生きていると、日々が選択の連続です。
選ぶのに疲れたら、時々流されてみるのも面白いですけどね。
けれど、ここは流されとこう、と決めるのも自分の選択。
結局はそういう時でも選択はしています。
「その後の細かい選択は止めてみる」という選択なだけ。
でも、ある程度の割合で「自分が選んでいる」実感がないと、どうも心が不安定になるのです。
流されっぱなしって、結構不安なものなのです。
意思を持って選択していると、自分の創造力を駆使して現実を創造しているという実感があります。
「力強い自己」のイメージを持つことにつながる。
自分で選択できるということは、「選ぶ自由のある人生」を自分が送れている証拠にもなるので、選択すると同時に、その自由が与えられている安心感も一緒にやってくる。
だから、自分で決められる場面が多い方が、心も安定しやすいということになります。
不安はエネルギーを消耗させますが、「安心」はエネルギーを内部で増幅させることができます。
「誰かに決めてもらう」習慣を持っている人もいるかもしれません。
それは、自分の日々の暮らしが、誰かの決定次第でいかようにでも揺れ動くという不安定さをいつも含んでいます。
自分次第ではなく、その人次第。
良きにはからってもらえることもあれば、テキトーにあしらわれることもあるということです。
自分にとってベストな選択かどうかは、いつもわかりません。
決定者である、その人が考えるベストではあるかもしれないけれど。
自分はいつも「二の次」である選択かもしれないのです。
それでも良い、というのもまたその人の選択です。
それではイヤ!というなら、選択を人に委ねる生活をやめればよいですね。
しかし、自分自身での選択の割合が高まるということは、人のせいに出来ることが減ることでもあります。
自分で選んだ結果が普通に自分に返って来る。
良い思いもイタイ思いも自分の選択の結果です。
そこが受け入れられないと、いつまでも誰かに選択してもらい続け、結果をその人のせい、あるいはその人のお陰にするというパターンが繰り返されます。
自分に起こることは、いつも誰かのせい。
「決めてくれる人」が居ないと、成り立たない毎日です。
しかし、その方が快適な人もいるかもしれませんね。
人との関わり方もまた選択です。
続けることもできるし、変えることもできる。
しかし、その関係が嫌なら、関わり方を変える選択もできるということを忘れてしまいがちです。
その関係は「こうでなければならない」という強い信念のようなものがあるから。
それは、あまり人を幸せにしない信念だったりします。
そしてその信念は、実はいくらでも、自分に都合よく変えられる。
パターンは無限にあります。
変えられるはずなのに、「変えるなんてとんでもない」という思いが心の底にある。
変えることでやってくる数々の現実的な問題も容易に想像できるので、「簡単には変えられない」ということにしている。
でもそれが、人間関係の自由な選択の障害にもなっています。
人間関係がイヤなのに、その関係を変えるのがイヤだとすれば。
変える事で起こりうる出来事の方が恐いのかもしれません。
その恐れと引き換えに、嫌な人間関係に耐える方を選び続けるならば、その状態は変わらないでしょう。
その人にとっては、嫌な人間関係に耐えるほうがずっと楽なことだから、文句を言いながらも関係を続ける選択をするのです。
まだまだ、耐えられる程度の「嫌さ加減」なのです。
本当に嫌さ加減のレベルがMAXに到達すれば、変える事で訪れる恐怖なんて、どうでも良くなるでしょう。
でも実際はその恐怖って、「まぼろし」かもしれないのです。
実は存在しない「まぼろし」におびえて、嫌なことに耐え続けているだけかもしれません。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
だったらどうしましょう。
「ちょっと確かめてみる」という選択も、実はあるのですが。