2021年10月10日(月) 雨のち曇り 三島宿から沼津宿を経て原宿 13.3㌔

 

 新幹線で三島まで。10時20分から歩き始める。はじめは曇りだった。三島宿の京口(西口)の西見附が秋葉神社の前にあった。

 

 

 

 境内には千貫樋の碑がある。天文24年(1555年)今川氏と北条氏が和睦し、証に北条氏康は小浜池から樋(とい)を築き今川氏真に送水した。この費用に銭千貫を要した。ここで三島宿は終わり。

 

 

 急に雨が降ってきた。傘を差しながら進むと宝池寺の一里塚と玉井寺の一里塚があった。両塚は江戸より29里目である。

 

 

 

  この辺りから雨が強くなってきたので、しばらく雨宿りして長沢バス停から伊豆箱根バスに乗って沼津駅まで行く。駅前で昼飯を食べ、小雨の降る中、沼津宿を歩く。沼津宿は狩野川河口に開けた港町で江戸への廻船で栄え、沼津藩5万石の城下町として栄えた。

 駅前の繁華街から、旧東海道川廓(かわくるわ)通りを通って宿場の中心地に進む。

 

 

 広重は満月の夜の宿場を描いている。

 

 

 旧道には本陣や脇本陣跡の標石が並んでいる。

 

 

 沼津宿の京口を過ぎ、千本浜公園を左に見て進む。また、土砂降りの雨になり、民家の軒先で雨宿り。西間門八幡宮の参道口の石垣上に「沼津藩傍示杭石」がある。沼津藩領の西堺に設置されたものである。

 

 

 雨も上がり、諏訪と呼ばれる地区を歩く。武田家が没落すると旧臣はこの地に帰農し、武田家の守護神である諏訪社を祀った。

 西小諏訪バス停から富士急シティバスに乗り三本松バス停で降りて、原宿を目指す。しばらく行くと原宿の東木戸跡があった。

 

 

 

 さらに進むと、「白隠禅師誕生地碑」がある。「駿河に過ぎたるもの二つあり、富士のお山と原の白隠」五百年に一人の名僧といわれた臨済宗中興の祖白隠が生まれたところである。

 

 

 原宿は小宿であったが、富士を間近に望む宿として人気があった。渡邊本陣跡がある。渡邊家は、阿野全成(頼朝の弟)の末裔で問屋、年寄、名主を兼ねた。

 

 

 原駅入り口の先に「白隠正宗」の蔵元高嶋酒造がある。山岡鉄舟が命名した。

 

 

 西木戸跡を過ぎると、沼川第2放水路があり、広重はこの辺りから雪の富士山を描いた。

 

 

 今日はここまで、歩いた距離は約10㌔。原駅から沼津に戻り、三交インホテルに泊まった。夜は「白隠正宗」と沼津産の刺身盛り合わせを堪能した。

 

 

2022年10月11日(火) 晴 原宿から吉原宿 11.2㌔

 

 昨日と打って変わって快晴。8時9分の東海道線で沼津から東田子の浦駅まで行く。駅前から見た富士山は雄大であった。

 

 

 右に富士山を見て歩く。間の宿柏原本陣跡の標識。茶屋が軒を連ね茶屋本陣があった。

 

 

 日蓮宗の立圓寺、この寺から見る富士が絶景とする「望嶽碑」がある。

 

 

 昭和放水路あたりから見る富士が見事。

 

 

  車の往来が激しい。しばらく道なりに歩いていると毘沙門天の看板。日蓮宗妙法寺で、毘沙門天を本尊としている。「だるま市」は高崎、深大寺と並ぶ日本三大市の一つ。

 

 

 この辺りから製紙工場が多くなる。1960年代の田子の浦ヘドロ公害の源となった製紙工場群である。

 

 

 吉原駅北口を過ぎ、河合橋を渡ると名残松がある。

 

 

 高速道路の下をくぐりさらに進むと、左富士神社がありその先に名勝左富士の碑がある。江戸から京に向かって富士が左に見えるところはここと南湖だけ。

 

 

 さらに進むと、平家越え橋に出る。源平富士川の合戦の際、ここに平家が陣を張ったが、水鳥の羽音に敵襲と驚き京まで潰走した。

 

 

 吉原宿の江戸口の東木戸跡がある。やっと吉原宿に着く。吉原宿は2度大津波に襲われ、天和2年(1682)、この地に3度目の移転をした。水に恵まれた駿河半紙が名産であった。

 

 

 吉原宿の現在は商店街通りになっており、シャッターが閉まった店が多い。

 

 

 本陣跡が近藤薬局に、脇本陣跡がおもちゃのキムラになっている。

 

 

 

 創業天和2年(1682)山岡鉄舟や清水次郎長の定宿であった旅籠鯛屋与三郎。今でも旅館として営業している。

 

 

 今日はここまでとして、岳南鉄道吉原本町からJR吉原駅まで行き、三島から新幹線で帰宅する。歩いた距離は約8㌔。