華の60歳代 ラストイヤーをどう生きるか | 直球オヤジの自由奔走生活

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座右の銘は「"行きたい"、"やりたい"、"欲しい"と思った時が"その時"」。55歳で早期退職し、高齢者と呼ばれるまでの今が"その時"。趣味のバイクや自転車は年齢的に待ったなし。エコノミーな生活で趣味を楽しむ。これをどう追い求めるかが、このブログのメインテーマです。

数年前、「俺も遂に還暦ライダーになったか」と思っていたら、気が付いたら今年私は60歳代のラストイヤーを送ることになっていた。この歳をどう生きるか。特に改まって心を入れ替える訳ではないが確認してみた。

60歳を”
還暦”と称することは誰でも知っている。還暦の次は何だったかなぁ?と調べていたら、「古稀(こき:古希)」という言葉を思い出した。ところが、今では区切りがいいのか慣習的に満70歳が古稀のようになっているが、本来は”数えで70歳”が正式なものだそう。なんでそうなのかよくわかないが、とにかくそうだというのだからそうなんだ。「古稀」ねぇ?なんか古臭く、ジジくさいな。昔はここまで生きられるのは稀だったのかね。今の日本には70歳になっても働いている人がこらしょといるのに。そして私も一応元気である。

正式には今年古稀であり、年度内に私は
60歳代のラストイヤーに突入する。ひたすら好きなことをやっていたら、あっと言う間に60歳代をほぼ消化してしまった。貴重な華の60代を。そんな年を一つを区切りとして、これからの人生をどう生きるか確認してみた。

1.「すべきである」「しなければならない」ではなく、「したい」かを考える
 働いている時、
業務の中ではとかく「この問題を解決しなければならない」とか「あるべき姿を追求しよう」などと、仕事の会話ではとかく「べき」とか「しなければならない」という語句が入りがちで、自分の願望である「〇〇したい」を求めることは難しかった。しかし、リタイアしたらもうそんな束縛的な言葉とはおさらばしよう。義務的に行動を起こすのではなく、自分の欲求や願望に照らして動くんだ。

私は全国の鉄道を全て乗った。いわゆる「鉄道完乗」。しかし、先日北陸新幹線が金沢から敦賀まで延伸し、この完乗が未達状態になってしまった。こうなったら「北陸新幹線に
乗らねばならない」と言い掛けたが、待てよ、「乗ることは義務なのか?」と自問自答した。完乗という目標を再び達成したい。しかし好きな鉄道に義務的に乗るなんてつまらない。ここは「北陸新幹線の延伸区間に乗りたい」であり、そして、乗りたいのなら乗ればいい。

近年、世間では高齢者に「体が動く内は働くべきだ」と
高齢者の勤労をやたらと推奨する。しかし、義務ではない。金銭的に生活していけないのなら「働かねばならない」し、「働くのが好き」ならば、どうぞご自由に(私はまっぴらごめんだけど)。それらを無視して、とにかく「働くべき」と、まるでそうすることが当然かのように、そして義務か美徳かのようにけしかける近年の風潮には疑問だ。日常のちょっと行動や活動において、「それは本当にやらなければならない義務的なことなんだろうか」「俺が欲していることは何なのか」と自分に問い掛けてみよう。そして欲していることなら、その願望や欲求を実行に移すべく行動しよう。高齢者は自由が利くんだから。

2.面倒なことを先送りしない
 現在、私の住むマンションは大規模修繕工事の最終段階。費用面のこともあるが、それ以外にもマンションの修繕工事は実に面倒だ。どこをどう修繕するか、敷地内の駐車場に止めている車を一時的にどこに止めてもらうか、住民や近隣からの苦情対応など、業者とも住民とも管理会社とも調整しなければならないことが多い。だから誰も工事をやろうと言い出さない。しかし、先送りすれば老朽化する一方だし、住民も高齢になっていく。そこで私は修繕委員長として手を上げ、委員会を組織してここ1年半近く活動して来た。それがようやく終わろうとしている。確かに面倒なことは多かった。しかし、
放置しても解決する可能性が全く無いのなら、いつかことを起こさければならない。いや、自分が住んでいるのだから「やらねば」という強迫観念的な義務感よりも、「気持ち良く住みたい」という願望から動いた

老い先長くないこの歳になると
先送りはマズイ。便利になったが、社会の仕組みや製品など現代社会は昔よりずっと複雑になっている。そういうことにぶち当たると、「またその内」とつい言いたくなる。誰だってそうだ。でも今面倒なこと、わからないことが、肉体的精神的頭脳的に低下の一途を辿った先の将来にそれが解決する可能性は無いに等しい。つまり、今メンドクセと思っていることは、未来ではもっとメンドクサク、対応がより難しくなるはず。結果、そのまま放置される。体も頭も昔ほど動かなくても、幸いにも時間的余裕は昔よりある。「メンドクセ」「その内」を禁句にして一歩踏み出そう。

3.やるかやらないかを年齢で決めない
 「
この歳になって、バイクに乗るなんて!」と赤の他人だけでなく、バイクに乗らない友人にだって思われることがある。「大きなお世話」だが、現時点何も不都合は感じていない。ただ大型のバイクは卒業し、この5~6年は250ccにダウンサイジングして乗っている。軽自動車の半分以下の排気量しかなくても北海道だって九州だって行ける。酷道だけでなく林道だってガンガン走る。確かに体力や筋力、そして度胸は若い頃より衰退したが、それでも普通以上に走れ、何も問題はない。ならば何歳であろうが乗ればいい。

ギターも弾いている。誰に聞かせることもなく、パソコンに楽譜を出して、若かった頃に唄った歌を中心に弾き、レパートリーを増やしている。老眼で楽譜が見えずらいことを除いて、何も問題無い。ややこしいコードチェンジの曲も、何度も何度も繰り返していると段々と弾けるようになるのがうれしい。

どうしたって年齢は意識してしまうし、いつかは限界が来る。しかし、
やるかやらないかを決めるのは年齢と言う数値じゃない。やりたいという気持ちがあり、生理学的物理的に可能ならばやればいい。「こりゃあ、もうダメだ。これ以上やったらヤバイ」と感じたらジタバタせずにもう潮時。ただそれがいつかには個人差がある。

今まで書いたことをまとめるとこうなる。
自分の肉体的(健康状態や体力、知力等)、物理的(家族関係、金銭面など)な状況を睨みながら、自分の意思を尊重して行動するということ。そこには年齢がいくつかはさほど関係無い。とは言え、華の60代もあと1年少々かぁ。ちょっと寂しいけど、「さらば60代・・・、来やがれ70代!」で臨むとしよう。