令和元年10月3日(木)曇り  小金井宿から雀宮宿  約12キロ

 

 JR宇都宮線自治医大前に9時40分に着き、歩き始める。国道を左折し一本目を右折して旧道を歩く。角に、小金井宿本陣の大越家の蔵があり、大きな屋敷を構えていた。

 

 この旧道は「笠原旧道」といい、江戸時代は街道の左右に樹木が茂り雨も漏らぬように見えたそうだ。今は、田畑が広がり左に日光連山、右に筑波山が眺望できるとのことだったが、残念ながら曇っていて見えなかった。キャベツ畑が広がっていた。

 

 

 旧道の突き当りを右折し、国道に合流する。このあたりは薬師寺村といい、天武天皇の皇后(のちの持統)の病気平癒祈願のため薬師堂を建立したという伝承を持つ。しばらく進むと、正門わきに巨大な慈母観音立像があった。丸大食品の関東工場だ。創業者が信仰していたのだろうか。

 

 車の往来が激しい中、4号線を歩く。下石橋北の交差点脇に、江戸時代の石仏石塔が立っていた。

 

 しばらく行くと愛宕神社の参道が見えてくる。このあたりから石橋宿に入る。石橋宿は幕府直轄領の宿で、旅籠が30軒ほどあり代官が支配していた。愛宕神社の参道口辺りが石橋宿の江戸口であった。

 

 本陣があった井澤家は代々「新右衛門」を襲名し、名主を兼ねた。今は、「井澤茶舗」となっていた。

 

 その先に、真言宗の石橋山開運寺がある。将軍日光社参の際「御殿所」となり、葵の門の使用が許可された。土塀は城郭様式で銃眼や矢狭間がある。山門前には「明治天皇御休処」の碑がある。

 

 さらに進むと、下古山という辺り。東照宮造営後に開かれた村で石橋宿の助郷村であった。ひたすら国道を歩く。やがて下古山と上三川町の境を通る。腹もすいたのでチャーハン専門店で昼食とする。生ビールと春巻きそしてチャーハン、うまかった。

 この辺は鞘堂新田村という。1380年小山と宇都宮の戦い(茂原合戦)で多くの戦死者を出し、村人が戦死者の刀の鞘を拾い集め、ここに埋葬し堂を立て石地蔵を安置したところである。

 

 鞘堂新田村の鎮守、星の宮神社がある。人々の背負う星々(一生)を守護しているそうだ。北関東自動車道の高架をくぐり歩き続ける。今度は茂原村というところに出る。宇都宮藩領だったところ。いよいよ宇都宮市に入る。

 

 このあたりの村の年貢米は皆、思川の河岸で江戸まで運ばれたそうだ。陸上自衛隊宇都宮駐屯地の手前に公園があり、そこに「南無妙法蓮華経」の題目碑が建っていた。明治時代のものだ。

 

 しばらく行くと、雀宮宿に入る。日光道中の整備に伴い、雀宮村が開かれ宿場となった。一里塚があったが今は不明。江戸日本橋から25里目、ちょうど100キロ歩いたわけだ。安塚街道入口が、雀宮宿の江戸口で木戸と土塁があった。

 雀宮の由来は、歌人藤原実方が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾があとを追ったが途中でなくなてしまう。夫も任地でなくなり、霊魂が雀となって綾の墓まで飛来したが、そこで息絶えてしまった。里人が憐み墓の上に神社を祀り供養したのが由来である。

 本陣跡の碑があり、その向かい側の脇本陣跡には新しく仮本陣が建てられていた。

 

 ちょうど雨が降ってきたので、今日はここまでとして、JR雀宮駅から帰宅。2時30分