2、カミツケノ国

  

 4世紀半ば、上毛野地方(群馬県)の西部、いまの高崎・前橋市辺りを本拠に広域開発を主導する首長がいた。この地域は大規模な農業経営と、利根川水運における上流部最大の「倉賀野の津」を抱えて東京湾へと行き来する物流交易の利によって、大いに繁栄していた。首長はオトワケと言い、畿内のヤマト王権(崇神王朝)と結び、この地の覇権を握っていた。

 

 日本書紀崇神紀には、崇神天皇の子の豊城入彦(トヨキイリヒコ)が東国を治めたとし、彼が上毛野君と下毛野君の始祖であるとしている。また、「紀」景行紀では、豊城入彦の孫にあたる彦狭島王(ヒコサシマノミコ)が東山道十五国の都督(長官)に任ぜられ、その墓が上野国に造られたとしている。これらの伝承は上毛野西部の首長と崇神王朝との強い結びつきを現わしていると言えよう。前橋天神山古墳は古墳前期前半の古墳で、畿内の初期ヤマト王権(崇神王朝)の支配者層の古墳の墳形や副葬品の内容と類似している。

 

 一方、上毛野地方の東部、今の太田市辺りを拠点に地域開発を進めた首長がいた。アラタワケといい、最新の治水技術を導入して、赤城山東南麓の大間々扇状地を開発し、大規模な農業経営により地域発展をけん引していた。

 

 上毛野地方のアラタワケとオトワケの東西二大勢力は、この地方の覇権をめぐって、対立を繰り返してきた。4世紀半ばまでは、崇神王朝との結びつきが強かった西部のオトワケの勢力が優勢であったが、畿内における王権をめぐる争いの結末によって、この地方の勢力図が大きく変わることになった。

 

 畿内では、ホムタワケ(応神)が九州から攻め上がり、崇神王朝の仲哀天皇の子のオシクマ王を倒して新たに河内に応神王朝を開いた。370年ごろである。このため、崇神王朝とのつながりが強かった上毛野西部のオトワケの勢力は衰え、いち早くホムタワケのもとに朝貢した東部の首長アラタワケの勢いが増し、アラタワケは応神王朝との同盟を誓ったのであった。

 

 新興の応神王朝と同盟した東の首長アラタワケは、このヤマト王権の後ろ盾によって、上毛野地方全域の覇権を握った。アラタワケは上毛野地方にあった中小の国々を支配下に収め、「カミツケノ国」の大首長として君臨(東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳が彼の埋葬地)するとともに、隣国のムサシ国をもその影響下に置いたのである。

 

3、朝鮮出兵

 

 4世紀後半、朝鮮半島では北部の高句麗が南下し、しばしば百済を攻撃した。こうした中で百済は倭国の力を頼りとして、両国の軍事同盟を求めた。倭国も鉄という重要な資源の供給を半島南部の伽耶地方に頼っており、この地方の中小国と強いつながりを持っていた。そのため、高句麗の南進政策に危機感を抱いていた倭国は、百済との関係を重視し百済の要請に従い、軍事的なつながりを強めたのである。

 

 高句麗の圧迫を受けた半島南部の伽耶諸国や百済が倭国に救援を要請すると、倭国はその要請に応じ、半島に軍隊を派遣して高句麗としばしば戦った。広開土王碑によれば396年から407年にかけて高句麗軍と倭軍が大規模な戦いを展開したことが記されている。

 

 ヤマト王権による朝鮮出兵が繰り返されるに伴い、王権から東国に対しての動員要請も頻繁になった。ヤマト王権の同盟者として、カミツケノ国からも多くの兵士が動員された。ついには、ヤマト王権からカミツケノ国の王のアラタワケに、将軍として朝鮮半島出兵の指揮をとるよう要請があった。これを受けてアラタワケは、東国から1000人の兵士を動員する計画を立て、ムサシ国に100人の兵士動員を課した。カミツケノ国の支配下にあったムサシ国もこれに従わざるを得なかった。

 

 アラタワケ率いる派遣軍は、百済軍とともに半島南部で高句麗軍と戦うが、騎馬に優れた高句麗軍の前に何度も打ち負かされてしまった。突進力と破壊力を供えた騎馬軍との戦いは、倭軍にとって初めての経験であった。もともと馬は日本列島にはいなかった。半島での騎馬との遭遇が、倭国への馬と馬具の導入を促すことになったのである。

 

 朝鮮半島での戦いが激しくなるにつれ、難を逃れるため多くの半島人が海を渡ってきた。上毛野地方にも伽耶地方から有力な渡来人の集団がやってきた。彼らは場匹生産の技術を持ち込み、この地方を馬生産地として発展させた。しかも、場匹生産に伴い、馬具生産のための皮革、木工、冶金、紡織などの手工業技術も渡来人によって移入されたのである。