4、ムサシ国の自立
朝鮮出兵で、高句麗軍に完膚なきまで敗れた倭軍の指揮を執ったアラタワケは、5世紀初頭、失意のうちに亡くなってしまった。彼はヤマト王権との偉大な同盟者として、東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳(210m)に埋葬された。その後を継いだ田道(タジ)も多くの兵を率いて半島での戦いを続けた。しかし、繰り返される朝鮮出兵によって、カミツケノ国の損耗が大きくなり、特に上毛野東部勢力のダメージは大きく、利根川北岸における交通の掌握についてもその影響力は低減した。5世紀半ば、その機をとらえてムサシ国が自立性を高めるのであった。
ムサシ国の首長はタサキワケの2代後のカサハラになっていた。カサハラは、利根川・荒川水運による利権の拡大を目指して、東松山の地から、元荒川と利根川が合流する低地帯、今の行田市辺りに本拠を移し、それまでカミツケノ国が握っていた利根川水運の中間経路を抑えた。
利根川水運は、上毛野から武蔵、常陸、上総、東京湾、その先に延びる海路・陸路を経て畿内に届く重要な交通手段であり、カミツケノ国とヤマト王権の連携にも欠かせないルートであった。カミツケノ国の国力が衰えた間隙をぬって、そのルートの一画にムサシ国が介在することになったのである。ムサシ国は、東国から畿内、畿内から東国への物流の仲介者としてその存在を増すことになった。
ムサシ国は、カミツケノ国から利根川水運の交易権を奪取したことにより、次第にその支配権を南武蔵地方(埼玉南部と東京)の範囲にも及ぼした。これにより南武蔵地域の中小の首長層も、ムサシ国の支配下に統合されたのである。
これまで、ムサシ国の首長はカミツケノ国の首長を介してヤマト王権につながっていたが、利根川水運の利権を握った首長のカサハラは、カミツケノ国の首長を介することなく、独自にヤマト王権の同盟者として力を誇示するようになるのである。
5、親衛隊長
5世紀中ごろ、ヤマト王権とのつながりを強めたムサシ国の首長カサハラは、ヤマト王権のもとに一定の兵士を出仕させ、大王の身辺警備や宮中の護衛を務めるようになった。王権の内部では、大王家の政権基盤は盤石ではなく、葛城氏や吉備氏などの地方豪族の力も強く、それらに対抗するために大王家の軍事力の強化が必要とされた。そうした中で伝統的に強力であった東国の軍事力が求められ、大王家の親衛隊長として、ムサシ国の首長一族がのものが代々任命されるこることになったのである。
ムサシ国を興隆に導いたカサハラが亡くなると、さきたま稲荷山古墳(行田市・117m)に埋葬された(まだ発掘されていない第一主体)。後を継いだのがヲワケという首長である。ヲワケは、自らヤマト王権中央に出仕し、親衛隊長として、当時のヤマト王権の大王ワカタケル(雄略天皇)に仕えた。
ワカタケル大王は、王権内部において重要な位置を占めていた葛城氏や吉備氏などの有力な豪族の影響を排除し、大王権力の強化に乗り出していた。まず、葛城氏の円大臣を滅ぼし、次に、吉備氏の田狭臣を半島に飛ばして滅ぼした。葛城氏と吉備氏という2大豪族が没落したことによって、大王家の権力は一層強大になった。
こうした旧勢力との戦いの際にワカタケル大王を支えたのが、物部氏や大伴氏などの大王家直属の軍隊と、東国の屈強な兵士で編成された親衛隊であった。ヲワケはそうした親衛隊の指揮官として、ワカタケル大王から信頼されていたのである。
ヲワケが亡くなると、父カサハラが眠る稲荷山古墳に追葬された(礫槨)。ヲワケは、生前に自らの上祖の系譜と、杖刀人首(親衛隊長)としてワカタケル大王に仕えたことを標した金象嵌銘のある鉄剣を作っており、その鉄剣がヲワケの棺の中に副葬されたのである(国宝金錯銘鉄剣)。
ヲワケは、自らの始祖をオオヒコとし、八代にわたる系譜を記載している。「紀」によれば、オオヒコは崇神天皇が地方に派遣した四道将軍の一人である。五世紀後半の時期にこの伝承が残っており、これを受けて自らの始祖をオオヒコとすることによって、ヲワケはヤマト王権の始祖につながっていることを強調したかったのである。