2023年5月20日(土) 晴 見付宿から浜松宿 12.5㌔
新幹線と東海道線で磐田駅まで行き、天竜川を目指して歩く。11時、日差しが厳しい。大乗院という山伏がいた寺があった坂を歩くと、くろん坊様というお宮があった。物盗りに殺されたインド人の旅僧を祀っている。
街道には名残り松が散見される。
しばらく行くと、この辺りの郷村の社となった若宮八幡宮がある。毎年10月に奉納される相撲の立派な土俵があった。
天竜川の渡しを控えた「間の宿」の長森立場名物の「長森かうやく」は、あかぎれや切り傷に効くと評判の薬だった。
いよいよ天竜川を渡る。信州諏訪湖に源を発し、流末は遠州灘に注ぐ。「暴れ天竜」と呼ばれた。
天竜川の船賃は武士はただ、民百姓は六文、伊勢参詣人は三文であった。
渡り終えて、土手を降りると天竜川渡しの守護神の六社神社がある。横には船橋・木橋跡の碑がある。
道なりに歩いていくと、資材を投じて天竜川の治水事業に尽力した金原明善翁の生家があった。
昼も過ぎたので、とんかつ屋に飛び込んで、生ビールととんかつ定食で腹を満たす。日差しはますます厳しくなり歩くのもつらくなってきた。かなり歩いたところに、龍梅寺があり、境内に「焼餅地蔵尊」がある。焼餅を供えれば願い事が叶うそうだ。ここで一休み。
しばらく行くと馬込の一里塚跡があった。日本橋より六十五里目。
馬込川に架かる馬込橋を渡ると、浜松宿である。浜松宿は浜松城の城下町として栄えた。しかし、宿場の面影はなく大都会になっていた。
高札場跡と本陣跡の看板があるのみだった。
大河ドラマで賑わう、浜松城に行ってみた。今川領の時は、引間城と言ったが、家康が奪取して新城を築いた。引くは縁起が悪いと浜松城に改称した。家康は17年間の在城中に三方ヶ原の合戦に大敗したり、正室の築山御前と嫡子信康を失うという辛酸をなめた。
今日はここまでとして、予約したホテルに泊まった。歩いた距離は14㌔。
2023年5月21日(日) 晴 浜松宿から舞坂宿・新居宿 17㌔
朝7時半にホテルを出て舞坂めざして歩き始める。長畷道をしばらく行くと「若林の一里塚跡」がある。日本橋から六十六里目である。
すぐそばに、二ツ御堂がある。藤原秀衡の愛妾が、京で秀衡が亡くなった(誤報)と聞きここに阿弥陀堂を建立して亡くなった。秀衡は奥州への帰国の際、この愛妾の菩提を弔うため薬師堂を建立した。
名残りの松がある道を進む。やがて諏訪神社がある。信州諏訪神社を勧請したもの。朝の涼しい風の中で一休み。
しばらく行くと、高塚駅入り口の看板。JR東海道線高塚駅に乗り、一つ先の舞坂駅で降りる。降りてすぐ、松並木が始まる。正徳2年(1712)1420本の松が植樹され、うち340本が残っている。
松並木の中に、「浪小僧像」がある。地引網にかかった浪小僧を助けるとお礼に、「時化」を太鼓で知らせるようになった。
松並木を過ぎると舞坂宿である。東見附跡には石垣が残っていた。
舞坂宿は「今切の渡し」を控え大いに賑わった。海苔の養殖が盛んになり、一大名物となった。宿場らしい町並みが残されており、茗荷屋脇本陣が公開されていたので、のぞいてみると歴史資料が陳列されていた。案内役のおねーさんに写真を撮ってもらった。
街道の陸路はここで途切れて、、この先の新居宿までは船でしか渡れなかった。このため、ここを「今切の渡し」といった。渡船場(雁木)が残されている。
湖岸では釣り人や、写生に来ている大勢の人がいた。
今では、新居宿まで陸続きになっており、すぐ近くの弁天島には温泉もあって、リゾート地になっている。JR弁天島駅から一つ先の新居町駅まで行く。新居宿は新居関所、今切渡船場を控えた特異な宿場として栄えた。関所内に渡船場があり「入り鉄砲出女」を厳しく取り締まった。
本陣跡や寄馬跡の碑が建っていた。
今日はここまでとし、新居町駅から浜松駅まで戻る。浜松名産ウナギを食べてから、バスで浜名湖舘山寺温泉まで行き、一泊して翌日帰った来た。
え