山一丁目8番地の区画

以上になります。

※この記事を作っていく中で、こちらの別記事の誤りに気づき修正しました(市営小鷺田団地・引野配水池)