ELPの「ナットロッカー」のオリジナルは? | 鳥肌音楽 Chicken Skin Music

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前回の記事の中でピアノが印象的なシングルとして挙げられていた中の1曲、エマーソン、レイク&パーマー(EL&P)の「ナットロッカー」について少し。この曲を初めて聴いたのは中学1年の1972年、友人の家で『展覧会の絵』を聴かせてもらった時でした。調べると『展覧会の絵』の国内盤は72年の初めに出ているみたいなので、リアルタイムとは言わないまでも発売年のうちには聴いたという感じです。当時ロックを聴きだしたばかりだったのですが英国産のハード・ロックやプログレが日本でも一世を風靡している頃で、特にプログレについてはProgressive Rock=進歩的なロックというだけでロックの中でも一段上みたいに勝手に思い込んでいました。とはいえピンク・フロイドやキング・クリムゾン、ジェネシスなんかは敷居が高く、いちばん分かり易かったのが音楽の授業で聴かされ、退屈だったクラシックの名曲を外連味を利かせてロック化していたEL&Pでした。

 

 

友人の家で聴いた『展覧会の絵』の本編は少々、退屈だったのですが、本編後にアンコールとして収録された「ナットロッカー」は原曲がチャイコフスキーの「くるみ割り人形」という誰もが知っている有名曲を素材にしてエマーソンがまさに鍵盤を叩きまくるポップなロック・インストになっていて一発で気に入ってしまいました。「くるみ割り人形」の英題が「Nutcracker」なのをロックにアレンジしているので「Nut Rocker」としているのも洒落てるなぁ、さすがは「進歩的なロック」やなぁなんて、今から思うとウブの極みという気がします。

 

 



それから数年たって70年代の終わりごろでしょうか、安価なのでたまたま買ったオムニバスのヒット曲集の輸入盤LPを聴いていたら聞き覚えのあるメロディが流れてきました。あれっコレってEL&Pの「ナット・ロッカー」やん、でもなんか音が違うよなーと裏ジャケのクレジットを見るとB. Bumble and the Stingersの「Nut Rocker」となっています。なんやねんコレ?

 



今みたいに分からなければネットで検索なんて時代ではなく、情報といえばレーベルに書かれたPvotr Ilvich,Tchaikovsky,Kim Fowleyという作曲者名と1962年という出版登録クレジットだけ。とにかく「ナット・ロッカー」はEL&Pがチャイコフスキーをアレンジしたものではなくて62年のB.バンブル・アンド・ザ・スティンガースというバンドがオリジナルだったということは推測できました。今だとキム・フォウリーという名前にひっかかるところなんですが、当時は誰それ?でしたしね。

ということで改めてB.バンブル・アンド・ザ・スティンガースについて調べてみることに。

米ウィキに書かれた説明では。

>B.バンブルとスティンガースは、1960年代初めのアメリカのインストゥルメンタル・バンドであり、クラシックのメロディーのロックンロール化するスペシャリストでした。彼らの最大のヒットは、米国では21位に達した「Bumble Boogie」、そして1962年に英国シングル・チャートで1位になった「Nut Rocker」でした。 レコーディングは、ロサンゼルスのランデヴー・レコード(Rendezvous Records)のセッションミュージシャンが行い、彼らが成功すると、R. C. Gamble(1941年11月3日 - 2008年8月2日)を「Billy Bumble」とするツアーグループが結成されました。

B.バンブルとスティンガースはスタジオ・ミューシシャンによる覆面バンドだったんですね。DiscogsによればメンバーはAl Hazan, Earl Palmer, Ernie Freeman, Jan Davis, Lou Josie, Plas Johnson, Rene Hallといった面々のようです。ドラムはアール・パーマーだったんですね。彼らが覆面バンドを始めたきっかけは、いつもみんなで”スタジオから一歩も外に出ずにお金儲けをする方法はないか?”なんてことを話し合っていて、ある日アール・パーマーが「イン・ザ・ムード」をロック・バージョンでやったら受けるんじゃないかと提案し、みんなも賛同し当時バックを務めていたトロンボーン奏者のアーニー・フィールズ・オーケストラ(Ernie Fields Orchestra)名義で59年にシングルを発表。これが全米4位の大ヒットとなり、メンバーの狙い通り”スタジオで金儲け”に成功し味をしめたということみたいです。
 



次に彼らが考えたのはクラシックをロック化することでした。ここで登場するのが架空のバンド=ハリウッド・アーガイルズの「アーリー・ウープ」で1位を獲得したり、ポール・リヴィアとレイダースのインスト・ヒット「ライク・ロング・ヘア」をスマッシュ・ヒットさせていたキム・フォーリーでした。フォーリーは48年のディズニー映画「メロディ・タイム」の中で使用されていた、元々はリムスキー=コルサコフの「熊ん蜂の飛行(Flight of the Bumblebee)」を フレディ・マーティンと彼のオーケストラ(Freddy Martin and His Orchestra)のピアニスト、ジャック・フィナがジャズ・アレンジした「バンブル・ブギーバンブル・ブギー(Bumble Boogie)」をロック化して録音することを企てます。

 



アーニー・フリーマンのグランド・ピアノとホンキー・トンク・ピアノをフィーチャーしパーマーのドラム、レッド・カレンダーのベース、そしてギターはトミー・テデスコというゴールド・スター・スタジオ御用達のメンバーで録音された「バンブル・ブギー」は曲名をもじったBバンブル&ザ・スティンガース(B. Bumble and the Stingers)名義で61年春に発売され、これまた全米21位のスマッシュ・ヒットとなります。
 



次はいよいよBバンブル&ザ・スティンガースの「ナットロッカー」となるかと思いきや、ここでもうワン・クッションあるのが海千山千の山師が跋扈していた米音楽業界の面白いところ。「バンブル・ブギー」がヒットはしたものの作者クレジットはブギー・アレンジをしたジャック・フィナとなっていたため一切印税の恩恵を受けることのなかったフォーリーは自分が大儲けできるレコードを作ろうとします。そしてチャイコフスキーの「くるみ割り人形」の行進曲の権利を得たフォーリーは「バンブル・ブギー」のアレンジをしっかりと真似て H.B.バーム(H. B. Barnum)というピアニストを使いデル・リオ(Del Rio)というインディーズからジャックB.ニンブル&ザ・クィックス(Jack B. Nimble and the Quicks)名義のシングル「ナットロッカー」を62年の初めに発売します。作者クレジットはもちろんキム・フォーリーです。

 



このレコードを聴いたランデヴー・レコードのオーナー、ロッド・ピーアス(Rod Pierce)は”パクりやがってこの野郎”と怒るかと思いきや、こっちも海千山千、”これやったらうちで録音したほうがヒットするレコードにできまっせ。”と考え急遽Bバンブル&ザ・スティンガースのメンバーをスタジオに召集します。ところが肝心のピアニスト、アーニー・フリーマンは前日のパーティの二日酔いで現れず、バンマスのレネ・ホールは代わりのピアニストとしてアル・ハザン(Al Hazan)を使いレコードは録音されます。ろくに練習もしていないアル・ハザンなので何テイクか録音するかと思いきやロッド・ピーアスはワン・テイク目でOKを出したのだとか、いかにレコードにするのを急いでいたか分かるエピソードです。

 


62年1月に発売されたBバンブル&ザ・スティンガースの「ナットロッカー」は米国でこそ23位のスマッシュヒットでしたが英国ではなんとNO.1のヒットとなります。このヒットを聴いていたのが当時18歳のキース・エマーソン少年で、ひょっとしたらこの曲のおかげで後のザ・ナイスやEL&Pでのクラシックとロックの融合というアイデアを抱いたのかも知れないと考えれば『展覧会の絵』のアンコールとして「ナットロッカー」をほぼコピーで演奏したのはBバンブルへのトリビュートの意味もあったのでは。

さて、スタジオだけの架空のバンドとはいえ、これだけヒットが出るとツアーやTV出演のオファーが殺到します、しかし実際に演奏したメンバーたちはセッションの予約がいっぱい。そこでウィキにも書かれていたように例によってツアー用のバンドが結成されることとなります。名前が似ているからか、オクラホマのギタリストR.C.ギャンブル率いるバンドがB.バンブル&ザ・スティンガーズとして活躍したとのこと。ホントアメリカの音楽業界は伏魔殿のような処ですね。

 

 

72年のTOTPということはELPのヒットで再注目を受けたということなのでしょうね。