60年前、小学1年の冬。風邪をこじらせ、耳が全く聞こえなくなり、西原村から熊本市内の病院まで通院することになった。

 治療のあまりのつらさに、「聞こえんでいいけん、やめて」と暴れていたところ、付いてきてくれた父が私の手を痛いほど握り、何かを言った。私は泣きながら我慢した。

 最後の通院日。父は当時、水前寺公園の近くにあった動物園に連れて行ってくれた。園内でおはじきや綿あめを買ってもらい、帰りの参道で小さな食堂に入った。他にはだれもいなかった。

 父は親子丼を一つ頼んだ。テーブルに置かれた丼を、父が「おいしいばあい。熱いうちに、早う食べなり」と差し出したその時、着物姿に前掛けをしたおばあさんは「食べないなら、外で待っていてください」。父はお金を払い、外に出た。

 食べ終えた私は「ああおいしかった、初めて食べた」と出て行った。父は私の頭を優しくなでながら、「よかったね」と言った。

 その時は、何も分からなかった。貧しかった頃、バス代と病院代で、父は食べなかったのではなく、食べられなかったのだ。

 今でも忘れられず、父の命日には米粉の団子のほかに親子丼をお供えする。「父ちゃん、あの時は1人で食べて本当にごめんな」手を合わせると、涙が出る。

 震度7の2度の地震で、父の建てた西原村の家はなくなり、みなし仮設のアパートにお世話になっている。父ちゃん、私が大好きな故郷西原村へ、早く一緒に帰ろうな。手足が不自由になったけど、私も頑張るけん。家ができて帰れるその日を夢見て。

 あと何回、親子丼が作れるかな。

 

熊本日日新聞2017年9月23日朝刊 「生きる」 泉田篤子さん(67)     元和裁業 合志市 投稿より引用

 

 苦しみや辛さを経験してふと親の愛情を思い起こすことがあります。貧しい時代に自分を顧みずひたすら私たちに愛情を注いでくれました。連綿と続く親の恩。貧しかったけれど懸命に生きてきた家族。そして両親の苦労を思いやる、そんな心が繰り返されていきます。