2023年10月9日(月) 雨のち曇り 知立宿から鳴海宿を経て宮宿  20.3㌔

 

 新幹線で豊橋、名鉄線で知立まで行く。出がけは雨だったが、知立に着いた頃は雨も止んでいた。前回は大雨で、知立宿をゆっくり見ることができなかったが、今回は歩きやすかった。知立宿本陣は敷地三千坪建坪、三百坪と広大であったそうだ。標石がある

 

 

 知立古城址があった。信長に攻められ落城した。江戸時代将軍用の御殿となったそうだ。

 

 

 道なりに歩いていくと知立神社があった。境内の御手洗池の鯉、鮒が池鯉鮒の由来になった。名産の知立木綿は「池付白」と呼ばれ広く知られた。

 

 

 近くに安永7年(1778)の建立の池鯉鮒大明神常夜灯があった。

 

 

 逢妻川に架かる逢妻橋を渡る。在原業平を慕って今日から来た杜若姫が川を隔てて出逢ったところに由来している。

 

 

 国道一号線に合流ししばらく歩く。国道からそれて旧道を歩いていると、連子格子の旧家があった。今も人が住んでいるようだ。

 

 

 

 乗蓮寺という真宗の寺の境内に樹齢850年の椎の木があった。幹の根元の空洞に狸が住んでいたという。

 

 

 国道一号線の地下道を横切り左の道を進むと、境川にぶつかる。ここは三河、尾張の国境。今は刈谷市、豊明市の境となっている。境橋が架かっている。

 

 

 橋を渡ると烏丸光広狂歌碑が建っていた。「うち渡す尾張の国の境橋これやにかわの継ぎ目なるらん」。膠(にかわ)と三河をかけている。境橋の中ほどより東(三河)は土橋、西(尾張)は板橋という継ぎ橋であった。三河の質素、尾張の派手好みを表わすという。

 

 

 名鉄線豊明駅まで歩き、そこから有松駅まで電車で行く。有松は、知立宿から鳴海宿までが長いため、間の宿とされた。有松絞で世界的にも有名なところ。広重は鳴海宿として有松を描いている。

 

 

 尾張藩は有松に有松絞の営業独占権を与えた。有松絞会館がある。

 

 

 

 有松駅から電車で鳴海駅へ。鳴海は海辺に近く潮騒が聞こえたところに由来している。尾張藩は絞りの生産を有松と鳴海に許可した。宿は閑散としており、枡形の道が面影を残していた。

 

 

 本陣跡の看板がある。高札場が復元されている。

 

 

 鳴海城址、根古屋城ともいい、今川方の猛将岡部元信は、信長に最後まで抵抗した。

 

 

 昼食を食べていないことにきずき、駅中のロッテリアでサンドイッチとコーヒーで済ませる。鳴海駅から名鉄神宮前駅まで電車。熱田神宮はここからすぐ。お詣りは明日にして、宮宿まで歩く。宮宿は熱田神宮の門前町として開け、七里の渡し、佐屋街道追分を控え大いににぎわった。伝馬町の一里塚から宿場が始まる。日本橋から八十九里目。

 

 

 

 すぐそばに裁断橋跡がある。小田原攻めの陣中で病死した息子への思いが断ちがたく、菩提を弔うために母親が架橋した。都都逸発祥の地でもある。

 

 

 となりが鈴の御前社。熱田神宮の参拝者はここで身を清めお祓いを受けた。

 

 

 曲がりくねった旧道を探しながら歩いていくと、熱田の追分道標がある。1790年の建立、東海道と佐屋街道の追分である。

 

 

 

 左折して宮の渡し歩道橋を渡ると、蓬莱陣屋という料理屋があり、その駐車場に赤本陣跡の碑があった。

 

 

 更に行くと、七里の渡し跡があり、熱田湊常夜灯や、時の鐘が復元されている。宮宿と次の桑名宿との間には木曽川、長良川、揖斐川の大河が横たわり、川幅が広く架橋は無理であった。そこで海上七里の船渡しとなった。海路を嫌う旅人は、熱田の追分より佐屋まで六里進み、木曾川を川船で三里くだって桑名にわたる佐屋街道を利用した。今は渡し船はなく、佐屋街道と一般道で桑名に行くしかない。

 

 

 今日はここまでとして、神宮前駅から金山駅まで行き、瀬戸で焼きものを見てきたカミさんと合流して名古屋金山コンフォートホテルに泊まった。歩いた距離約15㌔。夜は、なぜか四川料理と紹興酒。

 

 次の10日に、熱田神宮に参詣した。三種の神器の一つ「ヤマトタケルの草薙の剣」がご神体。境内は、外人を含めた観光客でにぎわっていた。

 

 

 名古屋名物ひつまぶしときしめんを食べて、新幹線で帰宅した。