2023年9月10日(日) 晴れのち雨 赤坂宿から藤川宿を経て岡崎宿  18,5キロ

 

 暑い日が続いているが、思い切って街道を歩くことにした。新幹線で豊橋まで行き、名鉄名古屋本線で名電赤坂で下りる。前回歩いた赤坂宿を11時30分から歩き始める。三河の天領を支配した代官所跡「赤坂陣屋」

 

 

 日差しが厳しい中、汗を拭きふき歩いていると、文永九年(1272)創建の栄善寺があった。本尊は弘法大師作の大日如来。

 

 

 

 さらに歩いていくと長沢の一里塚跡の標識。日本橋より七十七里目だ。中世に長沢は東西三河の境目に当たり、戦略上重要な地であった。

 

 

 かなり汗をかいたので、「誓林寺」という浄土真宗のお寺で一休みしていたら雨が落ちてきた。近くの名電長沢駅に駆け込み電車に乗った。

 

 

 次の本宿駅で降りようとしたが、雨が止まずますます激しくなってきた。止みそうもないので、藤川駅まで行くことにした。本宿には家康が幼少のころ学問に励んだ「法蔵寺」があるが、残念ながら立ち寄れなかった。藤川駅について藤川宿を歩こうとしたが、激しい雨と雷に駅近くの「道の駅藤川」に飛び込んで、昼食時だったのきしめんを食べて雨を止むのを待った。1時間近く待ってやっと小降りになったので、少し戻って宿の入り口から傘を差しながら歩き始める。

 

 藤川宿は東の赤坂や西の岡崎に比べると小さな宿だ。江戸側の入り口である「東棒鼻」には広重によって描かれた景観が復元されていた。

 

 

 街道は整備されており、本陣跡や問屋場跡の碑がある。

 

 

 藤川宿は「むらさき麦」が名物で、芭蕉も「ここも三河 むらさき麦のかきつばた」と詠んでいる。

 

 

 西の棒鼻(京口)を過ぎると藤川の一里塚がある。日本橋より七十九里目である。

 

 

 さらに進むと、藤川の松並木がある。約一キロにわたり90本のクロマツがそそり立つ。

 

 

 また雨が激しくなってきたので、藤川駅まで引き返し、東岡崎まで電車で行く。五時近くになったので、今日の宿「スーパーホテル岡崎」に投宿。ブラジルの女子バレーの選手であふれていた。天然温泉につかり、疲れをとってから居酒屋に行く。鹿児島の屋久島から岡崎に引っ越してきたという若い女性と焼酎談議に花を咲かせた。

 

 

2023年9月11日(月) 雨  岡崎宿から知立宿 15㌔

 

 朝から雨、思い切って外に出る。岡崎藩は小藩であったが、家康が生まれた岡崎城の城下町であり「5万石でも岡崎様はお城下まで船がつく」と唄われ、矢作川の船運が盛んで「その賑わいは駿府に次ぐべし」と言われ、東海道の宿場町では3番目の規模を誇った。東西の本陣跡は残っていなかったが、宿の真ん中に「銘菓あわ雪」で有名な備前屋がある。

 

 

  岡崎二十七曲がりと呼ばれる屈折の多い道筋となっており、ものすごい大雨の中、道に迷い迷いしながら歩く。「二十七曲がり」は城下の防衛とともに多くの商家を建ち並べる工夫ともいわれている。

 

 

 いたるところに「どうする家康」ののぼり旗が立っている。

 

 

 少し小止みになってきたので、岡崎城址がある岡崎公園に行ってみる。さすがに観光客でにぎわっていた。『どうする家康ドラマ館」もつくられていて商魂たくましい。

 

 

 公園を出て、知立宿目指して歩くが雨がやまない。八丁味噌で有名なカクキュー八丁味噌店に寄る。創業は1645年。八丁味噌は三河武士の兵糧であった。

 

 

 カクキュウを出ると矢作橋である。1630年架橋で当時の東海道ではその長さが一番であった。

 

 

 雨が降る中矢作橋を渡る。

 

 

 

 

 名鉄矢作橋駅から知立駅まで電車で行く。知立駅から少し戻って、知立宿の東の入り口まで歩く。知立宿は馬市や木綿市が立つ市場町としてにぎわった。松並木の周辺で市が開かれた。馬市之址碑がある。馬市は毎年4月末に立ち賑わった。

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 ここから宿の入り口。「池鯉鮒」で「ちりふ」と読む。それが知立(ちりゅう)となった。

 

 

 ゆっくり宿場を歩こうと思っていたら、集中豪雨となり、民家の軒先で30分ほど雨宿り。仕方なく豪雨の中、駅まで駆け足で戻る。宿場歩きは次回にし、名鉄線で名古屋まで行く。名古屋で味噌カツ丼を食べ、新幹線で帰宅した。

 

 今回は猛暑を覚悟して出てきたが、雨にたたられるとは思いもしなかった。いい経験となった。歩いた距離二日間で約25㌔。