少し間が
空いてしまいましたが、
皆さんお元気ですか〜!


クリスマスも
本当に目前に
近づいて来ましたが、
《クリスマス》と言う
お祭りの起源と、
その本質的な
意味について、
前々回、
分かりやすく
書いておりますので
ぜひ、
まだの方は
読んで見て下さい〜!
きっと、新しい発見が
ありますよ〜!!
↓↓↓↓
[聖書メッセージエッセイ]
✞すがおのままで読む聖書✞
(聖書の本質とミステリー)
⑶《ルカによる福音書5章》
では最初に、
前回に引き続き
何時ものように
この箇所の
聖書の区分と項目を
記して行きますが、
聖書に興味がある方は
ぜひ一度、
直に聖書そのものに
触れて頂けたら幸いです。
また、
聖書にあまり
興味の無い方も、
ほんの少しだけ
我慢していて下さいねー
では、この部分の
【区分と項目】ですが、
《イエス、
漁師を弟子にする》
5章1節〜11節
《イエス、規定の病を
患っている人を清める》
5章12節〜16節
《イエス、
体の麻痺した人を癒やす》
5章17節〜26節
《イエス、
レビを弟子にする》
5章27節〜32節
《断食についての問答》
5章33節〜39節
と、なります。
ちなみに、
今回から毎回1章ずつ
開いて行きたいと
思います。
それでは、今回は
《イエス、
漁師を弟子にする》という
項目の記事の中から、
私の経験も含めて、
聖書のメッセージを
何時ものように
出来るだけ分かりやすく
お話しして行きますね。

では、まず最初に、
今回のお話しの
箇所の聖書を、
何時ものように
そのまま記して行きます。
『群衆が神の言葉を
聞こうとして
押し寄せて来たとき、
イエスは
ゲネサレト湖のほとりに
立っておられた。
イエスは、
ニそうの舟が
岸にあるのを
御覧になった。
漁師たちは、
舟から上がって
網を洗っていた。
イエスは、
そのうちの一そうである
シモンの舟に乗り込み、
陸から少し
漕ぎ出すように
お頼みになった。
そして、
腰を下ろして
舟から群衆を教えられた。
話し終わると、
シモンに、
「沖へ漕ぎ出し、
網を降ろして
漁をしなさい」
と言われた。
シモンは、
「先生、私たちは
夜通し働きましたが、
何も捕れませんでした。
しかし、
お言葉ですから、
網を降ろしてみましょう」
と答えた。


そして、
漁師たちが
そのとおりにすると、
おびただしい魚がかかり、
網が破れそうになった。
そこで、
もう一そうの舟にいた
仲間に合図して、
加勢に来るように
頼んだ。
彼らが来て、
魚を両方の舟いっぱいに
したので、
ニそうとも
沈みそうになった。
これを見た
シモン・ペトロは、
イエスの膝元に
ひれ伏して、
「主よ、
私から離れてください。
私は罪深い人間です」
と言った。
とれた魚に
シモンも一緒にいた者も
皆驚いたからである。
シモンの仲間、
ゼベダイの子ヤコブと
ヨハネも同様だった。
すると、
イエスは
シモンに言われた。
「恐れることはない。
今から後、
あなたは
人間をとる漁師になる。」
そこで、彼らは
舟を陸に引き上げ、
すべてを捨てて
イエスに従った。
ルカによる福音書
5章1節〜11節
(聖書協会共同訳聖書)
では、前回のように
私の体験を交えながら、
この聖書の
記事の中から
《神の声を聞き、従う》
ということについて
お話しして行きたいと
思います。

まず、
この記事において、
漁師たちは
イエスの唇を通して
《神の声・神の言葉》を
聞くことが
ゆるされたわけですが、
通常は
《神の声・神の言葉》は
極めて個人的に
心の奥に
聞こえて来るものです。
聖書の中にも、
旧新約聖書を通して、
度々、
【細き御声(みこえ)】
として出て来ます。
例えば、
旧約聖書のイザヤ書には、
『あなたが
右に行くときも、
左に行くときも
あなたの耳は、
背後から
「これが道だ、
ここを歩け」
と語る言葉を聞く。』
イザヤ書30章21節
(聖書協会共同訳聖書)
と、ありますが、
極めて近い、
個人的で小さな声です。。
そして、
極めて具体的な声です。。
私が初めて、
この【御声(みこえ)】を
聞いたと
確信持って言えるのは、
クリスチャンになる
前のことです。
確か、
20歳になる前のことだと
記憶しておりますが、
当時、私は、
大きな挫折から
人生の目標を
見失ってしまい、
何の為に生きているのか
分からなくなり、
心はまるで
死んだようでした。。
そんな時、
ある小さな教会の
近くの公園で、
教会の案内が書かれた
1枚のチラシを
受け取りました。

その時は、何気なく
受け取ったのですが、
家に戻ってから、
何か妙に
気になって来て、
よく読んで見ると、
初めての人向けの
集会の案内や、
日曜日の礼拝の
案内などが
記されていました。
そして、心の内に、
『ここに行け』
と言うような、
言葉にもならない
【思い】というのか、、
不思議な気持ちが
湧いて来たのを
思い出します。。
そして、
今日ここへ行かなければ
自分は駄目になる、
と、いうような
切迫した思いに迫られ、
翌週の日曜日、
雨の中でしたが、
自転車で
その教会に向かい、
生まれて初めて、
伝道会と言う集会に
出席しました。
その帰り道、
雨は上がって
星がキラキラと
輝いていたのを
印象深く
覚えております。。
それから直ぐ、、
私はクリスチャンになり、
人生の目標を見出し、
希望を持って
生きるように変わりました。

それから、
こんなこともありました。
それは、
クリスチャンになって
まだ1年ぐらいのこと
でしたが、
私はそのころ、
教会の婦人牧師の紹介で、
ある町工場に
勤めておりました。
そして、
ある日のこと、
帰り道のバスの中で、
疲れて
うとうととしていた時
でしたが、
突然、
「骸骨(ガイコツ)!」
という言葉が
耳に飛び込んで
来ました。
それは、
バスの中で、
どこかの子供が
いたずら半分に
ふざけて
友達に言った言葉
だったのだと思いますが、
その時、
ハッとして目覚めた私は、
バスに乗っている
周りの人達を見た時、
本当に
希望を失ったかの
ように
骸骨(ガイコツ)のような
疲れた顔をした
人達の姿が、
突然、
目に飛び込んで来ました。
そして、
『語りなさい』
と言うような思いが
心の奥から出て来て、
家に帰ると直ぐに、
近くの電気屋へ行き、
ハンドマイク
(よく学校で使われる
肩にかける
拡声器・スピーカ)
を購入して、
翌週の土曜日の夜から
東京の錦糸町駅の
バスターミナルの
目の前で、
ただ1人で、
讃美歌を歌い、
聖書のお話しをする
ようになって
おりました。
まだ、
クリスチャンになって
間もなく、
聖書もろくに
知らない状態で、、
毎回、
最初は駅前に立つと
足がガタガタ震えて
止まらない状態でしたが、
不思議と
語り始めると
言葉が内側から
湧き出て来る
ようになっておりました。
最初、始めた時は、
婦人牧師から
「みっともないまねは
しないように」と、
注意されるように、
誰からも
認められませんでしたが、
やがて、
駅前や街角に立って
聞いておられた、
教会の役員の方や、
年配の方々や、
先輩の方が、
協力して
くれるようになり、
婦人牧師に
推薦してくれるように
変わって行き、
まだ20歳そこそこの
クリスチャンになって
間もない若造に、
ある日
婦人牧師から、
教会の伝道集会や礼拝で
説教をするようにと、
指示されるように
なっておりました。
その後、
牧師になる為に
神学校に入るまで、
駅前での路傍説教は
続きましたが、
色々なことが
おきました。。
ある時、
私が聖書のお話しを
していると、
体の大きな酔っぱらいが、
乱暴して来て、
私の持っていた聖書を
取り上げようとして
来たことがありました。
今にも聖書が
引きちぎられると
思った
その時でしたが、
直ぐ横にあった
交番から
ひとりの警察官が
飛び出して来て、
信じられないことに
「この若い人の
邪魔をするな!」
と言って、
その
酔っぱらいの男を、
羽交い締めにして
おさえてくれ、
私を助けて
くれました。
私は
涙が出て来そうに
なりました。。
本来、
何の許可も無く、
誰の助けも無く、
ただ1人で
続けていたことなのに、
交番の
お巡りさん達は
取り締まることもせず、
黙認して、
毎回、
楽しみに聞いていて
くれたのです。。
それから、
こんなこともありました。
私が何時ものように、
お話ししていると、
中年の女性が
バスターミナルの
人の列から走って来て、
足元に何かを置いて
手を合わせ、
祈るような
しぐさをしています。。
何かと思って
足元を見ると、
ケーキの箱が
置いてありました。
本当に
ありがたく思いましたが、
何か、、、
お地蔵さんに
ならされたみたいで、
思わず
笑ってしまいました。(笑)
このような感じで、
教会の内外に
一時期、
小さな《ムーブメント》
のようなものが
おきたことがありました。

また、
神学生になってからの
ことですが、
こんなことも
ありました。。
私のいた横浜の
神学校(神学院)は
全寮制で、
修道院と同じように、
家に戻ることは
ほとんど許されない
ところでしたが、
ある日、何故か、、
家のことが
急に気になり、
祈ると、
心の奥から
『実家に行け』
との思いが声として
感じましたので、
何が何だか、
わけも分からず、
とりあえず
休講日だったので、
学校の事務所で
特別に外出許可を頂き、
実家に戻ってみると
私の身内のひとりが
布団の上で、
硬直したように
動けなくなって
おりました。
聞くと、
精神神経的な
疾患から
来ているとのこと、、
実家に戻る
電車の中でも、
何やら『祈れ』と
心の奥で
言われていて、
その時、
その意味が
即座に分かりました。。
私はずっと
実家からは離れていて
何も知りませんでしたが、
思わず、
『あなたは
心の休む場所が無い為に
このようになって
しまったのです』と、
その身内に語り、
心の中で
言われたとおりに、
その場で祈ったところ、
その身内の身体が
徐々に動くようになり、
その場でその身内は
イエスを受け入れました。
そして、
その身内は、
今は様々な病と
戦いながらも、
クリスチャンとして、
日々を大切に
生活しております。。
それから、私は、
牧師という
立場になってからも、
主なる神から、
『行け』と
言われたところへ行き、
『祈れ』と
言われたように祈り、
イエスの御名(みな)に
よって命じると、
悪霊は叫びを上げて
出て行き、
病人はその場で
癒やされたり、、
様々な結果が現れました。
もちろん、
明らかに
【神の御心(みこころ)
から出た】ことと
思われる
ことだけですけど。。

私自身の実例で
大変長くなって
しまいましたが、
【神の声・神の言葉】
というのは、、
細く小さな声ですが、
心の奥に届く
強い【インパクト】
とも言えます。
言語という形だけではなく
思いの部分に
直に届く場合も
多くあります。
そして、時には
拭うことが出来ないほど
強いものです。
また、
極めて【具体的】
なもので、
従って行動すると、
必ず【具体的な結果】
という形に現れて来ます。
そして、
自分の思いを
超えたような
結果になることが
多くあります。。
ただし、
【神の声・神の言葉】に
従うということは、
他人から見ると、
時にはとっぴだと
思われたり、
変わっていると
思われたり、
人の常識では
直ぐには受け入れて
もらえないことが
多々あります。。
それは、
イエス自身も
父なる神の声に従って
言われたとおりに行動し、
言われたとおりに
語っただけなのに、
結局、最後は、
当時の
ユダヤの人々には
受け入れてもらえず、
それどころか、
憎まれて、
十字架にかけられて
しまった、、
と、いうことからも
分かることと思います。
さて、
そういった話しは、
また後ほどにして、
もう一度、
最初に開いた
今回の聖書の箇所に
もどりたいと思います。

この聖書の箇所でも、
イエスは漁師の
シモン・ペトロたちに
極めて具体的に
語っておられます。
それも、
とても
熟練の漁師たちが
信じられないような、
常識はずれのことを
言っておられることが
分かります。
『…シモンに、
「沖へ漕ぎ出し、
網を降ろして
漁をしなさい」
と言われた。
シモンは、
「先生、私たちは
夜通し働きましたが、
何も捕れませんでした。
しかし、
お言葉ですから、
網を降ろしてみましょう」
と答えた。』
(ルカによる福音書
5章4節〜5節)
と、ありますが、
漁師の彼らにしてみたら、
この先生は
何を馬鹿げたことを
言っているのか、
と、半分呆れていたかも
知れません。
彼らは一晩中働いて、
とても
疲れていましたから、
たぶん、
「まぁ、偉い先生が
言うことだから、
しょうがないな〜」
というような、
少し投げやりな
気持ちだったのでは
ないでしょうか。
でも、とりあえず、
わけが分からないけど
従ってみようか?
と、いう感じで
従ったのではないかと
思います。
そして、
イエスに言われた
とおりに
したところ、
『そして、
漁師たちが
そのとおりにすると、
おびただしい魚が
かかり、
網が破れそうになった。
そこで、
もう一そうの舟にいた
仲間に合図して、
加勢に来るように
頼んだ。
彼らが来て、
魚を両方の舟
いっぱいにしたので、
ニそうとも
沈みそうになった。』
(ルカによる福音書
5章6節〜7節)
という、
とても思いがけない、
想像もしていないような
驚くような結果が出て、
とにかく、
シモンたちは、
イエスが神の子であり、
イエスの言葉は
神の言葉であることに、
この時、
本当に気づいたのでは
ないでしょうか。
なので、
シモン・ペトロは、
『…イエスの膝元に
ひれ伏して、
「主よ、
私から離れてください。
私は罪深い人間です」…』
(ルカによる福音書
5章8節)
と、叫んだのだと
思います。
とても具体的で、
結果が伴う、
インパクトのある言葉
だったのだと思います。
そして、
シモンは、
この直後にイエスから
弟子になるように
言葉をかけられます。
『…「恐れることはない。
今から後、
あなたは人間をとる
漁師になる。」』
(ルカによる福音書
5章10節)
この言葉は、
彼らにとって、
更に深く、
とても拭い去ることなど
出来ない、
強い声、
強い言葉として
心の奥に届きました。
彼らは、
熟練の漁師という
だけではなく、
ペトロなどは、
網元のような
責任者の立場でもあり、
漁師仲間の使用人や
舟などを所有している
ような人でしたが、
それら全てを
その場で捨てて
イエスの言われるままに
従いました。
『そこで、
彼らは舟を陸に引き上げ、
すべてを捨てて
イエスに従った。』
(ルカによる福音書
5章11節)
とありますが、
それほど深く
強い御言葉だったのです。
これは、
誰に対してでも
語られる言葉では
ありません。。
でも、
神の声を知り、
従うことを知ると、
何もかも捨てて
従うことになります。。
少なくとも、
私もペトロと同じように
主なる神から語られて、
すべてを捨てて
牧師になりましたので、
この時の
ペトロたちの気持ちは
よく分かります。
本当に
どんなに月日が経っても
拭い去ることなど
出来ない御声、
御言葉です。
ここで一つ、
誤解の無いように、
付け加えて
お話ししておきますが、
ここに
記されている記事は、
あくまで、
【弟子たちを
呼び寄せる為に】
その目的で、
主が語られたこと
ですので、
主なる神の声、
その言葉は
語られる相手の人
によって千差万別で、
受け手のとらえ方も
一律ではありません。
ちょうど一定の
周波数の
電波をとらえる
通信機器が、
感度も、機能も、
使用目的も、
それぞれと違うように、
人により、
感度もとらえ方も
表現も様々です。
ただ、
神の声は私たちに
絶えず届いていて、
語っておられ、、
それに従った
生き方も
あるということを
知って頂けたら
幸いです。。

さて、
話しが、
少し、横にそれて
しまいましたが、
最後に、
神の声、
イエスの言葉に、
【弟子として従う】という
生き方の【真実】を
お話しして
おきたいと思います。。
それは、まず、
【覚悟】が
必要な生き方です。
ときには
【家族も仕事も
それまでの人間関係も
社会的地位も
社会的名誉も財産も】
何もかも捨てて、
従わなくては
ならなくなるものです。。
ペトロたちも、
家族も
漁師という仕事も
立場も社会的地位も
財産も
色々とありましたが、
それらすべてを捨てて、
ただイエスの御言葉に
従いました。
そして、それは、
【即座に】従ったのです。

聖書の別の箇所に、
こんな記事があります。
『そして別の人に、
「私に従いなさい」
と言われたが、
その人は、
「主よ、まず、
父を葬りに
行かせてください」
と言った。
イエスは言われた。
「死んでいる者たちに、
自分たちの死者を
葬らせなさい。
しかし、
あなたは行って、
神の国を
告げ知らせなさい。」
また別の人も言った。
「主よ、
あなたに従います。
しかし、
まず私の家の者たちに
別れを告げることを
許してください。」
イエスはその人に、
「鋤に手をかけてから、
後ろを振り返る者は、
神の国に
ふさわしくない」
と言われた。』
ルカによる福音書
9章59節〜62節
(聖書協会共同訳聖書)
ここにおいて、
簡単に言うと、
まず亡くなった父を
葬りに行かせてください
と、願い出た人に
対しては、
そういった儀式は
死者の周りの
関係者にまかせて、
まず第一に
私の言葉に従うようにと
イエスは言っており、
また、
別の人に対しては、
家の者に
別れを告げることより、
前向きに
即座に従うことを
イエスは
求めていることが
分かります。
ある面、
義理人情や
社会的常識や
人間関係や
感情に
振り回されていては、
イエスの言葉に
真に従うことが
出来ない面があり、
後ろを
振り向いていては、
従う機会すら
失うことを
イエスは
言っているのです。。
そして、
すべてを捨てて、
即座に従った
からといって、
【安住の地】が
保証されている
わけではありません。。
人は誰でも、、
地上においては旅人、
宿れるものに過ぎない
ということを聖書は
言っておりますが、
イエスの言葉に従い、
弟子として歩む者は
さらなる【覚悟】が
必要です。
聖書の別の箇所に、
『イエスは言われた。
「狐には穴があり、
空の鳥には巣がある。
だが、
人の子には
枕する所もない。」』
(ルカによる福音書
9章58節)
《人の子》とは、
イエスご自身の
ことであり、
イエスに従う
弟子たちのことを
言っている言葉です。
何の報いが
無いとしても、
弟子になるように
御声をかけられた者は
従いたくなるものです。
不思議に思われるかも
知れませんが、
従わざる
おえなくなる。
それは
主の愛が、
感じられるから
なのかも知れません。。
でも、
何よりもそれが、
今、人として
生かされていることの
意味だと、
心から思えること
なのですから。。
少なくとも、
私の場合はそうでした。

同じことを
マタイの福音書には
もっと簡潔に
記しています。。
『…「先生、あなたが
お出でになる所なら、
どこへでも
従って参ります」
と言った。
イエスは言われた。
「狐には穴があり、
空の鳥には巣がある。
だが、
人の子には
枕する所もない。」
ほかに、
弟子の一人がイエスに、
「主よ、
まず、父を葬りに
行かせてください」
と言った。
イエスは言われた。
「私に従いなさい。
死んでいる者たちに、
自分たちの死者を
葬らせなさい。」』
マタイによる福音書
8章19節〜22節
(聖書協会共同訳聖書)
さて、
私個人のお話しに
戻りますが、
人には、
それぞれの分
というか、、
それぞれの役割、
【生かされている目的】
というものが
あるんだと
最近、特に感じます。
私も以前より、
主なる神に
語られながらも、
色々と、
【自由な自己表現】
の道を探し求め、
普通に
自分の意思で
自由に生きて来た
つもりですし、
今も、自由に
自分の意思で
生活をしている
つもりですが、
結局、何時も、
最後は、原点に戻っ来て、
主なる神に語られ、、
それに従うことに
なってしまいます。(笑)
そして、
長くイエスのお言葉に
弟子として従って来て、
ある意味、
理解出来ない人からは、
色々と思われ、、
心情的には
何時も孤独で、、
現実的には
何時も貧乏で、、
人から見たら
決して
幸せだとは思えない
人生だと思いますが、
どんな時にも
主が近くに居られ、
その都度
主の助けがあり、
決して裕福では
ありませんが、
そこそこ何とか
生きて来れました。。(笑)
もとより
自分の【幸せ】
なんかは、
始めっから
一切求めては
おりませんし、、
考えたことも
ありませんが、、
そこそこ
面白い人生だと、
最近は
感じております。(笑)
ただ、家族を含め、
周りの方々や、
支えてくれている
方々には
何時も申し訳なく
思っております。
☆そして今は
本当に、心底、
ガチガチに型にハマった、
【牧師という立場】も、
多くの人々が求ている
【社会的地位】も、
いかなる形の
【人からの名誉】も、
そして【財産】も、
何も欲しいとは
思いません!!(笑)
ただ、生涯
【名も無きイエスの弟子】
のひとりでありたいと、
本当に、
心から願っております。。
しかし、、、正直、
そうは言っても、
私も人間なので、
時には心が動く時も、
感情が揺れる時も
ありますし、、
心が折れてしまう時も
あります。。
でも、多少、
私を理解出来ない
人たちから
色々と
思われたり
色々と
言われたり
したとしても、
イエスは、
当時のユダヤ人の
指導者や宗教家や
学者たちに
散々批判をされ、
妬まれ、憎まれ、
しまいには
悪魔の親分とまで
悪口雑言を言われ、
唾までかけられ、
頬を叩かれ、
ムチで打たれ、
十字架という極刑に
かけられたことを
思うと、、
多少の辛さは、、
まぁ、、可愛いもので、
良しとして
おきましょう。(笑)
これが私の
神から与えられた
生き方ですから…。
それに、
イエスだけじゃあなく、
歴史を見てみると、
普通で平凡な
少女でありながら
フランスを救った
ジャンヌ・ダルクも、
ただ神の声を聞き、
神の言葉に従った
だけなのに、
本当に
ただそれだけなのに、
人からは魔女とまで
言われて、
極刑の火あぶりに
されましたしねっ。。
ただ、、
時が経てば、
その生き方の
真実は分かります。
必ず分かる時が来ます。。

だいぶ長くなって
しまいましたが、
最後までお読み頂き
ありがとうございましたー!
元気出して行きましょう〜!
(アリリヴェデルチ)
Ciao〜!(チャオ〜!)
またで〜す!
※(カットのイタリアの風景の写真は、全て身内が個人的に撮影したものですので、著作権が発生する恐れがあります)









