活き伊勢海老を頂きましたおねがい

頭からシッポまで大体28cm。


こちら↓は前回頂いたチビたち。
大体20cm前後。



今回は甲羅がかなり硬くて、
ウチの包丁では無理かと思ったくらい。

20分くらい格闘してました。


ご馳走さまでしたおねがい








以下、スピ系の記事。
苦手だったらまたきてね。







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今回は、ACの話題。
(AC=アニマルコミュニケーション)


だけど、ACに付属しがちな夢を木っ端微塵にしてしまうかも知れないので、

『違う!そんなんおかしい!ムキー

とか言われる前に、
個人的な体験ですと言い訳しておきます。


※今回は『伊勢海老を捌いて頂くまでのAC』なのでそう言うのが苦手な方もここで回避推奨。






前回のチビたちは、
縦に真っ二つor丸茹ででした。

調理中に発する窒息で苦しい系の意識は、
今思えば学び少ない子供の波動。

今回のことでそうだったと知りました。



んで、今回もとりあえず、

洗われてジタバタしてる所をノーマル包丁でトライ。






格闘開始~



ギン(´;・ω・)モタモタ
「とにかく、頭を切断してしまおう…!!」


ーーーザックリ!


ギン(´;・ω・)
「やった!切り離したぞ!」


伊勢海老ガーンジタバタジタバタ
『え?!何?何?何が起きてるの?!』


ギン(´;ω;)イヤ!マジでやめて!!
「喋らないでぇぇええ!!」






このとき、私は、

伊勢海老とのチャンネルを“閉じれない”のではなく、“閉じたくない(怖いもの見たさが凄いある)”んだと、
自分の質や癖みたいなものを思い知りました。


だってね、
恐怖と罪悪感で涙が止まらないし、
捌く前に仕留めてあげられれば良いのにと本気で望みつつ、
これがお魚なら“津本式の究極の血抜き“とか愛が凄いし素晴らしいです。でも今回は海老。

死なれたら(別れ)それも寂しい。


まあ、とにかく、
恐怖のドン底にいたのは間違いなくて、
それでも調理を進めました。







ギン(´;ω;)ひぃー!!

「よ、よし!兜割り出来た!これで息き絶えるハズ!」

「冷蔵庫で冷やせば絞まるよね!」

「休憩して心を落ち着けよう!」




20分後(しばしの通信遮断)~




ギン(´・ω・)繋がってなければこっちのもの
「お腹が空いて耐えられない。もう死んでなくても食べちゃおう」






案の定、
まだ死にきれてないオーラを放つ食卓。

こんなにも死なないものなんだと、
少し感心の域に入ってたけど、

本番はここからでした。






実食~



ギン(´・ω・)←いまいち楽しめない
「甘くてプリプリだし…美味しいハズなんだけどなぁ…」


伊勢海老の頭←死にきれてない
『(モンモン中)』


ギン(´・ω・)
「やっぱり、私は二度と捌かない方が自分の為な気がする」


伊勢海老
『あ、楽になったー!キラキラ


ギン(´・ω・)
「あ、今!死んだ!!」







伊勢海老キラキラ

『海の中はとても素晴らしかった!』

『美しかった!楽しかった!』

筆舌に尽くしがたい感動であった!』
↑溢れ出る知能指数






“岩礁の割れ目から水面という空を仰ぐ”

そんな体験に私が溶けていきました。

人間の視力には映らない色彩の感覚。
懐かしくて愛しい世界。


今までのACと違ったのは、
私の自我が完全に消失したことでした。



今までは聞き役だったので、
相手の状態と分離した”自分の感想“を持つ
(↑事実を自分なりに考察する)

が、叶う世界だったけど、今回は、

伊勢海老の意見を体験するだけの世界。



私なんて初めから要らなかったんです。

『自分の感想をアレコレと考え出すことが賢いことですよウインク
という、学校教育とは真反対の世界です。







続き~


ギン(´・ω・)←体験から戻ってきた
『私いま、自分がいなかった』


伊勢海老キラキラ
『(もう光の存在そのもの)』


ギン(´・ω・)
「あれ?随分と立派な形のミソだなぁ」


伊勢海老キラキラ
『賢いと形が良い。けど、味は不味いよ』


ギン(´;・ω・)ホントだ
『…確かに、すんごい苦い』


伊勢海老キラキラ
『食べられる為に生きてた訳じゃなかったからね』


ギン(´・ω・)
「…うん」







もしかしたら、

伊勢海老は自分の人生を誇らしく思い、
私は心の底から命のことを学びたくて、

何かの法則の結果で今があったのかも知れない。


思考が事実から逃避しないように、
“自分の手で捌くしかない状況”が発生したのかも知れない。



私は伊勢海老(本人)になることで、
自分で自分を食べるまでをクリアーしたけど

食べられる愛はスゲー分かるけど、
食べる側の愛は、まだ少し悲しいです。




んで!


今回のことも含めて、
私の思う”命の繋がり“は、

連鎖でも、出会いでもなく、
全ての命が自分自身だと知る、

そういうことでした。


きっと、たぶん、
私は“全てである” ことを体験する。








後日(上記の話をしてみた)~



ギン(´・ω・)
「…だけどさ、相手が一般人だと繋がらないし、繋がりたくないし、繋がる必要がないレベルなんだよね」


友達( ̄ー ̄)伊勢海老はうまそうだな
「ちょっと何言ってるのか分からないw」


ギン(´・ω・)
「まあ、普通はそうかも」


友達( ̄ー ̄)前回直したブレスレットのオーナー
「お!俺のブレス!修理ご苦労さん!」


ギン(´・ω・)
「あー、はい…」







命以外のものと繋がりたがるのが、
「普通の人間」の定義※だったとしたら、
興味が湧かない事にも合点がいきます。

※私が自分の中で勝手に定義しているだろうことです。


人から命の繋がりを見ることは難しい、
なんて事実は存在しないと思うんだけど、

なんていうか、私が、
”人の魂を見ないでいる原因“かも。


だってさ、

伊勢海老のように曇り無きマナコで命を体験した人なんていないと思うんです。

そこをわざわざ体験したいとも思わないし、

だからこそ、自分が人間である理由が持ててるのかも知れない。



うーん、、
だんだん面倒になってきたので、
自分が人間である理由は、また暇なときに。


あ、伊勢海老の頭は鍋に入れて、
うどんの出汁にしましたハート







next(∩∀・*)