名古屋市国際会議場


久し振りの訪問だった。

記憶の限りでは、2016年9月24日の日本フェザー級王座決定戦、林翔太(畑中)と上野則之(RK蒲田)の一戦以来だろうか。

この時の青コーナーにも柳光会長がいらっしゃった。


愛知で行われる興行のほとんどが、刈谷市産業振興センターあいおいホールになって久しい。


自分が名古屋に赴任していたのは2005年の3月から2014年3月の約9年間。


その時は名古屋市公会堂を使用していた末期だろうか。


名古屋市公会堂があまり使われなくなってからしばらく、名古屋市国際会議場こそ名古屋ボクシングのメッカであったと思う。


刈谷市産業振興センターの倍する集客を可能とする会場。

そしてその時代のメインを担ったボクサーこそ、大場浩平だった。


大場浩平が名古屋のスペースKジムの所属としてリングにあがった30戦。

その内の18戦をこの会場で戦っている。


常にメインイベンターだった訳ではない。

ベランサから世界ランクを奪った試合やツニャカオとの初戦は杉田竜平メインのセミ。


杉田竜平がランディ・スイコに玉砕引退後にメインで戦うことが増えていくわけだけど、2006年12月に行われた中部の日本ランカー5人を揃えて「五大メインイベント」と銘打った畑中ジム興行のトリを勤めたのは世界ランカー大場浩平ではなく、同ジムの日本ランカー岡橋龍一だった。


個人的には意外に思ったのだが、名古屋市国際会議場におけるテレビマッチでのメインは日本タイトル挑戦の時まで待たなければならない。


その後は5度の日本王座防衛を果たすなど、真に中部のボクシングを牽引していくことになる。



でもメインイベンターだから、

そして日本チャンピオンだがら、

だから名古屋のメインを担っていた、

という訳ではない。



菅原雅兼さんが2005年の6月に東洋太平洋タイトルを失ってから、しばらく無冠の時を重ねる中部ボクシング界。


でも名古屋には大場浩平がいた。


全日本新人王獲得後も度々後楽園ホールのリングにあがり、印象的な勝利で無敗を続けていた大場浩平。


ツニャカオ初戦でその進撃に少しだけ傷が付き、傍から見たらその後の2年間は停滞の期間にも感じられた。

タイトル獲得でも、和賀寿和や長縄正春に先を越された。


しかしそれでもなお、この時期の名古屋で世界を語るには、大場浩平しかいなかった。

名古屋のリングを去るその時まで ー






大場浩平が中部のリングに帰ってくるらしい。

2010年11月の中岸風太との一戦以来、10年以上の時が流れた。


なぜ今になって?とは問わない。


一度は引退した身である。


「終わり方」は大事である。


そして自ら望む「終わり方」をした選手は稀であるとも思う。


それでもそれぞれに、自分なりの「終わり方」があるのだろう。

例えそれが、当初自分が思い描いていたものではなくても、

キャリアを積み、現実を受け入れる中でその形が変わっていったものだとしても。



大場浩平ほどのボクサーにこんな事を言うのは失礼かもしれない。


そしてボクサー定年の37歳直前である今、約6年振りに再起した前戦の完敗から、リングに上がる事自体を危うく思う人がいるかもしれない。


何より大場浩平にとって、「終わり方」を問うこと自体が違うことなのかもしれない。


それでも ー


絵が得意な大場浩平。

ホープ時代、その作品がボクシング誌に掲載されたこともあった。


何も知らない傍観者がおこがましいかもしれないが、最後に(と言っていいのだろうか?)リングで今の自分が納得のいく絵を描いて欲しい…


今はそう思う。