2023年12月7日(木) 曇り  庄野宿から亀山宿を経て関宿 14.9㌔

 

 名古屋から関西本線で、井田川駅に降りて歩き出す。11時10分。西風が強く歩くのに難儀する。旧井田川小学校跡碑がある。二宮金次郎像が建っていた。

 

 

  強風のなか歩いていくと谷口法悦題目塔が建っていた。法悦は江戸中期の日蓮宗篤信家で刑死者の供養のため、川合刑場跡にお題目塔を建てた。「川合の焼け地蔵さん」と呼ばれた。

 

 

 この辺の寺も真宗高田派が多い。和田の一里塚、北塚が復元されている。日本橋より百四里目だ。

 

 

 

 少し雨が落ちてきた。傘を持っていないのでしばらく雨宿り。「露心庵跡」の看板。亀山城をめぐる戦いの戦死者の菩提を弔った庵の跡。

 

 

 この辺りから亀山宿が始まる。亀山宿は庄野宿と同じく、伊勢参りの通行もなく、城下町の堅苦しさから止宿する人も少なく甚だ振るわない宿場であった。江戸口門跡を過ぎると商店街であるが、ほとんどシャッター通りになっていた。シャープ亀山工場の撤退も大きいのかな。

 

 

 本陣跡の標識があるだけで宿場の面影はないが、枡形の道が残っている。

 

 

 遍照寺の本堂は亀山城二の丸御殿の式台、書院を移築したもの。

 

 

 西町問屋場跡から亀山城跡をのぞむ。多聞櫓が復元されている。

 

 

 枡形の道を下っていくと、亀山城西の丸外堀跡の標識。

 

 

 「亀山に過ぎたるものが二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」の京口門跡を過ぎると宿場が終わる。広重は雪景色の亀山城と京口門を描いている。

 

 

 ここから関宿を目指す。しばらく行くと野村の一里塚がある。北塚が現存している。日本橋より百五里目。

 

 

 旧道は紅葉が美しい。この辺りは落針村と言って、平家の落ち武者が住み着いたそうだ。

 

 

 さらに進むと「大岡寺畷」という東海道随一の長縄手(長い道)に出る。冬は鈴鹿おろしが旅人を悩ませ、芭蕉は「から風の大岡寺畷吹き通し連れもちからもみな座頭なり」と詠んでいる。

 

 

 鈴鹿おろしは鈴鹿山脈からの北西の季節風で、空っ風となって吹き付け伊勢湾へ抜けてゆく。今日もこの風が吹いており、冷たくて歩きずらかった。

 

 

 鈴鹿川を左に見て小野川橋を渡ると、関宿の大看板。「重要伝統的建造物群保存地区」と記されている。東西約1.8㌔に歴史的な街並みが残っている。

 

 

 関の一里塚の隣が東の追分で、伊勢神宮の一の鳥居がある。京方面から来た伊勢参りの旅人はにはここから伊勢別街道に入る。

 

 

 関宿の街並み。

 

 

 関は古代から交通の要衝であり、古代三関の一つ「鈴鹿関」が置かれていたところ。伊勢別街道の東追分、大和街道の西追分、そして難所鈴鹿峠を控え大いににぎわった。本陣跡や高札場跡がある。

 

 

 宿場見学は明日にして今日はここまでとし、電車で亀山まで戻り、ホテルに泊まる。歩いた距離17㌔。適当な居酒屋がなかったので、近くのレストランで夕食。

 

 

2023年12月8日(金) 晴  関宿から坂下宿   6.6㌔

 

 朝、亀山から関まで電車で行き、8時30分ごろから歩き始める。朝の関宿は静かで、一人も歩いていない。

 

 

 

 旧旅籠屋玉屋資料館と、関まちなみ資料館が9時から開館したので、見学した。玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋」と謳われるほどの大旅籠。二階から見た宿場の姿。

 

 

 広重は本陣を早立ちする参勤大名の準備風景が描いている。

 

 

 「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い関地蔵院

 

 

 西追分・休憩施設で休んで坂下宿を目指す。

 

 

 一号線に合流して車の往来が激しいなか歩く。「転び石」という標識があった。山の頂上にあった巨石が転がり落ちてきて、夜な夜な不気味な音を立て里人が恐れた。弘法大師が供養すると静まったという。

 

 

 

 国道を離れて、しばらく行くと、市之瀬の一里塚跡があった。日本橋より百七里目。

 

 

 広重は 坂下宿として奇岩がむき出しになっている「筆捨て山」の山容と対岸の「藤の茶屋」を描いている。

 

 

 この辺りは沓掛村と言って古い家が残っている。

 

 

 のどかな里村を歩くと、「鈴鹿馬子唄会館」に着く。鈴鹿馬子唄発祥の地だ。会館では老人クラブのイベントが行われていた。

 

 

 隣には、坂下尋常小学校の跡地を活用した鈴鹿峠自然の家がある。国の登録有形文化財になっている。

 

 

 坂下宿は難所鈴鹿峠を控え参勤大名の宿泊も多く大いににぎわった。しかし明治23年の関西鉄道の開通によって通行者の激減とともに宿場としての役割を終えた。今は全く面影がない。鈴鹿馬子唄に「坂の下では大竹小竹、宿がとりたや小竹屋に」と唄われている大竹本陣と小竹脇本陣の標識が残っている。

 

 

 「身代わり地蔵尊」、大名行列を横切った子供の代わりに手打ちにされた地蔵を祀っている。

 

 

 法安寺、庫裡の玄関は松屋本陣の玄関を移築したもので、坂下に残る唯一の本陣遺構。

 

 

 今日はここまでとし、次回来年に鈴鹿峠を越えることにした。まだ11時45分、伊勢坂下始発の関駅行きバスは13時03分、日差しが暖かかったので、バス停の裏の公園で昼寝した。関駅から亀山を経て名古屋まで行き新幹線で帰宅した。歩いた距離13㌔。